2008年 4月29日 空気の乾いた霞の空。暖かな晴れ。

 この前の日曜日の午後、時間を取ってもらって、胞夫さんのケアマネージャーTさんと担当のSさんと、今後の相談をした。最近の胞夫さんの状況を見るにつけ、これは、そろそろ様々な覚悟をしないといけないかと思い始めたのでの相談だったのだが、やっぱりしてみてよかった。そこまで覚悟があるのなら、全然普通で良いのよという感じ。今までの日程を逆にしてしまえば、問題はほぼ解決するのだった。専門家は、又専門家としての視点があるので専門家なのだ。こういうのは、早め早めだね。
 で、単純な私はすっかり気持ちが軽くなって、今朝起きたら、今日は気持ちのいい天気の休日なのだった。朝のルーティンワークをこなしたあと、自転車を整備。僕は今3台自転車があるのだが、そのうちのスポーツ用の2台を掃除し、油を注し、空気圧を調整した。自動車もそうだけれど、掃除するだけで、なんだか軽くなった気がするのは、なぜなんだろうと、毎回思う。



 今日整備しなかった1台は、通勤に使っているやつで、家から岩沼の駅までの行き帰り、ほぼ5分のために使う。昔、僕が買ってあげて、胞夫さんが使っていた茶色のやつ。
 今日の2台は、ARAYAの白い24インチと、YETYの水色の26インチのATB。車体についている様々な後づけの道具類(ボトル、空気入れ、工具入れなど)を取り払い、水ベースのクリーニンング液で、隅々まで布で拭き(ギアに細い枯れ草が沢山巻き込まれていた)、自転車屋で言ういわゆる「水油」の良いのを褶動部のすべてに薄く塗り余分を拭き取る。タイヤとフロントサスペンションの空気圧をチェックして適正な圧力にする。一通りのねじ類を増締め。ついでに、最近気になり始めていた26インチの方のハンドルをひとカラー分下げた。こういうことを、途中時間が来たので郵便局に不在通知の来ていた手紙をとりにいったり、ついでにクリーニング屋に胞夫さんのズボン(彼は、もうほとんど自主的には着替えをしなくなってしまったのだ)を出しにいったりしながら、無心に続けた。ううむ、気持ちいいぞ。こういうのが最近なかったんだよね。というより、作品作っていなかったからかな? 整備は昼前までにはすっかり済んでしまったので、その後YETYに乗って、鳥ノ海まで、阿武隈川に沿ってゆっくり走った。行きは亘理側を向かい風クルクル回し、帰りは岩沼側を追い風でビュンビュンと踏んで。整理体操をしなかったら、今少し体が痛い。
 

2008年 4月19日 雨。でも春の風と一緒の雨。


 今朝、胞夫さんは、最近は毎朝6種類に増えた病院からの薬のほかに、テーブルの上にあった乾燥剤(確かに個別包装された胃薬によく似ている)もついでに丁寧にはさみで封を切って飲んでみるというひと騒動を経てデイサービスに出かけていった。アルツハイマーの父親と一緒に暮らすということは、このぐらいで動揺していたのでは持たない、ということはわかっていてもいやはやなんともうろたえるなあ、から今日は始まった。



 毎年新たな年度が始まると、全県下の社会教育主事(社会教育施設の先生ね)の人たちが県庁に集まって、今年度宮城県の社会教育はどうするかの連絡と打ち合わせの会をする。開館直後の頃、美術館からは僕が出席していたが、もうここ20年以上出ていなかった。18日ネクタイをして(みんな信じられないだろうが、僕は素敵なネクタイーということは普通には締める機会はなさそうなーを沢山持っている)一日出席。一日とあえて断ったのは、教育庁からの要請は、13時から来て、15分くらい美術館今年の重要事業について説明して、だったのだけれど、確かこの会はああいうふうだったという思いがあったので、あちこちにお願いして10時の始まりから一日参加させてもらう。15分だけの参加で今年の宮城県について何がわかるというのだろう。それとも、わからない方がいいことが、誰かに、なんか、あるのかな。80年代初頭、この会は1泊2日の会合で、変なオンツアンたちが泊まり込みで変な気勢を上げつつ何やかや話し合うへんてこりんな会だったのだ。でも、今では1日で終了。今はああいうことは何がどうなっているのだろう。
 一日、後の方で大きな会議室一杯のダークスーツの人たちの背中(事務局以外の女の人は僕の見た所2名だけだった)を見つつ、入れ替わり立ち替わりの説明(僕もその中の一人だったのだが)を聞きつつ確認したことはいくつかあるが、何しろ、日本の社会教育って、関わっている全員が、学校の先生の人事異動の人なのだ。あ、大切なのは、教育長や社会教育課長や生涯教育課長のようなブレインの人は行政職の人事異動の人だということね。だから、そのブレインの人達も含めて、僕の立場は至って異常で、もう30年も社会教育だけやっている人になっていた。どうもそういう人は、多分日本では、もしかすると、僕だけかもっていうくらいいないんだね。
 本当は学校の先生の人が、3年間ぐらいの間だけ、人事移動で突然公民館に回されて、着任2週間目で何もわかりませんと言い訳しながらこの会に参加して、ずうっと下を向いたまま、教育のことなんか、ざっとで良いんじゃないの真面目にするとお金使うばっかしだしという人達(多分。でもそうとしか思えない話が端々に感じられる)が考えた形式を整えることが優先されるとしか思えない様々な活動の退屈な説明を、多分眠らないためにメモを取り続け、時々タバコを飲みに中座しながら、一日の時間を過ごして、明日からの日本の社会教育は展開されている。いやはや、悪意に満ちた言い方だなあ。しかしそれだからこそ、ほとんどすぐに、では、社会教育機関としての美術館がすることは何かが見えてくる。ううむ、こういう活動ってほんとにもうからなさそう。だから公共でするのだね。せめて、この辺りだけでもみんな真剣に考えてくれると良いのになあ。
 学校の先生が考えると、やることが、全部学校みたいになる。なぜ学校というシステムで教育をするのかの説明は、日本の場合誰もしないし、むしろ教育って学校の先生の職業のことだと普通思われているから、このままだと、社会教育も、今の学校で起こっている様々な問題と全く同じ問題が起こってくるだろう。学校教育がこうなって社会教育もそうなったら、日本の教育全体がああなる訳で、教育がそうなった国は、国として修了することになるのだろうか?
 簡潔に言えば、社会教育では学校教育でしていることはしないという強い決心で事業を組み立てないといけない。けれど日本では、学校でしていることはしないというと、教育の現場では何していいのかわからないという状況に陥ってしまう。むしろそのこと(学校以外の教育実践に付いて考えること)自体がやるべきことなのだということに、誰も気づかないように長年かけて、学校で訓練して来ている様に、僕には思える。
 そんなことをつらつら考えて、なんかやること沢山ありそうと、雨をついて家に帰って来てみると、(薬好きの)明美さんは富山の置き薬を一箱あらかた飲んじゃってるし(彼女は風邪を引いたんだそうだ。僕の見る所、ただのタバコの飲み過ぎ。感冒薬を飲むと胃腸薬が必要になり、という具合に次々飲んでいってあっという間に湿布以外の薬がなくなってしまったみたい)、胞夫さんは最初に言ったような具合だし、こういうことを気に留めていると、僕の方の脳の血管が心配になるので、ほとんどのことはちゃらんぽらんで進めることにして毎日が過ぎていっている今日この頃。

2008年 4月1日 何しろ風が強い。澱橋から吹き飛ばされそうになった大学生を見た。でも、春。

 新年度が始まった。この週末金沢にいた。昨日帰って来て今日から美術館。人ごとのような感じで、今日から僕は教育普及部長になった。

 金沢には、金沢市民芸術村に呼ばれていって、都合3日間いた。仙台を8時に出て金沢には1時半過ぎに着く。去年の夏の大原美術館と同じように、そこで行われているいわゆるワークショップの点検と展開の検討。芸術村での活動は、ワークショップの(理解の)ためのワークショップ。ほとんど講義。よい質問が出ると、よい答えが話せる。活動以外のほとんどの時間を21世紀美術館で過ごした。大原の時もびっくりしたけれど、今回も呆然とびっくり。美術館ってそもそもなんなんだろうを、各自が一生懸命考えた答えがここにもあった。金沢はまわりを含めて、もう少し暖かな頃に車でゆっくり行って10日とかゆっくりお散歩すべき所だった。僕が歩いたすべての所が散歩用にわざわざ作ったみたいな街だった。道が一カ所も直交していない。路面電車はないが、きれいな水が音を立てて流れる堀が縦横に横丁を流れる。いやはや、見なければいけない日本は、まだまだたくさんあるなあ。
 28日にあった館の送別会の時、僕は、今年転勤することになった少し年上の人にほとんど理由のない喧嘩を理不尽に突然売って、あわやつかみ合いというような事件を起こした。その人は確かに、すごく公務員風な人だったとはいえ、普通には世話になったとしか言いようのない面倒を見てもらっていて、なぜあんな風になったのか、未だにわからない。カアーっと頭に血がのぼって、なんだか興奮している最中から「あれ?俺はいったい何をしているんだろう」と考えている自分がいて、感じとしては、むしろ自分自身が怖かった。なぜああなったのだろう?ということを、ずうっと考えながら金沢を歩いていた。アルツハイマーの初期症状に、確かこういう症状があったのではなかったろうか。寒くはないが、冷たい雨が降っていて、不思議な重い旅だった。金沢は、たぶん歩き直さないといけない。