胞夫さんを巡る介護活動が様々あって、しばらく更新する余裕がなかった。仙台は、全国的に見ればいつも少し気温が低く、過ごしやすい夜なので助かっている。
8月2日土曜日午前、デイサービスにいた胞夫さんは軽い脳梗塞を起こした。施設には看護士さんもいるのですぐにこれはおかしいと判断され、施設の車で運ばれて南東北病院脳神経外科の午前の外来に滑り込んでみてもらうことができた。基本的に病院からは、僕だけが彼に付き添うことになった。携帯電話はこういうとき本当に助かるが、何もかもが次々に進んでしまって、ちょっと止まって待って考えるというような時間はまったく考慮されずに、物事が少しも時間を無駄にせずに進んでいくことになる。救急車は使わなかったので、院内を車椅子で移動し順番に待合室で待って見てもらった。MRIで脳の断層写真を撮った結果、後頭部の先端に梗塞による出血がはっきりあって、医師はこの分だと普通ならもう右側の視界がだいぶ見えなくなっているはずだと話した。すぐに点滴が始まり即入院。しかし病室のベッドに寝たとたん症状は著しく快復。ということは、梗塞の問題ではなくアルツハイマーの症状による問題が前面に出てくる。土曜の午後後半からは、ここは何処だと探検に出かけ、他の部屋を覗き回り、頻繁に便所に行き、それら全てを点滴瓶を気にせず始めようとし、パイプが外れて血を振りまき、動けないからと付けられたおむつの自覚がないので小便ができずに(おむつにはオチンポを出す穴が付いていないのだ)混乱興奮し、はずかしいので(彼は大正末に生まれ昭和初期に基礎的な躾をされた大変良くできた昔の日本人なのだ)おしっこと言っていたのが本当は大便だったりし、それも、おむつだとおろしたりはいたりが自分一人では自由にはできずにいると、がまんしきれずに漏れ始めたりして、ひと騒動だったはずが大騒動になり、そういう騒動の合間もじっとできない問題「児」と化す。でも、そういう事態にジッとできるというのは、ほとんど「自我」の放棄に近いような気もするし、病気になって西洋医学の病院にかかると言うことは、実はあらかた(自我などと言う自覚とはかけ離れた)動物と化すということだったりするのかとも思えるし。様々な想いがわきだしてくる。
つい直前までは(痴呆症なりに)充分普通だと、自分も回りも思って生活していた気位の高いお爺さんが、アッという間に病人で、衆人の前で素っ裸にならされ、おむつを付けられ、点滴で身動きが制限された状態になる。それでなくても環境の変化に付いていくのに時間がかかるのに、ほとんど何も説明されないまま、いや本当はみんなよってたかって説明してくれているのだが、なにしろ耳が遠いし、使われている言葉の意味を理解するのが大変なので、途中で考えるのを放棄してしまい、いっそう行き違いがおこる。なにしろ話される言葉のスピードがいつもに比べたら驚くほど速い。胞夫さんとしては誠心誠意みんなに迷惑がかからないように行動しようとしているのだが、それがますます周りの混乱を招く。回りに居て見ていると、そういうことは良くわかるのだが、病院は病院の時間の流れが最優先されるので、胞夫さんはどんどん「こまったちゃん」になっていき、そう分類されることによってますますそうなっていく。介護施設と病院は、そもそもそこにいる人がなんなのかの理解の方法が違うのだった。
本来完全看護で、母親が脳内出血で同じ病院に意識不明で入院した(そしてそのまま死んでしまった)ときでも、面会時間が過ぎたら帰って良いですよだった病院から、今晩は付き添いでベッドの脇に居てくださいと言われてしまう。完全エアコンなので、Tシャツ一枚できてしまっていた身には空気がやや肌寒く、携帯電話で呼んで仙台から来てもらった娘(彼女には3歳になるかならぬかの息子がいるので手は離せない)に少しさしいれしてもらいつつ、夜に備えるも、その夜はほとんどうつらうつらで起きていたといった方がよい。思ったより夜は短く朝は早かった。胞夫さんは、頻繁に起きて便所に行き、そのまま素直に帰らずに病棟を一周し、ここは何処か悩み、腕のパイプに悩み、でも、ふらつきやろれつなど、脳梗塞特有の症状はどんどんなくなっていき、ますますなぜ私はここに不自由にいるのかの納得がいかなくなりつつ、点滴を受け続ける。
3日日曜日点滴継続。一回に2種類流し込む。弟たちが見舞いに来る。娘が孫と一緒に来て、孫は自分が診察されるのでなければ病院が好きなので、大きな元気な声で歌なんか歌って、看護婦さんにしかられたりしつつそうそうに帰る。頻繁に便所につき合う。胞夫さんは普段ごくごくおとなしい穏やかな人で通っているのだが、自分が理解できないこと(これまでの生活経験で使ったことのない言葉ばかりが、わからないのはあなたが悪いとでも言うように話される)を理不尽に強制される(これはあなたのためなんですよが本人に理解される前に実行されてしまう)と、基本的に小心者の彼は強く防御に出ることになる。声を荒げたり手を上げたり喧嘩腰になる。特に看護「婦」さんとか弱そうな人にたいしてそうなる。ますます、彼は「困った人」に分類されていく。病院に話して、できるだけ早く退院できるように相談するも、普通、この症状だと1週間は点滴が必要と言われてしまう。二日目の夜も付き添いお願いと言うことになる。昼、ちょっとの間病院を離れて家に帰り、シャワーを浴びて着替えをし戻る。戻ると、看護士さん達が一斉にこっちを見てほっとした表情になるのがわかる。いったい彼は、このわずかな時間に何をしていたのだろう。ほぼ前の晩と同じ状況の夜が始まる。でも夜の前半で夜間の点滴は終了。便所に行くときに点滴のつり下げ器具を持っていく作業がなくなったので、ちょっと気を許してパイプ椅子を三つ集め、横になった姿勢で寝ていられるようにする。で、横になったとたん気を失うように寝てしまい、肩を揺すられて起きる。胞夫さんは、あっちの方の空いたベッドになぜかパジャマの上だけを着て下はおむつのパンツ一丁で丸くなって寝ていて、看護士さんが移動させようと困っていた。僕が話すと比較的素直にごそごそ起き出して自分のベッドに戻る。でも、すぐ起き出して便所探検お散歩。結局横になって寝てはいけない/いられないのだった。持ってきた携帯ラジオでラジオ深夜便を聴いていたら、この日も朝はすぐ来た。
4日月曜、偶然僕は夏休みで休みにしていた日だったので、そのまま付き添い続行。点滴は日中だけ、午前1回午後1回となる。頻繁に便所に行き探検。寝て、起き、食事をし、のような行動の移り換えに時間がかかる。次の行動をしようとすると決心するのが大変なように見える。一回何かすると少し疲れて軽く寝る。起きると、前のことは忘れていて、毎回最初から納得したがる。とは言え耳が遠いから人の話はあまり聞きたがらない。耳元で大声で話されると(そうしないと聞こえないのだが)怖いのだ。というような付き添いを一日して、夕食後8時に、さて今日は大丈夫でしょう、帰ってくださいと言われる。心からいやはやと、家に帰って風呂に入り着替えをして夕ご飯を食べようとしていたら電話。暴れて手が付けられないので、来てください。何となく、やっぱりなあと、車で駆けつけると、パジャマを着て待合室の端の椅子に肩を落として座っていた。看護士さんから、今日は緊急外泊にしますから、連れて帰ってくださいと言われる。もう点滴はしなくて良いのだった。「家に帰るよ」とゆっくり歩いて車に乗せ家に連れて帰る。でも家に着くと「あれ、ここか?」という。彼の中で家は、もうここではなく、施設になってしまっているのか?。でも一応納得して静かにベッドにはいった。その夜その後は何事もなく一晩過ぎた。僕も起きずに一晩過ぎた。
5日。今日から通常の勤務。朝7時に病院に連れて行き、僕は出勤。昼前に電話が入って、午前中診断検討判断して、もう点滴無しで薬を飲みながらの退院治療にした旨連絡。早く連れて帰ってくれと言う感じ。大変丁寧にそうではないように話されるが、でも実際はそういうこと。昼から年休を取って退院させ、家で着替えをし、施設に連れて行く。着いたとたん顔がゆるむ。もう、何か病気になってここ数日大騒動だったということ自体は忘れている様に見える。ケアマネージャーの人に、お盆明けまでショートステイにしてあなたが休みなさいと言われて了解。という風に今回の騒動は終了。1週間経っても疲れはジワリととれない。
否応なく、父親の下の世話をした。今は、様々それ用の用具やモノがあって、子供達の時よりは簡単だ。でも相手は大人で僕の父親だ。いろいろな視野が広がる。こういう体験をしてから具象の彫刻作ると良いのができんじゃないかなとか、まったく困ったことを考えている自分に驚く。何はともあれ、僕もこうなるのだなあと言う覚悟というか自覚を大切に忘れないでおこう。