2009年 9月 8日  夏の終わりの、秋のような日。乾いた暑い昼。

交差点に立っている。道幅は適当に広く見とうしはいい。信号は赤。車は見える範囲両方向ともいない。あなたは待つ人?それとも渡る人?青だったらどうだろう?

僕は渡る。赤か青かはその時の状況のバリエーションの一つにすぎない。結局どんな状況であろうとも、様々なことを考えて、決心して渡る。たとえば回りに人がいたら?、その人が小さい人だったら?お巡りさんがいたら?と、シュチュエーションの例はいくらでも考えられる。昔見たアメリカ漫画ウッドペッカーの砂漠の真ん中の交差点での出来ごと(左右をよく見た時は何もいないのに、渡ろうと一歩踏み出すとすごい勢いで車が通り過ぎる)も僕は知っている。そしてああいうことも本当にあるのだろうと思っている。その上でしかし渡る。出来るだけ、行動の基本は自分で決めたい。様々な状況への対応も、自分で決められるようにしておきたい。お巡りさんがいたら、多分、僕は渡らない。説明するの面倒だもの。というように、その様々な状況に対する余裕のようなものを持てるようにしておきたい。たとえその決定でその先うまくいかなかったとしても余裕が持てるように。


前にも書いたが、僕は一人でエレベーターにのった時、普通は扉締めボタンを押さない。押さなければ、コンデンサーが働いてある一定の時間が過ぎて、最も少ない電力で扉は動く。ボタンを押すとスイッチが入って、ドアを動かすための強い電力が働き、力強く素早くドアは閉まる。この話を教えてくれた人は、だから省エネを言う人は締めるを押さないのだ、と続けた。僕は省エネのために押さないのではない。締めるを押さないと、なんだか変に緊張するみたいな時間が過ぎるのが好きなのだ。誰か来るだろうか?事件が起こらないだろうか?扉が開きっぱなしにならないだろうか?そして電気は?時間が意識的な無意識に変わっていくのを見るのが面白いので押さないのだと思う。ほぼ同じ感覚で、僕は交差点を渡る。


何だろう、こういう所にこそ、美術の考えは効いてくるのではないか。様々細々決めて、それにそって効率よく安全に動くことより、大きくは目標を見つけておいて、あとは出来るだけ、その場所での自分の気持ちよさのようなもので決めて進む生活。そういう状況でこそ、その人の正直真剣さが問われる。その時にいかにヘソを曲げていられるかも、問われる。一見曖昧で不確実で不誠実のように見えるかもしれないが、僕には、最も、その人の誠実さが見えるように思う。隅々までキチンと決めて、全員で安心して効率よくしておきたがる先生たちと、半日打ち合わせをして、そこまでしておかないと、みんなそんなに不誠実なのかよと、ほとほとうんざりしつつ、ウッドペッカーの赤信号のことを考えていた。