短く本質だけを話したい。児童とは何か。美術とは何か。そして、教育とは何か。検討の延長線上に、小さい人たちとやる美術の大切さが見えてくるのではないか。
児童とは、社会的な常識を、自分の中に組み立てている途中の人たちのことである。初めて保育所に来た人たちを注意深く観察するとわかるが、たとえば、水が飲みたいということを伝える方法は、最初、個人ごとにすべて違っている。そこで、大人は、集団の中で、そのことを伝える方法(常識)を少しずつ、彼らに教える。のどが渇いた感じの時は、「水が、飲みたい」と、言えばいいのだ、というふうに。人生のごく初期、集団生活をする目的は、みなと同じことができるということよりは、私のまわりは、私がこれまで来た世界とは違う世界を各々持っている、ということを理解することなのだと考えた方が、小さい人たちとつきあいやすくなる。個性は既にそこにある。
美術とは、端的に言ってしまえばビックリすることである。そしてビックリすることを通して、その人の世界観を拡大する。ビックリの直接的な表現である美術作品は、その個人的な世界観の拡大を、人間全体に普遍化する。たとえば、私たち東洋の人は、ごく最近まで、私の視点は、ここにいる私が、ここから見ているものだと言う見方とは異なる方法で視覚表現をしてきた。私たちは東洋的な視点によって私たちを取り巻く世界を見てきたから、背景などというものはほとんど意識の外にあった。私はここに一人でいて、ここから外を、私を取り巻く外を、見ている、という西洋的近代市民の自立した自我の視点は、だから、東洋人である私たちに大きなおどろき(ビックリ)を与え、個人が集団となって形作る社会の有りようにまで、少なからぬ具体的な影響を与えた。年齢を問わず、理解している世界観以上の世界は、誰も描くことはできない。
そして教育とは、その社会を形作る個人の、健全な人格の形成を助けることである。教育は、その根元のところで、ごく個人的なもので、その人間個人の生存に関するすべての知識と技術の、獲得と練習であるといえる。今、私たちは、西洋的近代社会を形作っている。だから、ある程度は、まとまった共通の知識(常識)を必要とする状況にいる。それは、私たちの国では学校というシステムで、義務的に行われる。学校で行われる教育は、基本的に集団に帰属する方向へ導く教育−個人を均一化する教育であるといえる。それは、教育のごく特殊な一部であって、学校教育が、教育のすべてではない。教育は個人の内部で、様々な情報を個人的に組み立て直しながら行われ、その個人の人生観(内的つじつま合わせ)と世界観(外的つじつま合わせ)とを形作ってゆく。形作ることそのものが教育なのであって、その方法を伝えることだけが教育なのではない。
さて、乱暴であることは承知の上で、このように考えてくれば、児童美術教育の重要性と方向性が、見えてこないか。
自分の外側(世界)の確認と、内側からわき起こるもの(感情)の表現。それらが、自分にはあって、みんなにもあり、各々尊重されつつ、私たちがいる。私は、ここにいて良いのだ、という自覚。まず、個人の肯定があり、それら肯定された個人の集団としての社会がある。美術は、このようなことを一々細々とは言わないが、一目でわかる形で、常に私たちとともにその最前線にいる。いろいろな人がいて、様々な考え方がある。しかし私たちは全員人間なのだから、なんとか相談しながら、社会を作ってゆく。一人一人違うことが肯定的に普通である社会でないと、私の表現という考え方さえでてこない。美術は、それがみんなのものになったときから、人が社会の中で人生を送ってゆくときの心強い同行者だったのだ。そのことを知るのに年齢制限はない。
小さい人が描いている世界は、大人である私が、描いている世界とはまるで違うように見えるけれど、それは、絵を描くのがへただということではない。見える世界が違っているということだ。そしてしかし、その世界は、私が通ってきた同じ道へと繋がっている。健全な大人になるために、今の子供の時代がある、と考えれば、その時期、学習し理解されて表現される世界は、どのようなものであればいいのか。個人のものの見方の内側と外側。そこにあるものに対する認識と表現。それらのバランスの上に立った世界観の拡大。大人になるためのものの見方のすべてが、小さい頃のその個人のものの見方の肯定され具合にかかってくる。その自覚に立った手のさしのべ方をこそ、子どもと関わるものは、注意深く、ていねいに、考えたい。