2009年10月24日  綺麗な秋の日。乾いた空気がだいぶ寒くなって。


今年の夏はさんざんな毎日で、あっという間に過ぎた。と、僕が書くことができるということは、僕の同僚は別な意味で散々だったはずで、休みの順番なんかまったく関係なく毎日忙しく、それこそ本当にあっというまに過ぎてしまったに違いない。

今このブログを読み返してみると、入院の合間に出勤した僕が、何やら忙しそうに、僕がいなければ駄目なんんだみたいなふうに書いてあるが、これは間違いだ。僕なんかいなくても、美術館の教育活動はきちんと動いていて、なんと来年度の予算書まで出来上がっていた。あたりまえだけど、ありがたい。


16日から美術館ではトリノの博物館が持っている古代エジプトの美術展が始まった。連日混んでいる。混んではいるが、当初の予測では美術館の周りの道が大渋滞になるはずだったのが、今の所そこまではいっていない。今日明日の週末で様子を見て、本当に混み始めるのは11月中旬以降から12月にはいってからだろう。見るなら早いうちだ。混んでいないといっている今日あたりでも、入り口から出口まで一列に並んでシズシズ進みながら順番に見て行くというくらいには混んでいる。石を彫った作品も面白いが、僕は、その石を彫った青銅!製の鑿なんかの方が美しく気になった。

美術館が混んでいることもあって、ほとんど毎日歩いて通っている。駅から歩いていると様々なことを考える。若い頃に張り切って主張しムリヤリやった様々な行為が、ここに来てそれはまったくもの知らずのことだったということが思い出されて、歩きながら足がすくむほどの恥ずかしさを、突然感じたりする。歳とって様々なことに気付けるようになって来たということをよく考えてみると、僕の認識の力は18歳のあの学生運動のあたりから何もホトンド進化していないのではないか、と思えてくる。

考え方や感覚の基本はそこに動かずにあり、それ以降の体験は経験としてその基本を巡る形で脳に保存されている。何歳の自分であろうとそこに基本が見えていれば、今の状態がクールに理解できて、肉体の状況と精神のギャップにつても自己納得はしやすくなる。ま、言い逃れともいうけどね。今ここに、こうしていえるという納得ができると、今いる所でのストレスにも気付きやすい。何がどうなのでストレスなのかということにも。やはり少し無意味な運動(自転車コギとか)を始めて、無駄な汗をタラタラと流さないと駄目な気がする。