28日に、高校の表現系教科指導要領研修会が県支援(昔養護といっていた概念)教育センターであった。呼ばれて、彼らの要望は違うところにあったのかもしれないが、美術探検を巡るお話を1時間だけした。本当は午前中のその1時間だけでお役ご免だったのだけれど、気になったし面白そうでもあったから、午後からの事例発表研修というのにも参加してみた。ただ延々と、私はこういう授業をしていますという普通の発表会だったが、一つ収穫があった。
私立の女子校に勤めるshirai君が言っていたこと。
最近こういう研修会で美術の話となると、すぐに「鑑賞」の話になる。でも、体育の授業で、バスケットボールの試合の鑑賞とか、水泳の試合の鑑賞とかの授業をしてるだろうか?にもかかわらず、オリンピックだと言っては、みんな(美術の愛好家などお呼びも付かないほど沢山の人が)新しいテレヴィジョンを買ったりする。美術だけ「鑑賞」を特別に授業する必然は何処にあるのだ?
ヒヤッホウ!凄い見方だ!ここにつきるんじゃない!美術が学校の中で授業として生き残る全てのこたえがあるのではないか!小さい頃に、美術ではなく図工をする理由も!
shirai君は「だから、浮き足立たずに、理想論(何となく、これは僕のお話を指しているのではないかと邪推してしまった)に陥らずに、じみちに造形教育を続けよう」という方向に(たぶん)行きたかったようなのだが、僕としてはせっかくここまで辿り着いたのだから何とか理想の方向に、理想論に陥ることなく、もう一歩進みたい。体育で習う/習った試合を見ること(あえて、鑑賞ではなく)が、見る授業をしなくてもこれだけ盛り上がるのと同じに、美術作品を見ることができるようになる鑑賞の授業。それは、美術ではなくなるの?そのへんが、美術の人たちが陥っている今の美術教育の狭さなのではないかしら。
美術が、そこを(人間の歴史では常に)一番にうち破ってきたので、僕たちは今、テレヴィで体育の試合を楽しんで見たり、スタジアムに出かけたりできる生活になってきたのではないのかしら。そういうのを豊かな生活というのではなかったかしら。スポーツを楽しんでみることができる今、では、歴史的には一番に(何を?)うち破ってきた美術の「鑑賞」は、何処に行こうとするのか。みんな様々なところで、様々なことをうち破っちゃってる今、ふと気付くと美術が一番送れてしまってるんじゃあるまいな。いやいや美術作品自体は、何を言われても知らん顔して知らぬ間に、一番先頭で、片っ端からぶち破って進んでいる(にちがいない)。たいていは早すぎてみんな気付いていないことも多いけれど。遅れに気付かないのは、教育の中の美術か?美術教育か?美術を通した教育か?もしかすると、そういうこと(一番先頭に必然でいるのに、一番最後にもいる)も大きく含めて、僕たちは美術を理解しているのだろうか?体育で習った競技の試合の楽しみ方、そしてその盛り上がり方を丁寧に考えて、美術の鑑賞を考える。そういう授業をしたい。
まず、ボールゲームだけでなく、体育の試合は、各自様々な好き嫌いがあるということが肯定されている。体育自体が嫌いでも肯定される。体育は嫌いでもそのスポーツの試合は好き、も肯定される。試合を見るだけ!も肯定される。見るだけ、にお金払ってもいい(別の言い方だと見るだけを買いたい)も肯定される。やっぱり、実際やんなきゃだめだよという人は必ずいるが、よく考えると凄いねこのどんな状態でも肯定すること可能の具合は。各々好きなゲームはあってそれが一番だと思っていても、野球を見ない人は人間でないというようなことは野球が好きな人でさえ誰も言わない。ついでに野球で言えば、プロ野球も見るが、高校野球も見るし、草野球も見る。それぞれ面白く見られる。自分の方が上手いと思うこともあるが、いやはやたまげたこんな凄いこともできるんだと、自分ができないことを感嘆することも肯定できて楽しめる。ルールはわかんないでも見始められるし見ることができるが、段々ルールがわかりたいと思ってきて、様々な方法で各自自己流にルールを知り、みんなとの話の中でそれを各自都合良く勝手に修正していく。でもたいてい大きな間違いはおこらず、ちょっとした思い違いや思いこみは、仲間との楽しみの内に吸収される。ルールがある程度わかると俄然試合は面白く見られるようになる。時々身近に説明好きの人がいて、事細かにルールの説明をしてくれたり、ついでに選手の癖や有り様などを解説したがったりするが、あれ、最初からそれされたら好きんなれないよね、ということが多々かつ時々ある。野球は学校の授業には普通あまり入っていないが、その簡単なヤツはある。だから男女を問わず、走って投げて打って捕ってというような体験はほとんどの日本人なら体育の授業でしていて、各々が各々の経験の中で、充分に上手くできたり、できなくてもするところを想像したりすることができる。その上でプロの選手の動きを見て、彼らの生まれながらの資質や、その資質を持った上での各自の凄い鍛錬、それを支えた親や社会についてまで、一瞬のうちに思いをはせ感動する。歓声を上げ拍手をする。そしてたとえば野球でこれが知らずにできる人は、あまり好きではない/なかったバスケットボールの試合を見ても、同じような状況にすぐになじむことができる。
ね?なんだか似てるでしょう?学校でする図工美術は、こういう体育をするんではなかったのかなあ。そういう体育みたいな美術の授業はしてきたのだったかなあ。造形に走ったのは、たぶんそのためではなかったのかなあ。どっちの方にどういうふうに走ればいいかは、この体育で習った体験によるスポーツの「鑑賞」に、様々ヒントが隠されているのではないかしら。立ち止まるのではなく先を見つめる点検を続けたい。