鑑賞の実際  本物を見ると言うことは、何を見ることなのか

 鑑賞を「表現行為」として行うには、作品と対峙したときに、次のことを意識することが大切です。

1 作家の思いを含め、描いた人のことは忘れる。
2 美術館にあることを含め、権威にまつわることは忘れる。
3 キャプションを含め、作品を巡って字で書いてあることは忘れる。


 これまでの授業では、こういうことを気にせずに始めましょうと言うことになったら、それって、鑑賞なの?と言うことになりかねませんが、本物の絵と対峙したとき(そのために美術館に来たのでしたね)に、まず意識しなければいけないことは、実は、これらのことなのです。そして、これら外からの情報(知識)を「知ること」にエネルギーを使うことをやめてしまったときに、初めて、そこにある「作品」を注意深く丁寧に「見る」ことが始まります。
 そこで初めて、自分で見て、(他の人が見えることも借りながら)具体的に見えるものから読みとれる情報だけを使って、その絵を存在させている世界を考え、その世界の具体像を(創造的に)想像し、そこから、新たな世界像を(深く個人の興味にそって)読みとって「見る」ということが始まります。鑑賞の授業が目指すところは、そういうことができる人を創るということでしたよね。
 このような、「その人自身」が、「作品から読みとれることだけ」を使って、「自分のお話」を「組み立てる」作業。その行為の結果、各自が持っている世界観が、自然に拡大するという状況が起こる。そのことを「鑑賞」というのではないかと、私は考えています。
 ということを、今回は練習しました。基礎的な部分は常設展で、応用は、特別展「楽しむ空間・一歩前へ」で。今年の夏休みの造形研修会で行われたことをまとめれば、報告できるのは、これだけです。
 で、その研修の内容をこれから詳しく書こうと思うのですが、具体的なことをどれだけ詳しく書いても、参加した人にはすぐわかるのだけれど、参加しなかった人にはどうしてもわからない(伝わらない)のだよなあ、ということは、参加した人にはわかると思います。なぜか? 行われた活動が、形としてはまるで講義だったのだけれど、内容は「ワークショップ」とよばれる活動だったからです。教育の主体を、教育を受ける側にゆだねてしまうという教育方法。始まりも、結果も、それを受けた人のその後の自主的な変化にゆだねてしまうという考え方の教授法。
 だから、参加した人でも、面白かったからといって、活動をやった齋の話から、使えるネタをメモして、まねしてみても、たぶん上手くいきません。教育の実際では、そこに一緒にいて一緒に体験する以外、上手く伝わらないことや状況があることは、経験のある人にはわかると思います。今回の鑑賞の練習では、ワークショップの実際も含めて、鑑賞とは、個人にどのように起こるもので、それを通して、それをする子供達が、どのような大人になることを期待されるのか、というあたりをやってみたのです。見る活動の細かい枝葉の先、技術的な要点や、子供達の発言に絡んだ話のもって行き方、というような部分は、みなさんの方が上手で、経験豊富なところもたくさんある。でも、押さえるべきは、このあたりにあるということを、美術館では考えたい。押さえるところを押さえておけば、あとは、各自が、自分のキャラクターと話し方で、それを彼らに伝えてゆけばいいのです。みんなが各自の話し方と方法で、しかし押さえるべき所はみんな必ず伝えててゆく。そこにオリジナルで、生き生きした、その子供達のための授業が生まれてきます。あ、これって、あたりまえの授業のあり方ですね。
 では、鑑賞の授業で押さえるべきはどのあたりなのかについて考えてみましょう。
 美術館から見ていると、学校では「先生の知っていること」を子供達に「教える(又は伝える)」という形を、どうしても取ってしまうものだというふうに見えます。「鑑賞」もそのように行われがちです。考えればわかることですが、ものを見て判断する場合、依るべき基準として使うことができるのは、その時、その人の脳に、既に保存されている記憶、又は経験です。鑑賞するとき使えるのは、実はそれをしている人が既に知っていることだけなのです。その時、彼らに教えられることは、既に持っているモノの使い方だけで、新たな知識や技術が、今まさに使おうとしているその時点で入ってくることは、むしろ混乱や、自分の記憶・経験に対する自身のゆらぎにつながります。彼らに伝えるべきは、新しい見方ではなく、見ているものから読みとる方法と、それを基に、自分の既に持っている情報をどのようにそこに絡んで使うか、というような部分です。既に知っていることを縦横に使ってみることによって、もっと知るべき(知りたい)方向と深さが、自ずと見えてきます。無意識に「知らされる」のではなく、意識的に「知る」。ここのあたりのアドバイスをどうするかにも、年長者が関わるポイントが見えてきます。
 ふと気付けば、この状態は、絵を描いたり歌を歌ったりする「表現」をしているときの脳の働きと同じです。学校教育の中で行われる鑑賞は、決して受け身の「情報蓄積記憶的なもの」ではなく、「表現としてみる」行為のための練習なのです。
 私たちがこの歳になって、様々わかるようになってきた人生の機微を、絵から読みとるというようなことを、今10歳前後の人たちに正しく伝えるのは(こちらにも、そちらにも)無理が感じられますが、今その人が知っていることを使って、その人自身の世界観を拡大する方向に、お話を組み立てるというようなことだったら、少し歳をくっている人から、これから歳をとろうとしている人に向けて、何か伝える活動が、何とか組み立てられるような気がします。
 教えるべきコトの捉え方をちょっと変えれば、鑑賞の授業のやり方や目標はもちろん、学校教育の中で表現教科の存在する理由や、そこから発生展開するカリキュラムの立て方、そうなれば当然、評価の方向と方法についても、だいぶ簡潔明瞭な説明ができるようになってくるのではないかと、私には思えます。(了)  2560字