2009年11月12日  晴。湿って冷たい一日。


退院して家にいると徐々に(いや急速にかな)夜更かしになる。もうすぐ10時だというのに、今まで、病院で寝ながら徒然に頭に浮かんだことを小さいメモ帳に書き留めていたものを、電脳上に整理しなおしていた。ベッドの上ではちゃんと書いていたつもりだったのに、家で読み返してみるといわゆるミミズが這い回ったような字になっていて、一つの文にするのにだいぶ時間がかかった。あることに気付いたきっかけのような考えを静かに思いなおして、きちんとつじつまが合うように文にしてみる。今回は入院する前ギリギリまでみんなと美術の授業に付いて考えていて、入院した時に枕元に持ち込んだ本がきっかけになって考えが広がる。それだけだと、これまでは広がりっぱなしになりそうな所に、ちょうど他の美術館での鑑賞教育実践報告の依頼や、ワークショップでのファシリテーターになるための授業ができないだろうかという相談などが絡んできて、考えの方向がクリアに見えてくる。つい、のってしまった。


僕は、何はさておきまず「私は彫刻家だ」という所に立つ視点を大切にしてきた/している。でも、思えば僕はもうこの2年ぐらい彫刻を作っていない。手に付いた技術は、自転車に乗ることのように、そう簡単に駄目になることはないが、単に鉄の熔接ができるということと、それを使って鉄のスクラップを美術作品にすることができることとはまったく違うことだ。いつも言っているように、technicとcreativityは似て非なるものの最たるもので、常に注意が必要だ。

どっちがどうだということではなく、creativityのprofessionalでいるということは、頭の中にある世界観をいかに表現できるかという力の意識の仕方なのだ。しかしその世界観を思う存分具体化するには深いtechnicの力がいる。深く強いtechnicが、表すべき世界観を最初考えていたものより(いつのまにか)拡大していることはよくある。具体的なもの(作品)も世界観(頭の中)も、両方ともに。

今、僕は何を使って何の表現をしているのだろうか。そして、そのことをどのように自覚しているのだろうか。どうもメインは彫刻ではなくなっているのではないか。それでも僕はまだ大丈夫なのか点検したい。もう11時を過ぎた、寝よう。