最近、絵画グループの展覧会を見る機会が多くて、そのため、通勤で歩きながら、アリとキリギリスと、彼らを巡るカラオケについて考えている。
イソップ物語の「アリとキリギリス」の話は知っているだろうか。夏に、アリが一生懸命冬に備えて働いているとき、キリギリスは、歌をうたって遊びくらしていた。冬になって食べ物がなくなると、キリギリスは、アリの家に物乞いに行くことになる。さて、ここまでは、だいたい同じにみんな知っている。で、あなたの知っているお話では、この後どのようにストーリーは展開していっただろうか。働かざるものは哀れな末路を見ることになる、で終わっていただろうか。たとえで考えるのは、様々な落とし穴が待っていることが多いと言うことは理解した上で、しかしこの話には、芸術を巡って考えることが多くあるように僕には思える。
まず、基礎的な学校(小中学校と、一部高校大学を含む)で「勉強」するものやことは、基本的には一般的な「アリ」を作るためになされているのだと言うことは、私たちの国では、みんなに自覚されているのだろうか。だからたとえば、そこで学ぶ図工や美術や音楽や体育(表現系科目と呼ばれる学科ね)は、決して「キリギリス」になることを目指してはいないことを自覚しよう。そもそも、キリギリスは、ほっておいても出てくるからこそ、キリギリスなのだ。練習してどうにかなるキリギリスは、その程度のことだ。練習を重ねただけでは超えられない、内からわき出るものを持っていて、かつ表現できるものが、キリギリスになる。誰でもなれるものではないし、むしろならなくて良いのだ。言わずもがなだが、みんなキリギリスになると、その社会はつぶれてしまう。ほとんどの人は、アリになる。できたら「良いアリ」になることを目指して基礎的な勉強はなされる。さて、「良いアリ」とは、どのようなアリか、ということについては、考えなければいけないのではないか。
あなたの知っている話では、冬にキリギリスが物乞いに来たとき、アリはどのような態度をとったのだったろうか。「夏に楽しい歌をいっぱい聴かせてくれてありがとう。どうぞ家に入って一緒に食事をしましょう。来年も又新しい歌をお願いしますよ。」私が知っている話はこう展開する。まず、歌を歌うことが、アリにとってもキリギリスにとっても、アリの仕事と同列の仕事として自覚されていないと、こうは話が進まない。又、アリはともかく、キリギリスにもその自覚を促すには、若干のプレッシャーをキリギリスに与え続ける方が良いのではないかと僕は思っている。絵なんか描いてないで勉強しなさいと言われ続け、それでも描きたい人が絵を描くキリギリスになっていく。キリギリスとは、どのような仕事をする係なのかについて正しい情報がなくても、アリはこういう態度をとれない。そのために、学校で図工を学ぶのだったのだ。決してキリギリスになるためではない。なりたい人は、学ぼうが学ぶまいが、キリギリスになっていく、ならされていく。
明日は、小学校の特殊学級の子供たちが美術館に活動をしにやってくる。だから、今日は、もう寝よう。この話はしばらく続く。