美術について、あらためて話すことなど、何かあるだろうか。
美術なんて、ほんとは、みんな、もう、よく知っているものなのではないか。
ある脳性麻痺の人が、コップから水を飲んでいた。それを見ていた人が「がんばっていますね。」と声をかけた。彼は困った顔をして、「いや、がんばっているわけではない。僕は、水を飲んでいるだけだ。」と答えたという。
私たちは、私たちが、一人一人違う人間だということを知っている。では、一人一人違うということは、具体的にどういうことなのだろうか。コップから水を飲む、という作業が、1秒で終わる人と、5分かかる人がいるということが、同じ重さで肯定されるということが、あたりまえだということだ。
見た目には、みんなが、毎日、同じような生活を繰り返していながら、一人一人違う人間は、一人一人違う生活経験を組み立ててゆく。その生活経験の積み重ねで、その一人一人の世界観−自分を取り巻く状況のつじつま合わせ−や、人生観−自分の内側でのつじつま合わせ−が、個人の中にできあがってゆく。
美術は、その個人の世界観や人生観を、表現へと昇華したものだ。
一人の人間がそこに存在し、そこに自分がいることによって起こる毎日の様々な出来事の、つじつまを合わせ、肯定してゆく。その毎日の積み重ねによって作られる、ものの見方、見え方を描いてみる。うまいへた、丁寧乱雑、大小、明暗、色合い、その他様々の全部を含めて、そこに描き出されたものが、全部違うということこそが、私たちが今ここにいるということの証明なのだ。
自分の表現を、美術としてみんなに見てもらう、という行為には、たぶん、障害があるかどうかという問題は、ほとんど存在しない。今、ここに私がいる。そして私は、このように世界を見ている。ただ、それだけを、真摯に描いているかどうかだけが、問われる。真摯に描く、ということは、自分を解放し、その人にとって本当のことだけを、いかに(様々な意味で)楽しく描くか、ということである。そうすれば、そこに、楽しく、思いを込めて引かれた一本の線は、描いている私のすべてを、多くの言葉を重ねるより雄弁に、物語ってしまう。
さて、描いたあなたがそこにいる、ということは、見ている私はここにいる、ということでもある。好き嫌いを越えて、誰かが一生懸命描いた作品を、真摯に、丁寧に見る。うまいへたを越えて、描いてあるものを、真摯に丁寧に見る。その表現が美術の作品になるかどうかは、実は、見る側の人にほとんどゆだねられていると言って良い。私はここにいて、そこにいるあなたの世界を見ている。私たちの世界観は本当に一人一人違っていて、いかにもバラバラであるかのようだけれど、私たちは、人間という大きな枠の中から出ることはない。美術は、表現する人の今を確認し、その人のそれまでの世界を拡大するだけでなく、その表現を見る人の世界観と人生観も互いに拡大させてゆく。
時間は全ての人に等しくすぎ、その人どのような状況にあれ、真摯に表現する人の表現には、その人がが生きただけの時間−正直真剣にそして寛容に生きた時間が、技術を越えて表れてくる。この絵を描いた人たちにはそれが強くある。
絵を見るときに、誰が何を描いたのかということを含めて、その絵を取り巻くモノやことは、あまり気にすることはない。その作品から、直接見えることだけを基に、見ているあなただけのお話を始めてみよう。そうすれば、ここに展示されている作品達が、いかにたくさんのお話を持っているかがわかる。
大丈夫、私たちは既に十分に知っている。「絵を描くことは難しい。」「絵を見るときに最も大切なのは、好き嫌いであって、うまいへたは、その次の次。」「美術ってごく個人的。」そして、「私たちは、一人一人違う人間だ。」
私たちは、みんなよく知っていて、学校の授業でやった美術の制作なんかでも、何で私の絵が、誰かに「評価」されなきゃならないんだと、ちょっと疑問に思っていたりした。
実に、まったくそのとおりなのである。
私たちは、立体の中に生きている。だから、それを絵、すなわち平面に変えるという作業は、大変難しく、奥深いのは、あたりまえなのだ。一般的には難しいので、たぶん、私たちの社会には、絵を描く才能のある人と、意欲のある人が、必要なのだ。
絵を描く行為は、その人が他の誰でもない、その人だということを、描く人、見る人、みんなで確認する作業である。個人の存在が、きちんと認められた世界でないと、この行為−美術−は、成立しない。人にはその人だけの時間の流れや世界の見方があり、その人の絵は、その人のその流れや見方を基に描かれる。そこにあるのは、私の知っている世界ではなく、それを描いた人が見ている世界なのだ、ということを肯定するところから、美術を見ることは始まる。肯定された、一人一人違う世界の見方が集まって初めて、私たち一人一人の世界観は、より豊かに広がってゆくことができる。
「学校」での「授業」だったから、あの美術は、あのようなもので、しょうがなかったのだ。でも、今、ここに展示されていて、私たちが対面しているのは、「ただ」の「美術」。自分の世界の捕らえ方を、正直、真剣に表現している。正直、真剣に、あなたの世界観を展開できるか否かが、見る人としてのあなたに問われている。
さて、私たちの社会では、「美術」は成立するのだろうか。