2010年12月31日  深い曇り。冷たく乾いた空気。いい気持ちだ。


さて1年が終わる。今12月31日の午後7時半を過ぎたところ。テレビでは紅白が始まった。今日の午前中にカレンダーを張り替えたから、もう今年のことなんか知っちゃいないのだが、まあしかし、色々あったなあとふと思ったので、書き留めておこう。そもそも去年(2009)、今年(2010)僕は大凶だから注意しないといけないと、羽黒山系につながりを持つ友人に言われた。まあ、もうすぐ60歳になるのだから、それはそうだろうなあ、心筋梗塞もやったことだしと思っていた。とは言え、結構色々あったなあ。

心筋梗塞で入れた3個のステントのその後は、5月と11月にカテーテル検査をして、問題ないことが確認された。1月に金沢21世紀美術館、2月に武蔵野美術大学で、美術館教育を巡るお話をする機会があった。それで、何となくこの30年を振り返りまとめる機会ができた。そういうふうなことがあったので、美術館での活動で話す内容も、だいぶ整理されて来て、今まで気がつかないでやって来ていたことも、意識してやれるようになった。12月に山形芸術工科大学で、まるでまとめのような美術館教育についての講義をする仕事がきて、僕の内面の方も、だいぶ整理できた気がする。そういう活動の間を縫って、そのお話のテープおこしされた文の校正や書き直しがあって、それも又大変僕の役に立った。おまけに2011年の1月31日に新たな僕の本が出る。これも、まったくの偶然でみんなが色々やってくれるので、つい一生懸命書いてしまった。別に意識したり、そう仕組んだりしたわけではないのに、ちゃんと、30年のまとめの年になったように見える。だから今年は本当に、ずうっとワープロに向かっていたような気がする。南光台の魔女(いわゆる僕の鍼灸の先生)にも、この脈の出なさ具合はパソコン見過ぎではないかと言われたりした。僕としても、もっとゆっくりとよく考えながら進めたかった。でも一方こうでもしなければ、こうはならなかったろうという意識も確かにある。
でも、今年は、何しろ僕の父親胞夫さんが死んでしまった。様々な細かい問題はあったけれど、まだまだ元気で行くのだろうとタカをくくっていたら突然腎臓癌が見つかって、見つかった時は既に末期で、3ヶ月入院して死んでしまった。親が二人ともいなくなるとはこういうことだったのかの思い深し。人が一人死ぬと起こる様々な手続きは、そうでない時には思いもよらない程凄まじく多い。書類を作るたびに印鑑証明書がいるような手続き。僕が僕で(間違いなく)あることを証明する書類がないと進まない書類。心からする(したい)行動に、形式的で心のこもっていない行動が混ざって来て僕のストレスを増やす。僕はどうも結構まじめで、本気でそれをしたいことだけを(社会通念にあまり関係なく)したいようにする人だったのだということが確認された。そういう事は9月24日に彼が死んで12月29日まで何やかにや様々続いた。振り返ることの多い経験だった。
明美さんは、精神安定剤をキッパリとやめて、甲状腺の薬を定期的に飲み始めた。当然覚醒し元気になり、やせた。ということは、彼女は30年前のに世界に戻ったということで、それはそれで、イヤハヤな生活が始まったということだ。僕らが30台だった頃の常識(卵と肉と牛乳を沢山食べる生活)は今や夢のようなのに、疲れて帰る夕食に両目の目玉焼きが出て来た時の動揺。カミサンと父親の相手をしながら、30年のまとめを考える文章を書いた。
来年(2011)はついに5回目の卯年で、僕は定年になる。数え61歳で厄年だという知らせがお寺から来た。ううむ、しょうがない、これまでとかわらず素直に正直真剣へそ曲がりで生きていくしかあるまい。 なにはともあれこれからも、僕の基本は芸術家ですと言い続けられるようにしたい。

2010年12月29日  朝、快晴。キッパリ寒い強い風。よかった。


今朝、胞夫さんの100カ日法要と栄子さんの何周忌かの法要を、お寺に行ってしてもらって来た。僕一人で、静かにシミジミ彼らの事を考えようと思っていたのだが、少し前に親戚から問い合わせがあって今日やるつもりだと答えたら、今日、胞夫さんの弟の叔父と姉の家の長男の人がお寺に集まっていてくれて、なんかちゃんとした(みたいな)法要になってしまった。そしてシミジミは、まあいいからいいからの極常識的な心があまりこもっていない感じの方向に行って、むしろストレスフルな活動になってしまった。本当に、ここまでなかなかシミジミできない毎日が続いている。

この前ブログを書いてからだいぶたった。何回か書き始めたのだけれど、どうも集中できなくて、そのたびに途中でやめてしまった。今日、やっと少し落ち着いて電脳に向かっている。でも、これを急いで書き上げて、その後、武蔵野美大用の原稿に取りかからなければいけない。「ファシリテーションについて」。僕でなくてもいいんじゃないのという気はするのだけれど、僕が書いた方がいいとも思う。なんなんだろう、この感じは。午後、古くからの友人が家に訪ねてくる事になっているのだけれど、ま、いいか。順番にかたずけていこう。気ぜわしい一年にぴったりの終わり方だ。

途中まで書いた文章を少し残しておこう。たとえば、12月14日あたりを巡って。
二日連続休みの二日め。例えば先週、水曜日は柴田農林高校川崎分校3年生。なんで僕たちが美術館なんかに来なきゃないんだと顔に書いてある若い人たちと、2時間話してどんどん集中していく顔に変わっていくのを見る。木曜は、朝早く美術館を出て七ヶ浜の松ヶ浜小学校6年生2クラス。熱心な人たち。金曜、吉成市民センターの老荘大学「美術文化の考え方」。土曜朝から東北線で岩手花巻へ。仙台から各駅停車で一関、乗り換えて花巻。岩手は広い、行けども行けども花巻は出て来ない感じ、もう次は盛岡じゃないのというあたりで花巻が出てくる。るんびにい美術館(障害者の人達の美術を中心に扱っている)で、美術の見方のトークショウ。日曜は出勤なので、すっかり真っ暗になった景色を見ながら(想像しながら)新幹線で帰る。という具合。これは、この週だけではなくて、ブログの更新をしていなかった間ほぼ毎週こんな調子で、しかも、アメリカンフットボールとバスケットボールのシーズンが始まったのと重なって、クタクタで帰って来て、BSのスポーツ中継観て寝る、の毎日だった。
胞夫さんの死亡を巡る様々な手続きや活動は12月のこの29日今日で、ほぼ終了したと思う。その合間をぬって、前にも書いた仙台文庫出版の作業が続けられ、今の所2011年1月31日出版ということになった。今年は開始早々、金沢の美術館や武蔵野美術大学で話をする機会があり、丁度僕がこの仕事に就いて30年経った時でもあって、それらの話をする事で、様々な事が様々まとまって自分のなかで理解できた。その各々の話を基にした文章も文庫とは別に書く事になって、ブログはまったく更新していないのに、ほぼずううっと電脳に向かう日々だった。いやはや、自分で書いていても少しうんざり。

2010年 11月24日  13度。無風。晴れ。薄い雲。ほとんど青空。気持ちよい秋の日。


美術館創作室の予定表には、今日の分のマスからはみ出す程の予定が書いてある。でも今日僕は家にいる。
先週の日曜日、山形芸工大博物館学クラス50人程が、宮城県美術館に来て、美術館での教育普及の実践を見に来た。で、その次の月曜、僕は電車で山形に行って、駅から歩いて大学に行き、朝1時限めの授業でその理論を話した。次の23日勤労感謝の日、通常出勤。市内の小学校の先生たちとお話。その他の活動。今日、朝から電気会社の人たちが来て、エコQト(給湯)の設置。日曜日に悠記が沖縄から帰って来て、月曜搬入火曜から個展。明美さんは覚醒していて、自分の世界を中心に怒ったり悲しんだりしている。

月曜、大学についたら、まったく偶然に昔からの友人の台湾からの留学生麥(マイ)さんが、その大学で中国語の先生をしているのに会う。近況を交換したかったが、授業があるのですぐに分かれる。授業後、再び歩いて山形市の裏道をうろうろしながら戻り、駅前の三津屋で桜エビおろし蕎麦。その後、念願の山形新幹線に乗り福島に。本数がものすごく少ないのでビックリ。新幹線が普通の踏切を普通に通り過ぎるのでビックリ。福島から東北本線普通列車(これもやたら本数が少ない)で帰宅。
ううむ、なんかこういう休みがずうっと続いているのだ。何もしない一人の日というのを作らないといけない。 

これまで僕が様々な所に書いた、美術や教育を巡る文章をまとめたいという人が現れて、ほとんどまとまった。仙台文庫というシリーズの中の一冊で、今年度中ぐらいには出す事になるそうだ。学術文庫ではなく面白い読み物にしたいと言う。どんな具合になるのか楽しみだ。

2010年11月10日  きれいな雲が流れる秋の日。空は高くなって空気は涼しい。


いやはやなんと11月の10日になってしまっていた。未だに胞夫さんの後始末は終了したとはいえない。胞夫さんの後始末には、心理的に栄子さんの後始末も深く関って来てこれまで手をつけていなかった彼女の遺品の整理も始まってしまうのだ。親がいなくなってしまうということはこういうことだったのかとしばしたたずむ毎日。
そういう事とはまったく関係なく即物的事務的なハンコや署名や戸籍謄本なんかの事務仕事がかぶさり、ブログなんか書いていると、肉体的にまいっちゃうぜの毎日が、もう1ヶ月をはるかにすぎているのに続く。

そして、というような個人的な問題とはこれ又まったく関係なく美術館の仕事は相変わらず忙しい。そんななか明日から半年毎の心筋梗塞カテーテル検査入院だし。
入院から帰ったら、もう少し詳しい状況報告が書けるのではないかと思う。このブログを読んでくれている人たち、すまぬ、もう少し待っていてください。あ、一応、僕の体調は(万全ではないが)いいです。

2010年 10月15日  厚い雲の一日。暑くなく寒くなく過ぎる。


昨日の木曜日が三回目の1週間だったから、胞夫さんが死んで22日が過ぎた。人が死ぬと、その後始末はまだまだ終わらない。今日も今まで、登記と貯金の解約との手続きの、書類書き、書類確認集め、ハンコ押し、その全体の点検なんかをしていた。これらの書類を郵送してそれが全部大丈夫ですよとなって次の手続きが始まるらしい。ゆるゆる、しかし素早くやって行くしかない。
胞夫さんの遺品を整理していると、遺品以外の家の様々な物者の整理もだいぶあるなあという事に気付く。途中からそっちが始まってしまって、本来の仕事がいつまでも終わらない。出来るだけ早く両親の物は象徴的なレベルに整理してしまって、自分の生活の形をもう一度点検する活動を始めたい。大変広い意味と深さで、僕の両親の好みは僕の生活の形に影響を与えていて(当たり前だけれど)さて、彼らがすっかりいなくなった今、僕は何をどう決める人になるのか興味津々だ。何か変わると良いなあ。

201010月 2日  快晴。乾いた涼しい空気。日差し強し。


まだしなくてはいけない事務的な作業が結構残っている。でも、今日はもう週末で市役所などの公共機関や銀行なんかは動いていない。ここいらで、胞夫さんが死んだ事を巡って体験できた出来事をまとめておこうと思う。

母親の栄子さんが脳内出血で死んで7年が経っている。9月24日金曜日、僕が病院に着いた時、看護婦(あえて師ではなく)さん達が死んでいる胞夫さんの身体を拭いてくれていた。その間に、廊下で弟と打ち合わせをして、彼女が死んだ時とほぼ同じような葬式にする事を決める。
栄子さんの時にもお願いした、町内のO友葬儀社に電話し、遺体を家に運んでもらう。僕の家は、畳のない家なので、若干右往左往があったけれど、素早く胞夫さんのベッドを解体し、床に布団を敷いて安置。用意した布団から足が出る。おお、お父さんって背高かったんだったなあ。子供の頃駅に傘を持って迎えに行った時、遠くからすぐ見つけられたなあ、なんて事を思う。ここからは葬儀社が様々具体的に動いてくれて、僕の気持ちをどんどん現実から離して行ってくれる。ありがたい。弟達が来たり、近くに住む、極近い親戚の人たちが来る。それからここが岩沼のいい所だが、町内会の隣組の人たちからの枕元に飾るための花が届く。喪主である僕はなんだか現実感がない。葬儀社の人に言われてお寺に電話したのは午後8時過ぎだったろうか、何か用事があったらしく誰も出ず、留守番電話を経て話がついたのは10時頃だった。今日は遅いので明日朝相談に行く事になる。

25日の朝一番でお寺に行きお坊さんと相談、その席から火葬場などに電話をしたり、何やかにやで、27日午後お葬式が決まる。死んで3日目の26日は友引なのだそうだ。僕としては月曜の方が美術館休みなので都合がいいというような事を思う。でも、だから普通の人は来づらいだろうなあと、少し思う。そこから逆算して26日2時に火葬、という事は26日1時から枕経と言う最後のお別れをしてその日の夜6時から通夜、というような事が決まる。午後から納棺。今回は栄子さんの時にはいなかった納棺師という人が来てほとんどパフォーマンスとよべるようなイベントを見せてくれた。お棺に納まって静かに寝ているかのような彼の顔は、まるで僕にそっくりで、でも、こんなに安らかな感じじゃまだないな、とやや反省。夜が更けてからすぐ下の弟が来てお別れの尺八を三曲吹く。涙は出ないけれど静かに沁みとおる音色が、深く自分の心深くを解放してくれる。ありがたい。

26日火葬。通夜。何しろ、今日は竹駒神社の秋祭りの日で朝から花火が上がり、山車の囃子が、町中に満ちている。そういうわけで弟達をはじめとする親戚は、子供達を含め何やかにや仕事や行事。隣組の人達の手を借りて様々なお供え物を火葬場に運ぶ。出棺の時に家の前の道を神輿と山車が通り過ぎる。なんか良いなあ、こういう出方。火葬場で、火が入っている間ずうっと外にいて空を観ていた。やたらな青空。遠くにお囃子の音。

27日深い曇。11時にバスが迎えに来てお骨や写真や位牌を持ってお寺に行く。もうこの時点では、位牌がその人になっている。美術館から普及部のみんなが来ていた。栄子さんのとき、僕は告別式のお礼の言葉で号泣したのだけれど、胞夫さんの時は泣かずに話せた。親が死んで、感じ考える事は、母親でも父親でも、そんなに違うものではない。でも、悲しさは違うように思う。お母さんの時はなんだか凄く悲しかったけれど、お父さんの時は悲しいというより納得に近い感じだ。とにかく僕は泣かずに彼の死を見続け、葬式を終えた。そしてここまでは、実は一番簡単な部分だったのだ。

2010月 9月27日  薄ら寒く雲の厚い曇り。時々小雨の降る一日。


24日金曜の帰り、弟達から連絡があって、胞夫さんが胃から出血して危篤になったという。
連絡を受けたときカングーで旭が丘にいたので、そのままオープン病院から直接4号線に出て岩沼に向かった。もちろんその時間は帰宅ラッシュで渋滞だった。岩沼の病院に着いた時は、すでにこと切れていて、身体を洗っている時だった。でも弟の家族(義理の妹と彼らの子供達)は間に合って、一人で逝ったのではなかったので少しほっとした。昨日火葬をして通夜をして今日ついさっき葬式その他が終了した。今から、さしあたって風呂に入ろうと思う。

2010年 9月20日  明るい曇り空。夏の気温の秋の空気。


朝ゆっくり起きて、洗濯機を廻しながら、きな粉ピーナッツバターつきの食パン一枚と,豆から挽いたコーヒー、リンゴジュース、カマンベール1カケ。洗濯物を干し,片付けを少ししてから、グリンピアの遊歩道へカングーで行く。
出たばっかりの頃に買ったワコールのCWXというタイツ(だけれど,はいただけでテーピングと同じ効果がある)と半ズボン,長靴下にビルケンシュトックのアテネサンダル、Tシャツにパタゴニアの夏用パーカ、トレイルランニング用帽子という一見ものすごい軽装。スエーデン軍用背嚢に,小さいガスストーブとお茶とカマンベールの残り。水。一番軽いレインウエアその他を入れて、愛用の長い山歩き用杖。
去年の夏はさんざんの入院続きだったので,こういう活動はまったくできなかった。今日は本当にしばらくぶりなのでまず近くの里山からだ。スタート前にゆっくりストレッチをしたが,これがそもそもしばらくぶりですごく気持ちがいい。ニコニコ。ここにはノルディックウォーキング用のトレイルが3本用意されていて,ゆっくり土を踏みしめながら(ビルケンだとこの感じが凄くダイレクトになるので好きだ)軽い上り下り、深い緑の木立の中を全部回る。トレイルでない所もゆっくり踏み分けながら歩く。イノコズチが下半身にビッチリ付く。約3時間+ぐらい。12時過ぎに見晴らしの良い所でお湯を沸かしてお茶とチーズ。
最終的に中央広場に出て,みんな休日で家族ずれでテニスやフットサルや水泳や温泉なんかを楽しんでいる脇を、汗みずくで不審な半ズボンおじさんはそっと歩いて車に戻る。車に乗る前、上着を脱いでイノコズチを丁寧に落とす。その後今昔庵でもりそば1枚食って帰宅しお相撲を見る。ほぼ極楽の一日。

女川原発に行った人が話していた。原発の建設当初、反対派の主要なスローガンの一つは「自然破壊反対」だった。数十年経った今行ってみると、原発の周囲は建物自体が見えないくらいうっそうとした森になっていて、自然が残っているのは実は原発自体とその周辺だけになっていた。「皮肉な事だねえ」というのがその人の感想だった。

熊野岳に登った事があるだろうか。熊野岳は蔵王のお釜の西側のピークで、普通はエコーラインで刈田岳駐車場まで車で行き、そこから整備された山道をたどって登る。高度1800メートル程で、もちろんきちんとした山登りの格好でいくと、誰でも難なく気持ちよく山頂にたどり着けるが、ま、ハイヒールとは言わないまでも普通の街歩きの格好でも何とかなるような山/場所だ。でも僕の好きなのはすうっと麓の賽の河原駐車場で車を降り濁川の沢にいったん下り、カモシカ温泉跡から登りに入ってロバの耳を超えて直登するコースだ。初めて下の娘とこのルートに行った時、彼女はこの時確か中一だったと思うが、カモシカ温泉跡からすぐに取り付いた急なガレ場で、滑り堕ちるのではないかという緊張のあまり過呼吸になってしまい、しばらく動けなくなった。それまでも、様々僕と一緒に歩いてはいて、もうこっち行っても大丈夫だろうと試みたルートだった。最終的に、彼女はなんとか難所を克服し、登頂に成功した。エコーラインからの登頂を彼女は既に何回かしていたけれど、「本当」はこういうふうにあるのだということを彼女は充分に感じたと思う。すごい体験だったらしくて、それ以降、山に行こうと彼女をさそっても来てくれなくなった。でもこのときの体験は時々あまり否定的ではない形で彼女の話の中には出てくる。

原発の周りに必ずある自然保護林は、原発建築に反対する人たちへの対応策として誰かによってデザインされ、計画的に作られ、常に手入れされる。数年もたてば、そこはデザインした人が思っている自然として絵に描いたように快適な林になり、入れる部分はみんなスニーカーで気持ちよく散策できるようになる。みんなそこに集い、(デザインした人が考えてくれた)自然は良いなあと言うようなことを言いあう。その周りの、元々林だった所は、人間が意識的に作ってしまった林によって本来の生物多様性のバランスが崩れてしまう結果、下草が多くて木の枝が空間を塞ぎ、気持ちよく歩く事なんてとてもできなくなって誰も行かないのでイケナイ様子はどんどんひどくなる。というより、普通の日本の林は、そんなに歩きやすい場所ではもともとないのに、こういうふうに比較されるようになると、本当の自然の方は手入れがされていない事になって、イケナイ自然になってしまう。

この手の問題は様々な問題が複雑に重なり合っていて、簡単には説明できないと言う事は重々承知の上で、しかし、私たちは、見えている事柄をより慎重に見て考える態度が必要になって来ている事は忘れないようにしたい。私たちが見ている自然はほとんど誰かがイメージしたように作られた自然である事が多い。作られていない自然は普通人間の都合の良いようにはなっていない。
今の教育をきちんと先生にしかられないように受けているーと言う事は、自分が何を見て何を基準に何を決めているかを、知らないうちに誰か特定の人に都合のいいようにしむけられているのではないか、というあたりは、常に点検していたい。もちろんこの文章も含めて。

何だかすごく面倒な世の中になって来たなあと思いつつ、しかし、僕は明るい(計画され作り込まれた)里山の散策も、ひどい薮コギ(や、気をちょっとでも抜くとすべり堕ちてしまうような道)の直登も両方楽しみ続けたいと思う。

2010年 9月17日  乾いた気温20度の風。快晴。


朝に書いている。今日は休みなのだ。
朝一で銀行に行きその帰り胞夫さんの病室に寄って様子を見る。丁度看護婦さん達が朝の手入れをしてくれている所だった。まったくありがたい。様々連絡事項が出来たので、ふだん面倒を見てくれている弟の所に電話をしたら、メインで作業をしてくれている義理の妹が出て「お兄さん中古車屋さん始めたんですか」という話になった。なにそれ?

家に帰って今、齋正弘のブログ(m-sai.net)を開いてみたら、ううむ、確かにそこは中古車屋さんの宣伝ページになっていた。色々やってみて僕のH.P.は正確にはm-sai.net/なんだという事がわかった。しばらくご無沙汰だったMr.Ameeに電話をして、少なくとも中古車屋さんの宣伝が一発で出ないようにお願いした。いやはや。更新をしないでいると、最近ではこういうことが起こるのだなあ。しみじみ。

この前の更新は8月25日だった。そんなに前じゃない。確かに今年の夏は異常に暑かったけれど、僕の住む岩沼は耐えられないほどではなかった。扇風機と団扇で大丈夫だった。扇風機だって夜は止めて寝られた。とは言え、だらだらと毎日は異常に忙しく過ぎた。帰って来てグタッとしてテレビをボオッと眺めて風呂に入って寝る毎日だった。寝ても寝ても寝たりない感じ。そうこうしているうちに9月も後半に入っていた。

9月にはいると、公務員は来年度の予算作成が始まる。それを巡って、たとえば美術館では美術館協議会という委員会を開く事になる。その各々に膨大な書類が必要になる。明日まで作っておいてね。そういう合間をぬって連日学校を中心とした活動をこなす。最近はスタッフが、そのほとんどをこなしてくれるけれど、前にも書いたように、自分でやるのとは違ったストレスが起こる。博物館実習とか職場研修とか、何やかにや若い人たちも来る。僕は部長で、30分だけ話してねという事になる。全体としては、ここの所をこそ伝えなければと僕が思う事と微妙に違う内容の講義。しかし、多分凄く彼らには受け入れやすい話がそこではされているのだろう。ここでもストレスが起こる。
そうか、昔はこういうの全部自分でこなしていて、今、自分がしている作業をその時代の部長がしていたわけだなあ、と思う。感慨深い。そして、僕は、本当に実践系の人間なのだなあとも思う毎日だった。だから、帰宅すると、グタッとして、ブログなんか書く気が失せてしまう。でも、言い逃れだな、こういうの。

昨日は、角田支援学校高等部の連中が来た。美術館探検風美術探検をというリクエストだったけれど、全然元気でクリアな人達で、ガッチリ美術探検。活発な会話のやりとり。こっちも元気になる。終了後しばらく気絶したけど。こういう毎日だといいのだがなあ。

今朝は、ゆっくり起きてパンケーキと野菜スープを作ってと思っていたら、昨日までは冷蔵庫に確かにあった卵がない。明美さんに聞いたら済まなそうに、昨日目玉焼きにして食ってしまったと言うではないか。ううむ。でも腐ってしまうよりいいかと思い直して、渡辺さんのバケットの通常の朝ごはん。その後銀行でお金を下ろして胞夫さんの所に寄り、このブログを書いて昼飯を食べ、仙台に出て、S立の展覧会や何かを見て、確か3時頃からKYグランドホテルに行ってアートミーツケア関係の講演会を聞いて、夕方から鍼灸。こう書いてみると動きすぎだな。

今、午後3時だ。まだ岩沼にいる。何しろ天気がいいので、午前中に立てた予定は、ほとんどキャンセル。ゆっくり磯浜のピザ屋に行ってパスタとピザの昼ごはんを食べ、家でお相撲を見ている事にした。ほとんど極楽。4時過ぎたら出かけて模型屋さんをひやかし、その後鍼灸。帰りに讃岐うどんを食って今日は終了だ。

2010年 8月25日  真っ赤な満月の暑い一日。ふと秋の風は吹き始めてはいるが。


しばらく更新が途絶えた。体調は万全だ(と思う)。19日にあった美術館の定期身体検査では、身長が伸びた(1ミリだけだが)し、体重は3キロ減り、腹囲!は5センチ!減った(去年、僕はメタボリックだと診断された)。総合診断をしてくれるおじいさんのお医者さんに、「おっ、良いですねえ、続けてください」と言われた。万全快調。やや夏バテぎみだとは思うが。

昨日部内の話し合いの中で環境系アーティストの話になり、カンディンスキーから始まるデビッド-ナッシュ、それに続くアンディ-ゴールズワージー、ええとそしてあのドイツの、なんて人だっけ、しばらく前に岩手県美で展覧会やった、あの人。名前が確か何とかウノ。名前が出ない、作品は思い出してるのに。半日かかってニルス-ウド!だったのがわかった。ついでにその時自分で買って来たカタログも創作室の書棚の奥に見つけた。
というような毎日になって来ているのでなかなか文章がまとまらないのだ。まとめようという意識も、最近なんとなく希薄になって来ているように思える。汗だくで帰って来て。ダラダラとテレヴィで紀行番組なんかを眺め、もう遅いと10時過ぎに寝てしまうような毎日だった。やや反省。いくつか書き留めてある文はあるのだが、どうも詰めが甘く独善的だ。一応やったことだけ書き留めておこう。何しろ、この前書いたのは7月の末なのだから、忘れないように。

8月に入ってすぐ県教委主催選抜中学生職場体験1週間が始まった。教育普及部のスタッフが主に関わったのだが、普段言ったりやったりしていることとは違って、中学生と相対すると彼らはやたら学校の先生風になってしまう。見ている僕はストレスが溜まる。なぜ見ているだけかと言うと、僕には僕の仕事があるからで、4日市内小学校図工研究会の美術館自主研修。講師を頼まれた僕へのリクエストは「版画」。朝からやたら暑い中、30人を超す先生達と広瀬川河原までお散歩して石ころ拾い。そこでの行動を使って、コピーとか、写すとか、複数とかについての極基本的な概念把握と点検をする。この方が各人の授業で使えるヒントになるのではないかとの思い。崩すまでは行かなかったと思う。
その日は僕の認識不足で、午後2時半から県教育研修センターでの高校初任者研修での社会教育についての講義がバッティング。なのでみんなにはお断りを入れて、版画研修は2時に終了。カングーを自分で運転して宮教大脇の県研修センターへ移動。この暑い中ネクタイを締めたり(♂)リクルートスーツを着たり(♀)の高校新任教員達への2時間程のお話。こっち(僕)はアロハに半ズボンなので申し訳なかったけれど、一体、教育はこの後どっちへ誰のために行くことになるのだ、というようないつものお話。
7日8日は休みのはずだったのだが、ちょっとした手違いがあって8日の午後に公開の美術館探検のため出勤。予定外の雑誌に間違ったお知らせが出てしまったのだ。にもかかわらず、ビックリする程の参加者が集まり、ビックリ。月曜の定例休日は、突然気が向いて庭の手入れ=草取り。ゴミ袋5袋分むしる。終了後ストレッチをしてヴァームを飲んだけれど、筋肉痛でしばらくへっぴり腰になる。
10日11日は県教育研修センター主催図工科研修。一日目は版画のスキル。二日目は一日鑑賞の研修。というのが事前にわかっていたので4日の研修を組んだのだが。それらの研修の合間をぬって、部長の仕事は美術館の事業評価への対応打ち合わせなど。大切だとは思うが、そもそもの所でズレているので、眠気との戦いになる。
12日は、だいぶ前から打ちあわせ済みだった「夏のノッツオ」。気心の知れたいつもの仲間と青根の家の川へ。台風が本州をかすめる中、半日山の谷川で川石を積み重ねてダム創り。水が溜まった所でただダボンと水しぶきをあげて飛び込んだりするだけの遊び。その後温泉で身体を温め、友人の革細工屋さんに寄り、チーズシェドでチーズドリンクを飲む(だけのはずだったが、なんだかすごく美味しそうだったので、全員しっかりいろいろ食ってしまった。やたら美味かった)。帰る間際挨拶に寄った木村さんちで、凄く良い!リコーダーの演奏を聴くことができた。先生達、私たちの音楽で教えているリコーダーがこうなるのか!と深く感動。これが今日の目的だったのかも。
この辺り学校の先生達の研修が相次ぐ。多分すべての学校がそういう時期なのだ。一日に2つの学校が重なる程に、みんな熱心に鑑賞の研修に来る。今年からは、うちのスタッフがだいぶ受けもってくれるようになったので、僕はまとめに少し出てわかったようなことを言うだけ。身体的には見た目大変ではないのだが、冷房と「それ」を静かに見ているストレスとで、毎週鍼灸の先生に「どうしちゃったの」と驚かれるぐらいには体調不良。
そうして、やっと今週だ。今日から博物館実習30名一週間が始まった。それをぬって、学校が始まるから、その前にの、先生達の相談や打ち合わせやそして来年の予算だ。
去年の今頃は、心筋梗塞でほとんど入院していたことを思うと、結構感慨深い忙しさだと言えるかもしれないが、ま、程々にやって行こうと思う。とはいえ、早速明日は、立教大の博物館見学が来て美術館の教育普及に付いて話を聞きたいというのが午前中で、午後からは河北カルチャーセンターの美術館研修が入っている。商売繁盛と言うべきか。

2010年 7月 31日   スパっと晴れない一日。湿度は高い。


金曜まで相変わらずの密集した活動が続いた。僕も実践をしなければいけないほど活動が立て込んでくると、僕とスタッフの立ち位置の違いが顕在化してくる。今日の子供達は良かった、あそこの幼稚園はいけない、というような話(感想)が朝の話題になる。僕の感想はいつも「今日の子供達はみんないい子供だったねえ」。目標の置き方と「今」の意識の仕方。
美術館の活動だったはずなのが義務教育の授業化してしまって、まず全体にかぶさっているはず/べき美術の意識の持ち方や、美術館の中でしていることの意識などが、つい学校での授業風になってしまう。活動後の点検で、その辺りを話題にすると自分の活動の方を中心に意識の流れを組み立てようとする。どうしてそう出来なかったかの申し立ては私の若い頃と同じだから良くわかるけれど、そこからもう一歩踏み出すには、ここ(社会教育施設としての美術館)での教育の概念を組み立てる経験が、美術を巡ってはちょっと足りないのかなあという感じがする。むずかしい。意識の組み立てを学校の中でやって来て自信を充分持っている人達。そのこと自体の点検をすると、自己崩壊が起こるのかな? 僕はやはりあまり学校的な人ではないのだろう。
みんなに大変助けてもらっているのだが、それゆえにストレスフルな毎日だった。で、何しろ何はともあれ、今日から3連休だ。とはいえ、最後の月曜にはもう仕事?が入っているのだが。

朝ゆっくり起きて短い休日用半ズボン(美術館は作品のためにきちんと冷房が入るので、夏は半ズボンといっても本当は7分ズボン)に胸ポケット付きTシャツ(だからYシャツを着なくてもいい)を着る。単純にこれだけで、僕は相当嬉しい。普段の朝のようにバケットにカフェオレの朝食に、今日は目玉焼きと残り物の野菜も食って、手紙を出しつつ胞夫さんの病院に行く。
口を開けて寝ている。すっかり痩せて来ているが、顔色はいい。看護婦さんが来て体温を計る。36、8℃。時々目を開けるが焦点は合っていないみたいだ。僕が声をかけつつ覗き込むと、すぐに何かに気付いたかのようにきつく目を閉じる。目を合わせたくないのかもなあ、と思う。しばらく一緒に座っていて帰る。外出の準備をしビルケンのサンダルを履いて自転車で駅へ。長町で降り、地下鉄で連坊小路のしのだ機械時計店へ。頼んでいた26ミリ幅の腕時計ベルトが届いたとの連絡があったのだ。しばらく前に買った服の外側に着ける大口径の航空時計を持って行って替えてもらう。もともと付いていた素敵なベルトは本当に服の袖の上からしか着けられなかった。冬はそれでも何とかなったのだが、夏になると半袖になってしまうので困るのだ。これで、夏でもこの時計をいつも使えるようになった。持っているものをどんどん使い込むのが僕は好きだ。ついでに、昨日強くコンクリートの床に落としてしまったソ連製の60時間巻き腕時計のオーバーホールもお願いする。とにかく開けて見てみましょうということになる。こういう時計屋さんがいるので、持っている時計が増えてしまうのだ。僕の毎日使う腕時計はほとんど機械式で、相当壊れても、ここで相談するとなんとかなる事が多い。胞夫さんがもう駄目だからあげるよと言っていた、出たときは世界で一番薄い機械式だった古い日本製の時計も再び動き出して、僕の持ち物になっている。ただその時計はネクタイ労働向きなので、彼は毎日使えたが僕が使う機会はあまりない。

連坊入り口の時計店を出て、JRの並びの亀井美術館に行く。渡辺雄彦展。展示期間は2か月と長いのだが8月1日まで。見に来る時間がやっと取れたと思ったら最終日になっている。春に美術館の小企画展で杉村淳をじっくり見られたので是非比べたかった。様々了解。ついでに日本の近代の巨匠達の作品とも見比べられるので、面白かった。平面に絵を描くって、何を見て何を描くのかが良くわかった。難しいもんだなあ、としみじみ思う。僕は最近、本当に絵、描くの下手になっているので、そろそろ一人静かに練習始めてみようかなと思った。

もう十二時少し前だったので、河北新報の裏に出ておひさまやで昼飯を食おうと行ってみた。しかし今日は土曜日なので、もうこの時間は常連っぽい人達で満席だった。みんなワッシワッシと食べているのが見える。急に腹がすいて来てこうなったらレーションで食うぞと決心して前を素通りし、東二番町まで出たら、西の突き当たりにあるカフェレストランが開いているのが見えた。そうだ、あそこにもあった。で、柳町のノワイヨへ。十二時ちょっと過ぎていたがこちらは僕が最初の客だったようだ。いい雰囲気の店内に僕一人。窓に面した細長いテーブルにニコニコ座る。普段忘れているが、ここは本格的なヴェジタリアンレストランで、しかも美味しい。これまでここではカレーを食べることが多かったが、今日は土日ランチで、バジルのジェノベーゼライス。人参のスープ。夏野菜のカボナータ。チャイも飲んで、持って行ったミステリーを少し読んだりしてすっかり寛ぐ。
落ち着いてから、是非見に来てと電話を受けていた一番町の工大ギャラリーへ移動し、藤沢野焼き特別展を見る。静かにそっと続けて行くことも、こういう催しには大切だと思うのだが、この後どうしたいので僕に見に来てということだったのだろうか。ピクニックとその2階のギャラリーやその向かいの不思議な雑貨のお店、クロスロード、晩翠画廊に寄りつつ、細横丁を北上してメディアテークまでゆっくり周りを見つつ歩く。暑いけれど世の中は見れば見るほど面白い。

実は昨日の帰りにも寄ったのだが、ここでやっている土屋アトリエを巡る人達のグループ展を今日再びジックリ見たかったのだ。巡る人達の作品は昨日じっくり見たので、今日は土屋先生の作品を良く見る。足首が太い。出っ尻。太くガッチリした骨組み。頭像ですららせんに安定するポーズ。昔彼に習った実践の確認。その後自分で創った作品の中にある彼の造形意識。いやはや、学ぶって/教えるってこういうことで文化はこういう風に伝わって行くのだなあの思い深し。でも、多分、そういう風に思うこと自体が、僕がここまでの人だからそこまでのことなのだろうなあ。早く彼の年齢を超えたいものだ。それまで死なないようにしないとな。しばし呆然と瞑想黙想。凄く考えていたのに、一瞬全部白くなった感じ。立体も再び真剣に創り始めなければ、と思う。まず体操か。

メディアテーク向かいのインターナショナルデザインがセールだったので、同い年の(だから干支が同じでなかなか素敵な兎のデザインをする。ぼくは兎が付いているものに弱い)オーナーの創る現代漆器を半額で少し買う。その後、相沢眼鏡で古い眼鏡を修理清掃してもらったり、モンベルでパラコードを買ったりしながら帰宅。これを書いて今10時だ。さて明日は何をして遊ぼうかな。

2010年 7月23日  風自体が既に暑い一日。青空から直射日光。

フウウッ。やっとグログを更新しようという気がおきるくらいの休みが来た。この前書いたのは7月6日でそんなにはなれているわけではないのだが、あの5日6日あたりの緊張?がそのまま毎日、昨日まで続いていた。そういう時に限って夜帰ってくるとBSでスターウォーズやってるし。でも相撲中継は中止で少し助かったかな。


ざっと思い出してみる。8日9日は県教育研修センターの小学校教員図工研修(含む鑑賞)。今年度から実技も美術館の創作室で行う事になった。だから二日。一日は版画やなにかかにかの美術技術のスキルアップ。二日めは一日鑑賞指導を巡るスキルアップ。県教育研修センターにも図工室はある/あったのだが、昨今の授業時間削減に伴って、そこは今や物置と化しているらしく、道具をはじめとする環境が整っている美術館創作室に最初から来てしまう事になった。僕がそうした方が良い(本質に素早く直接触りやすい)のではないかと言い続けていた頃には、教育現場での美術は美術館がいう美術と内容が違うとか言っていたような気がするのだが、今度は最初から全部で全員来る。明日からすぐ授業で使える美術をやってしまうと、美術が関われる最も大切なあたりがすごく曖昧になってしまうような気がするのだが、でも一方「おう、ここまで来たか」の感慨もあって、複雑。でも本心ややストレスフル。


続けて10日第2土曜は通常の公開美術館探検。10歳以下のための鑑賞練習活動。開始時刻の11時、創作室前の集合場所に出てその集合人数に驚く。普段多くて5名だったのが、子供15名程、最近は子供一人に親と祖父母も来るから大人約45名。テレビの影響。出演2週間後に効いてくる。でもそういう親の子供だから?子供たちは大変扱いやすい人たち。大人用の話もしつつ実践。(私の考えていたのと違ったので)つまんなかったと言う女子が一人いた。次の日は、通常の公開美術探検。数名の大人の参加者+埼玉県立美術館エヂュケーター4名。質疑応答付き。で、次の月曜日はゆっくり寝坊できる休日のはずだったのだが、脳神経外科系の薬が切れてきて、朝から病院。早く行かないと一日待合室待機という事になるので、普通の日と同じに起きて渋滞の中をくぐり抜けて出勤!みたいな通院。その後胞夫さんの施設移動入院関係後始末や買い物その他で、あたふたと1日過ぎる。


そういうふうに始まったこの週は、連日夏休み前の学校が来て様々な活動。僕はだいぶ実践の数を減らしてもらっているのだけれど、その分スタッフがやるので、それなりに緊張、かつストレスフル。支援学級や学童保育などの難しそう(に見えるらしい。僕にはそうは思えないのだが)な団体は自分でしてしまう。その方が気が楽だ。16日金曜は振替の休日になるはずだったのだが石巻釜小学校5年生のための移動美術探検。朝からスタッフの運転するトラックに絵のコピーを積んで出張。午前男子60名、午後女子60名。又これがみんな熱心に集中するので、話さなくていい事までおじいさんは一生懸命話してしまう。終わって挨拶もそこそこにすぐ帰って来たのに、戸倉小のときと同じに帰りの車中で気絶。


続く土曜17日「大人の図工」。6月は、ピカソ展を巡って彼の気付いた平面だったので、今月は同じく立体。でも「ピカソと彼を巡る巨匠たち展」は7月11日に終了してしまっているし、キュビズム(立体派)を本当に立体を使って考えるのは、実は大変しんどい頭の中だけの作業なので、あっちこっち様々なお詫びを繰り返しつつ、結局3時間話っ放し。チラリと癲癇の発作の危惧が頭をよぎる。でも素直な参加者の協力で無事?終了。18日日曜は普通どうり開館し、本来休館の19日月曜はなんと!海の日とかいう国民の(ええい、僕も国民なんだがなあ。あ、でも公務員か)休日なので開館。ちょっと調子が狂う。もちろん公務員は必ず代休があって20日火曜は休みだったのだが、朝1番で明美さんの甲状腺の病院の予約有り。重喫煙者の明美さんは駅の跨線橋を昇りきるのに3回は休まなければいけない歩き方なので、9時半に仙台駅前アエル18階の病院にたどり着くためには結局朝7時半頃の電車に乗らなければいけない。この時間に岩沼から仙台に行くためには電車使用が最も確実迅速。駐車場の問題もあるし。結局僕は5時半起きの通常起床。昼過ぎ帰宅しそのまま午後明美さんに携帯電話を買ってあげるために岩沼のソフトバンクに行く。ついでに自分のもおじいさん用のに機種変更。


次の21日水曜。午前中館内管理職会議。ネクタイ労働。午後1時から4時まで県教育庁主管の新任者研修。美術館と学校の連携の考え方の話と、美術探検、美術館探検の実践。小中学校の新採教員118名。中学校教員はスタッフにやってもらって、僕は小学校教員68名程を担当。ずうっと喋りっ放し。22日は朝から隣の仙台二高で胃検診。バリウムを飲み、下剤をもらって、静かにしていたかったのだが、どうしてもここしか入れる所がなかったので、午後2時半から市内の小学校の教員研修。下剤が善く効いたため一応バリウムは出てからだったので少し助かった。けれど、来た人たちは普通の先生達が普通に期待しているような内容の話を聞かされると思って来てたのを、僕のいつもの調子の鑑賞についての話だったので、最初ビックリ、続いて集中、本気で聞き取りのパターンに入って、最後に拍手。結構疲れた。


と来て、この間夜はスターウォーズ。相撲中継中止で良かった?。ここまで書いてもう11時だ。明日はしばらくぶりに希野と家の川に遊びにいくつもりだ。天気暑くてはれると良いなあ。早く寝よう。

2010年 7月 6日   雨は降らず、湿度だけが上がる。風もない。

昨日は月曜で休みのはずだったのだが、朝普通に美術館に出て同僚とおちあい、トラッに作品の実物大コピーを積んで移動美術探検に行く。南三陸町戸倉小学校。6年生に対する鑑賞の授業を小中の先生達のために公開授業。終了後その先生達と公開討論。朝8時半美術館集合で高速を使って美術館に戻って解散が午後6時半。僕はお話だけして、あとの運転とか設置とかの力仕事は同僚のM彦君がしてくれる。それでも帰りの車の中でしばらく失神(前後不覚で寝たと言うこと)。


今日は火曜で午前中定例会議の日。普段なら僕の活動は入れないはずだったのだが、(実にどうにもこうにもならない)様々な理由でここに入れざるをえなかった生活文化大付属高校保育科3年生に対する美術館探検の実践。高校の保育科を美術館に(しかも運動着で)連れて来てくれる先生が出現している。期待に応えたい。こういうのが来てくれるのでは、会議(なんか)の優先順位は低くならざるをえない。朝10時から2時間、活動しつつ解説。12時少し前終了してすぐ、長引いていた定例会議に滑り込んで美術館の空調用非常時電源発電機交換の入札についての打ち合わせ。了承。その後アタフタと創作室に戻って昼飯。


一方今日から美術館地階の県民ギャラリーでは、市内高校美術展。大変いい機会だから美術探検しませんかとこれまでも毎年お誘いをしていたのだが、去年3名。それでも多い方だった。今年は向こうからしてくれませんかの打診。で集まった高校生80名。どうしちゃったんだろう。自分が高校生だった時に美術探検を受けた人が先生になり始めたのだ。で各学校から計80名。最初20名ずつ4グループに分けて来て、各30分ずつ4回でお願いしますということだったが、相談して40名2グループ各1時間にしてもらう。参加者は全員美術部で絵を描く若い人達だからものすごい集中。途中で生あくびするやつがが出てくるし、立って話を聞いていると倒れそうに見えてくるやつとか出て来たので途中で床に腰を下ろさせ、僕は立ったまま2グループ2時間連続口角泡を飛ばして熱弁。熱心に見つめられて集中されると、手を抜くわけにはいかない。その後高校美術展をざっと見て創作室に戻り、最近やたら増えて来たインターンシップとかキャリアなんとかいう、いわゆる職場体験を巡るあれやこれやに付いてA川君と話をし、合意の基に(口裏を合わせた上でとも言う)様々な対応を決めて担当の人にお願いし、今朝来ていた手紙を一通り開封し読んでホット一息着いたと思ったら5時15分だった。ちょっと今日は特別だったな。さすがにこの後歩いて駅まで帰るのはおっくうだったので5時29分美術館前発の宮城交通バスで駅まで。これを書き終えたら風呂に入って早く寝ようっと。

2010年 6月27日  梅雨の曇り空。蒸し暑く無風。

長い間更新が途絶えた、と思っていたら,まだ6月だった。何だかせわしないストレスフルな日中が過ぎ,家に帰るとぐたっとテレビを見て/眺めて、適当な時間に寝てしまう。結構時間的にはちゃんと寝ているのに,毎日何となく寝不足気味という過ごし方だった。とは言え,この金曜日に武蔵野美術大学でのお話(ワークショップとファシリテーションを巡って)が終了して一段落ついた。ちゃんと書くとしつこく長くなるので,とにかく経過したスケジュールのメモを書いておこう。


既に書いたかもしれないが,心筋梗塞ステント挿入手術6ヶ月経過定期検診は,何事もなく万全になってるぜ(直ってるぜではなく)の確認が、一泊で入院終了。ただ退院した次の週から毎日,沢山の団体との活動。主に,すごく小さい人たち。就園前の2歳の人達とか,山形からわざわざ来てくれた自主保育年中組とか。


一方,胃瘻の手術をしようとして末期の腎臓癌が見つかってしまった胞夫さんは,急遽胃瘻設置から胸へのCVポート取り付け手術に変更。CVポートは点滴をするための人工強化血管で,皮膚の下に,シリコンの幕で覆われた円盤を埋め込み,ここに針を刺して点滴を行う。2万回までは大丈夫との事。2万回以上はたぶん必要ないんだな、と思う。その手術の抜糸も終えたので6月初めの週末に総合病院から,かかりつけの町内の医院に転院。これも今は,福祉タクシーという車(人二人付き)が来て,ベッドからベッドまで手早く確実に運んで移してくれる。付き添いは弟に依頼。僕は美術館で電話番。普通ならターミナルケアでの入院は大変難しいのだけれど、小さい頃からかかりつけの町内の医院は、快く受け入れてくれた。胞夫さんの人徳もあるのだろうが本当に心から感謝。こういう所も実家のある場所に戻って新たな生活を始めた利点だろう。

 

又,精神科の薬をスッパリ終了した明美さんと,紹介してもらった甲状腺専門病院に出かけ,検査の結果、彼女は甲状腺がもともと小さく、甲状腺ホルモンが異常に少ないことが判明。しばらく薬を飲んで適切な状況を見つけ出す事になった。とは言え,前ならその薬のコントロールは僕に回ってくる所だったのが,今は彼女自身で毎日の薬のコントロールはできるようになっており,その薬を飲むために毎朝僕と一緒に起きて!軽い食事をとる(そして薬を飲む)ようになっている。ものすごい,信じられないような立ち直り方だ。


個人的な、病院を巡るこういう作業は、僕の休日に集中して行われる。もちろん休みでない日は,ほぼ毎日、おもに学校関係団体の対応が、この時期(連休明けで,子供たちが新たな学校生活に慣れ始める時期)続く。ただその続き方が、最近尋常でなくなってきている。ちょっとやりくりの塩梅をしくじると,すぐバッティングしてしまうし,うまく行ったと思った時でも,実は少しの休みもなく4グループ続けて美術館探検,などということがおきてしまう。スタッフのやりくりに心を砕く。仕事があるのは大変いい事なのだが,美術を巡る教育的な仕事は、雑になるだけで根本的に美術と違ってきてしまう事が多いので、気を抜けないのだ。続けて4グループはしてはいけない頻度にはいっている。そして必ずそういう時に重なって,県の教育研修センター主催の小学校の先生たちに対する鑑賞の研修なんかが2日間連続で入ってくる。


教員に対する研修は,これまでずうっと僕が一手にやってきた。しかし,今いるスタッフは優秀な人たちで,彼等がこれまでやってきた学校での経験をふまえ、その上で新たに驚愕的に加えられた美術館で学び感じた事を、ちゃんと「パワーポイント」にまとめて研修する/させるという事になった。実際彼等の実践はこれまでも書いたように,僕にも新たな視点を気付かせるような気持ちのいい活動で、そうか文化や教育はこういうふうに伝播していくのだなあと思わせられる所が多々あった。彼等からの申し出を受けて今回は,その大部分を彼らに任せる事にした。研修は無事済んだ(と思う)。しかしパワーポイント(P.P.)を使わずにする授業は無くなってしまった。P.P.を使わないという事は自分でまとめなければいけないと言う事だが,僕のお話は様々な意味と実践の関係が有機的に重なってまとめるどころかメモを取る事もできない。でも,そのかわり強くビックリが残る。

たぶんワークショップ,しかもファシリテーションの要素が強く意識されたワークショップは,要約できずメモもとれず,しかしビックリは強く残るというあたりが大切なのだという事が今回解った。そういうふうにして記憶された要素は,しばらく,例えば30年ぐらいたって,必要が起こった時にふと記憶の表面に浮かんでくるのだと思う。この知識は誰によっていつ教えられたんだろう?などという事はもうすっかり忘れてしまているけれど、思い出して豊かな気持ちになれ人生の余裕につながるみたいな,そういう文化の伝達をこそ目指したい。そういう方向では物理的にやや楽になったぶん、こういう方向ではストレスは深まる事になった。いやはや。


今,美術館では「ピカソと(ちょっと嘘)20世紀美術の巨匠展(こっちが正しい)」と言うドイツケルン/ルードヴィヒ美術館所蔵名品展を7月11日まで開催中なのだが,実はこれはミヤギテレビ開局40周年記念事業!なのである。ポスターの上の端っこの方に小さく薄くチョコッと書いてあるのだが,ミヤギテレビとしては本当はここの所だけ書いてあるでも良いくらいの力の入れようなのだ。なのでテレビの取材が頻繁に入る。第2週にある公開(うちの活動の基本は個人なので個別に相談すれば本当はいつでもできるのだが)「美術館探検」も,事前に取材されて,ミヤギテレビ「Oh!ばんです」かなにかに流れたらしい。

取材のときの参加団体は,山形から来ていた保育所のすごく元気のいい年中組の人たち(という事はごく典型的な普通の4歳の人間というような意味だが)で,参加者が良いので大変良い活動ができ,という事はまるで絵に描いたような(と言うよりテレビ映りの良い)理想的な幼児向け鑑賞活動が記録された。そしてそういう映像が、取材中感動しっぱなしだった女性リポーターのお話付きで放送された。その後の第2週の土曜日。午前11時から始まる活動に,「いったいみんなどうしたの?」と言う程の人が来た/押し掛けた。普段は最高でも5名ぐらいなのに。ビックリ。開始場所の創作室前廊下いっぱいの人。しかし冷静に見ると、そのうち子供は10人もいない。最近では子供一人に両親と両祖父母まで来るので,一人の子供に大人5~6人付きという事になって,全体では4~50人の団体になってしまうのだった。ビックリ。でもそういうふうに来る人たちの子供だから,彼等は大変良い子供達で、活動自体は和気あいあい楽しく過ぎた。いやはや。


そういう毎日を過ごしつつ、6月の第3土曜日にはその特別展に寄せて「大人の図工 ピカソを考えるー平面から」という活動。広報に出た正しい名称は忘れてしまったが,だいたいこういう感じの標題。参加者は,たぶんこういう内容だろうと期待する所があったようだが、そういう考えは各自が考えている世界を肯定するためにだけ働くので,ほとんどの人ははずれ。内容は「塗りつぶし」とそれに続く僕のポートレートの「写し絵」。「見ている」「見えている」の確認と実験。ピカソが気付いた事と今の自分の立つ位置の確認をする活動。7月は同じ題で立体。

そして25日金曜日午後遅くに東京武蔵野美術大学で「ワークショップとファシリテーション」の講義。武蔵美は東京の西、小平市という所にあって、美術館が始まった頃は一日がかりで行って一泊して帰ってくる所だったのに、今は午前中美術館で事務仕事をして昼前の新幹線に乗り、大宮乗り換え埼京線武蔵野線を乗り継いで新小平に行く。2時間講義して大宮に戻り夕飯を食べて日帰り。パワーポイントを使わない90分ぎっちりしゃべりっぱなし。始まってすぐ寝てしまった人も何人かいたけれど、途中で起きてその後はずうっとニコニコ聞き耳を立てる授業。受ける側に主体を置く教育の実践ってこういうことだったんだよという実践。脳味噌がものすごく疲れた感じはあるのだが、帰りの電車では寝ない/寝られないで、多分疲れが出てくるのは4日後だな。これが終了したので,今日,一応のまとめを書く事にした。いやはや。

2010年 6月 8日  快い曇。雲の向こうに青いもの、ああ、あれは宇宙か。

胞夫さんに胃瘻を着ける作戦は実行に移された。これは実に絵に描いたような外科の手術なので、様々な検査が伴う。その中の一つにお腹の詳しいレントゲン撮影やCT検査があった。そのいく枚かの写真に何か影が見えたのだ。胃瘻手術をお願いした南東北病院は、仙南にいくつかある総合病院のうちの主力のひとつで、こういう場合、すべての科目がよってたかって徹底した検査が行われる。

その結果、その影は、すでにほぼ全身に転移した腎臓癌だったことが判明した。

今回胃瘻がうまく出来ないようだということまでは聞いていたので、今後どのように介護を持って行くかの相談もあるから、施設のケアマネージャー(施設長)と看護士さんと弟と僕が、4人そろって話を聞いていた。そこにこの話が突然出て来た。みんな胃瘻をこの後どうするかという話だと思っていたので、一瞬呆然とし次いでシンとなった。ええと、それはすなわちどういうことでしょう。

それは、もうほとんど手遅れだということがわかったということだった。うまく保って6ヶ月。でも検査写真を見ると様々な部分が肥大していて、いつどんなきっかけで破裂するかわからない。ここまで来ると栄養を与えては駄目で、水だけ。経過を静かに見守るしかないということだった。


話は、まったく降り出し?に戻った。そもそも腎臓癌がひどくなったので、食欲がなくなったリ、傾眠がひどくなったり、点滴のための血管が見つけにくくなったりしたのだろう。齋の家系には僕の知っている範囲には癌に罹った人はいなかったので、こっちの方向はちょっと気にしていなかった。青天の霹靂。

彼はもう充分に歳を取っていたので進行は静かにゆっくり進んだのだろう。腎臓癌はほとんど痛みを伴わないのだそうで、それも発見が遅れた理由のひとつだ。何はともあれあとのまつり。点滴を楽にできるようにするため、今回の入院中にCVポートと言う点滴用の人工受け口の手術をしてもらった。パイプは繋がらないが、どんどんサイボーグ化していく。


さしあたって今後、ターミナルケアを巡って考えと覚悟を進めることになる。一応今日の報告はここまで。

2010年 6月 6日  快晴。空気軽くさわやか。

しばらく更新が途絶えたが、僕は一応元気だ。ただ書けなかったのはいやはやなんだか凄まじい数週間だったからだ。今思っている/感じている「これ」はなんなのかについては、またきちんと考えなければいけないのだろうが、さしあたって何があったかだけは今日書いておこう。とは言え、どこから始めればいいだろう。


親子展(5/11~16)は、うまく終了した。胞夫さんは5月31日入院検査、6月1日胃瘻設置手術。僕は、5月27日入院。昨年心臓環状大動脈に3個めのステントを入れた手術から退院する時、半年後の検査入院のことは言い渡されていてその時の話では、ま、一週間もあれば大丈夫だよと言われたと、固く信じていた。だから、今回行くにあたっては、1週間分の下着と身の回りの道具と、それから本を、全部大きなバッグに詰め込んで、勇んで出かけた。

当日受付にいったら結構沢山の僕と同じ状況の(みんな僕とほぼ同じ年代の)人達がいた。そしてこんな大きいバッグを担いでいるのは僕だけだった。みんなナイロンのちょっとした手提げ袋程度。「みんな慣れてるんだなあ」と僕は感心してみていた。検査とはいえ、カテーテルを心臓まで入れて造影検査をするわけだから、最初の日は血液検査とか心電図とか何か検査のための検査をするのだろうと、心から、僕は思っていた。呼ばれて、みんな列んで連れて行かれたのは、カテーテル検査室(僕が最初に検査されて、そのままステントを入れられた手術室にもなる所)の前の廊下だった。大っきい荷物を持ったまま、ハイ裸になって検査着に着替えなさい。ええっ、このまま始まっちゃうわけえ。と、いう間もあらばこそ、あっという間に手術台?に寝かされて、部分麻酔を打たれ、あれよあれよという間に例のズズッという感じとともにカテーテルが入って来て身体の周りをスターウオーズの医療機器が駆け巡り、ハイ一丁出来上がり、次の人と交代、という感じに、検査は終了。息つく間もなく病棟に移動。未だ前の人が退院していないので昼過ぎまで食堂で待機。昼からは病院の食事が出て、病室に荷物を解き、お見舞いに来てくれたK子さんにちょうど27日発行の雑誌を買って来てもらって、万全の入院体勢に突入。これで1週間の休息に入れる(はずだった)。

夕食も終わって、寝ながらテレビを見ていたら「齋さん、ナースステーションに来てください」の呼び出し。ドキッ。何事がめっかったかと、急いで出頭。いたのは若いお医者さんだった。検査結果のレントゲン写真がライトボックスに張り出してある。なんかヤバそうだなあ。

話は、「結果は、凄く良好で、全然問題ないから明日退院」ということだった。ものすごい拍子抜け。混んでるから午前中で出てね、昼ご飯は止めておくよ。という追い打ち付きだった。1週間分の準備をして来ているんですけどとは、まったく言えなかった。いやはや。

次の日午前中、持って行ったものそのまま何も出さずに、行く時と同じ服着て退院。28日金曜日はもともと休日だったし、週末は僕が入院するとみんな思っていて休みをやりくりしてくれていたりしたので、そのまま休みにすることにした。


胞夫さんの方の手術はどうもうまくいかないようだという電話が入ったのはいつだったろうか。週末に、美術館のスタッフから「2日にテレビの収録があるのだが、どのように対応すればいいか」について相談の電話が入り、様々な状況が重なって、2日から通常どおり出勤することにする、なんて事に重なって、胞夫さんの話が来たのでなんだかもう混乱してしまっている。美術館からの電話の相談も、僕から言うと、これはこれで、なんでそうなるのかなあ、これまで僕の話聞いていなかったの?という内容で、これは忘れなければ、また別にきちんと書かなければいけない。こっちは僕の仕事というか、生き方の問題で大切なのだが、そこに父親胞夫さんがまったく別に絡んでくる。

明日は朝から、明美さんの病院に行かなければいけないし、その後、僕の病院に回って、別の問題を解決しなければいけない。もう遅いので今日はここまでで寝よう。でも、問題はこれからが佳境に入る。

2010年 5月25日  雨。強く弱く朝から執拗に。薄寒。

胞夫さんが再びモノを食わなくなった。水も飲まないので、脱水症状になり一気に動きが鈍くなる。そうすると、僕の携帯に施設の看護士の人から連絡が入る。何か食べさえすれば、基本的な体力はあるので、元気に生活が出来るのだから、胃瘻(いろう)を着けましょうと言う。胃に着ける瘻管。身体の外から前もって手術で胃に管を通しておく。食べられなくなったらそこから水や流動食を流し込む。さあてなあ。ここしばらく考えていた。


まず第一段階は、行きつけの病院の看護婦さんに出張して来てもらって、点滴で結構多量の生理食塩水を補給してもらった。一気に顔に赤みがさし会話も始まり、さっきまで死にそうに見えた人とは別人になる。水は凄い。簡単なものだが食事もするようになった。しばらくこれでもった。

その胞夫さんの小康状態の合間をぬって、5月11日から16日、僕は長女の齋悠記との親子展である「さいさいてん」を仙台市内の画廊で行った事は前に書いた。様々な問題を勘案してここだけが空いていたのだ。ということは9日搬入展示から17日搬出後始末まで、何やかにや気ぜわしく過ごしたということだ。


一方今週の木曜日から1週間程、僕は昨年末の心筋梗塞ステント挿入手術6ヶ月経過状況検査のため入院することになっていた。そういう状況があることは胞夫さんの施設の人には伝えておいた。

今回来た新たな電話は、いよいよ胞夫さんの血管は様々な問題が重なって来て、点滴が出来なくなって来たというものだった。僕が入院する前になんとか方向を見つけたいと言う。最終的に胃瘻を着けることに決定。様々な手続きや付き添いは、今回初めて弟達に回してみる。なんとか動きそうだ。まずやってみなければ次は始まらない。そうすることで元気になるならそちらに行ってみようとは思う。彼本人はどう考えているのかはわからない。そういうことを話さない人だった。おっかながりだったのだろうと思う。

ただ僕はそうしないようにみんなに言っておくかあるいはアルツハイマーになったりするかもしれないから、何かに書き付けておこうと思う。


今の胞夫さんのようになったら、僕は静かに死にたい。身体にはパイプを着けないこと。


こういうときは様々なことが次々に起こることになっていて、明美さんの主治医から電話があって、最近薬をとりにこないけれど大丈夫か?ううむ、ある事情で、最近凄く大丈夫なのだ。昨日、二人で雨の中、長い間お世話になった精神科の病院に行って、僕らは今のままで充分満足していることを話し、正式に精神安定剤中止。美術館の活動も連休が明けて様々重なって忙しくなり始め、良く言えば充実した毎日が忙しく過ぎている。本当の所ちょっと休みたいな。あ、一週間入院するんだった。早く入院しよう。

2010年 5月18日  朝は薄い雲のある快晴。風涼やか。

先週展覧会。「さいさいてん」。上の娘と親子展。毎回,彼女は作家として充実してきていて,ややたじたじ気味に出品。ま,年齢的に当然だと,自主的に納得。昨日の月曜日は,絵を買ってくれた人の家にそれを運んでいったりして過ぎる。実質的には昨日で終了。ずうっと天気がよくて良かった。


一方,しばらく連絡がなくて安心していた胞夫さんが,再び食べなくなってきたとの連絡。施設の人はなんとかすぐに胃瘻を付けたいと思っているようなのだが,さてどうしようかなあ。しばらく悩みそうだ。また「2CVの車検が迫りましたよ」という連絡が来たと同時に「2CVチャールストンが出たけどいらない?」という連絡。僕としては車体だけなら欲しいんだけどと話したら,相談に乗ると言うでは有りませんか。これも様々な決断を素早くしなければいけない。


一見まったく違う事のように思えるが,僕個人としてはほぼ同じ状況に思える。両方ともしばらく放っておけば自然に何とかなるというモノではない。最近書いているように「神をも恐れず,自分で決める」を自然にしなければいけない状況。歳を取って様々な事の仕組みがわかってくると,こういう事は実に大変だ。でも,あまり先を考えすぎず,その時その場所での想いを大切に,様々決断をしようと思う。

2010年 5月 5日  乾いた快晴。夏は来ぬ。

しばらく書かないでいるうちにもう5月5日だ。気持ちのいい事があったので書いておきたい。

さる2日、トコトン(仙台市内図工系小学校教員自主研修実践団体)の人たちとの今年度最初のノッツオ。ノッツオは「野走」で,仙台弁で適当でいい加減な力の抜けた状況の物やコトのこと。「ノッツオをこく」というふうに使う。今回は「仙南こんなんでいいの?散歩」をこいてきた。何の事はない,いつもここで書いている亘理山元空間野外博物館の幾つかのスポットをみんなでゆっくり歩いたというだけの事なのだが,みんなで行ったのにまったく疲れなかったという、夢のような気持ちのいい一日だった。


まず基本的にお日様は機嫌良く一日中照り,乾いたそよ風が絶えず吹き渡り,鳥は鳴き、花咲き乱れ,遠くに潮騒の音が通奏低音で聞こえ、人にはほとんど会わずに未舗装の道の真ん中を広がって歩き,でも会う人たちはみんな「こんにちは」と素朴なアクセントの挨拶を交わし,少しでも気になる物やコトがあると立ち止まり,見て聞いて嗅いで感じ、怒られそうな事はとにかくやってみて見つからず,幾つかある公衆便所は汚れていず,昼飯はちょうどおなかがすいてきた頃にうまいピザ屋が有り,そこのパスタとピザとアイスクリームがこれまた結構うまく,こんなにカロリー取っちゃっていいのかと思っても大丈夫なくらい歩き回ってるし、人の家を覗き込めば,みんな美しい花やすごい立ち木のある庭や面白いウインドディスプレーを見る事ができ,ものすごく古い木に挨拶する事ができ、ついでに樹齢600年700年というそれらの木の幾つかにはベタベタ触ったり乗っかったりでき,もうこれでお腹いっぱいとなってから新鮮で安い野菜をお土産に買い、最後にポラーノ(近所の私設公民館的カフェ)でお茶飲みながらまとめのお話ができたという、今になってあらためて書いてみるとちょっと恥ずかしくなるくらいの、ゆるゆるポワポワの時間を持つ事ができた。いやはや、みんな普段の行いが抜群にいい人たちだったんだねえ、としか思えない。


さて次は夏の川遊びだ。

2010年 5月 4日  鬱陶しい感じの暑い初夏。空は明るい曇りだが。

四月の終わり頃、その時宮城県美術館の県民ギャラリーでやっていた「本間秀一展」をどう見ましたかと聞かれた。即答しかねた。ちょうどその時,詩人秋亜綺羅が送って来てくれたココア共和国という本についていた彼が詩の朗読をしているDVDを見ていた。僕自身も5月11日から始まる齋悠記との二人展に向けて,作品の仕上げ/まとめをしている。本間、秋、齋。この3人は同学年だ。深く想う所がある。


僕の作品を含めて,彼等の作品を初めて見た時はなかなか良いインパクトを受けた。もう30年程前になる。そのときはすべてが前衛だった。という事は、ショックはあったが社会に普通に受け入れられる物ではなかったという事だ。それ以来我々は、その各々の立場で,様々表現を続けて来た。各々の生活が有り,各々の状況があった。

たぶんあの頃の最初の作品を表す事ができた時に,僕たちはその表現のスタイルが自分達にとっても、ものすごく新鮮だったのだと今になると思う。それはその時代のその時のその人を通してしか出て来ない表現だったのだろう。そしてそれはたぶん,すべての純粋な表現に共通する物なのだという事が今はわかる。社会はほぼ30年を経て彼等に追いついて来る/来た。僕たちの表現は、未だその各々の個人の最初の高揚を失ってはいないとこれらの作品を見て思う。でも,社会が追いついてくる。では,30年前に今を表現した僕たちは、現在の社会を追い越しているのだろうか。そういう事はできない事を,その間生活を重ねて来た僕は知っている。そういう事はできないのではなく,しなかったので,今の生活をしているのだ。


僕は,結構今の生活が好きだ。考えもなくダラダラと好きなのではなく,選択し行動して、そうしようとしてそうしている今の生活が好きだ。今,少し離れて(そういう事ができるようになった)これらの作品を見ると,感慨深い物が有る。それらは今や,一つも前衛ではなくなっている。社会に受け入れられているとはいわないが,そんなに奇異な物ではなくなっていて,友達だってけこういるし(前衛には友達ができにくい),そもそも僕たちが友達だ。

今回の作品を見ると彼等は,しかし,汗を振りまき,つばを飛ばして,脇目もふらず作品を発表し続ける/ている、ように見える。ぼくにはすでに、そこに懐かしい未来が少し見える。嬉しいけれど,少し悲しい。この感じは、美術館にいる僕だけに特別な事なのだろうか。萩堂貝塚再発掘調査を知ってしまっている僕は少し力を抜こうと思う。抜けるかなあ。

2010年 4月20日  高曇りの春の日。上着不要。でもマウンテンパーカ着て通勤。

体調とかの問題は特にないし、見たいテレビ番組もないのに,更新が途切れるのはなぜだろう?もう20日になってしまっている。


モーターサイクル初心者(始めたときは全員初心者だが)から夜中に緊急連絡がはいる。すわ事故かと思って緊張して受話器を取ると,「街の中で突然エンジンが止まってしまって,色々やってみたんですけどかかりません。助けてください」電話の向こうで涙声。まったく同じ状況がこれまで何回かあった。それまで快調に走っていたのに,突然エンスト。こういう時の原因はたいていガス欠。ガソリン(燃料)がこなければ,どんなに優秀な(そして日本のモーターサイクルは世界で一番優秀なのだ)エンジンであっても動かない。モーターサイクルには燃料計がついていない(最近はつき始めたが)ので,たいていはこういう時のために予備の燃料がとってある。タンクの下側に燃料コック(タブ)というものがついていて,普段はそれがオンになっている。それをもう一段ぐるっと回してリザーブにすると,タンクの底に残っていた予備の燃料が再び流れ始めて,あと20キロぐらいは楽勝で走れて、次のガソリンスタンドにたどり着ける。

言われた通りにタブをセットし,何回かキックすると,それまでびくともしなかったエンジンが軽やかに回り始める。齋さんの声が神様の声に思えました、という劇的感動の幕切れ。


「ダライラマのオリジナル声明のCD」は僕のCDコレクションのうちで大切秘蔵の一枚だ。この前ある年上の友人が家に来た時,様々な理由が重なって、普段内緒にしていてみんなにはあまり聞かせないその声を聞かれてしまった。その人は別にダライラマファンという訳ではないし、何を言っているのかとかはわからなかったようなのだが,これがただならないものである事は聞けばすぐわかる人ではあったので,敏感に反応して,私にも焼き増ししてちょうだいという事になった。

昨日の午後その人が用事で家に来たので,僕は僕のiTunesを起動して林檎電脳の中に記録してあったそれを 一枚新たに焼いてあげた。すぐできたので取り出し「再びセットして」本当にうまく焼けているかどうか調べる事にした。いつもやっている無意識の作業で音はiMacのスピーカから出て来た。ずうっと出て来た。でね,そのまま止まんないのよ、ずうっと。

ちょっとあせる。録音は一回り20分ぐらいだったろうか。ずうっとリピート。だいたい、CDプレイヤーの操作卓がどこにもない。いやキーボードのファンクションキーの所にある事はあるのだが,操作不能。DVDのときだと,すぐに画面上にリモコンが出て来て操作するのだが,いまやCDはそんなものは必要ないのだという世界になっているのか?それらしいリモコンは出て来ない。ハードディスクから始めるアプリケーションを選択し開いて(なんと電脳的な文章だろう)指示に従って様々あっちこっち、上から下から前から後ろからデスクトップ上で見える(読める)方法について「最近は俺もだいぶ電脳的な人になってきたもんだ」などとうそぶきながら,余裕で様々試みた。すべて操作不能。ついに万策(僕としては)つきて、こういう時のMr.Amee。しばらくぶりに困った時の僕の電脳テクニシャン網N君に電話する。不通。そういうもんだ。おおそういえば,家政をお願いしているくれN子さんは,最近iTunesを縦横無尽に使って自分の音楽コレクションを整理活用していると言っていたではないか。彼女に電話する。つながり相談に乗ってくれる。彼女の明確で自信にあふれた指示に従って操作。こういう声を聞くだけでも心強い。でも,それは自分でもうやってみたけどなあという操作が続く。でも,明確で自信にあふれた声の指示でやるのと,自分だけでホソボソコワゴワするのとでは大違いだ。しかし、だいぶやってみたけど最終的にお手上げ。どうもありがとう。なにしろ様々やるうちには再起動を選択し,画面は真っ暗になって再びジャーンと立ち上がるという操作も含まれていたのだ。しかしその間も音はなり続ける。なぜ?こういうのあり?

そうこうしているうちに,Mr.Ameeから電話。「どうしました?」「いやあ網N君,待ってたよ,これこれしかじか」。再び彼と,携帯電話を握りしめ,最初から様々な操作を繰り返す。デスクトップ上でのやれる事は,ほぼ同じ、当たり前だけど。俺もだいぶんデジタルになって来たもんだ、と心の中でほくそ笑む。

ついに「では,ディスク挿入口の脇にある小さい穴にピンを突っ込んで静かに押してみてください」という指示。いよいよアナログ作業に突入だ。画面上もキーボード上も、すべての排出ボタンを受け付けなかった(機械の中にはいっているであろう)CDには、デジタルではもう打つ手がない。力まかせの世界の方が僕としてはむしろ安心で住み慣れた世界だ。やっほう。

なのに、ところが、穴がない。挿入口だけしかない。確か昔はありましたよね,リセットボタンっていうのが。最終的にいざとなったら目立たない所にある小さな穴に,クリップをのばして作った固い針金を差し込んで押すと、何はともあれ全部元に戻るっていうのが、昔のMacには。でも,最近のにはない。せめてCDを物理的に取り出すボタンや穴はついていたっていいのではないかと思うのだが,まっさら。ここに来てついにMr.Ameeもギブアップで,明日アップルストアに持っていきましょうという事で,今日は終了。

ものすごいストレス。取りに来た人もしびれをきらして/きって既に帰宅。Mr.Ameeとの作業の中で,音はいつの間にか止まっていた。なぜどの時にどのように止まったかは誰も気にしていなかった。何回か,再起動をしたし,電源プラグを引き抜くというのもやったが,そういう時に止まったのではないと思う。ふと気付いたら静かになっていた。でもまあ、それだけの事をしてみてもCD取り出せず。こういうの疲れるよねえ。


ま,とにかく今日は終了。また明日があるさ。

最近買った日本人が演奏するカリンバのCD。普通なら電脳を起動して取り込みながら聞くのだが,今日の今日だしと電脳は止めて、古いCDプレイヤーで聞く事にしてスイッチを入れ,トレイを引き出した。そうしたら,そこになんか見慣れたCDが乗っていた。そう,それこそが今日の午後,なんとかして取り出そうとしてことごとく失敗したCDだった。僕はここにこれを「無意思の作業で普段通り」セットしていたのだ。とり出すも何もそれはここにあったのだ。取り出そうとしたそこには何も入っていなかったのだ。鳴っていたのはコピーする元の音源だったのだ。のだのだのだ。いやはや。


オートバイが動かなくなる原因は実はたいていガス欠である。基本はやはりどこまでも基本である。忘れないようにしよう

2010年4月14日  冷たい空気の暖かい空。

数年前に美術館で作った「美術探検」の報告用小冊子が、ついに品切れになった。公共の予算で作ったから、欲しい人には区別差別なくあげていたのだ。この本は鑑賞活動の報告書なのだが、その内容は、美術館での様々な活動の基本になるものなので、これからも使うだろうと思い再版しやすいように、少し書き足したりして、売ることの出来る形の本にしようと考えた。で、そのつもりで読み返してみたら、これはこれで完結しているのだということがはっきりした。拳は振り上げてしまったのでそのまま降ろすのもなんんだから、新たに何かまとめてみようと思う。さしあたって、どうして基礎教育の学校で表現系の授業をするのか?あたりから書いてみようと思っている。

2010年 4月 7日 春の日差し。そよ風、高曇り。文句はない。

気付いたら4月になっていた。最近、ツイッターとかいう短いブログへの参加を誘われた。僕はしない。大切な事を一言で言えと迫り,結局短い文でつぶやきをやり取りした結果この世界だ、の想いが強くある。大切な事は短くは言えないし、そうしてしまうと正しく伝わらない。一方,短く呟いてしまう内容をきちんと考えてみてそのつぶやきの裏側まで文章化する努力。そうする事によってのみ見えてくる世界は多い。文化は誤解と深読みと早とちりでしか伝わらないと言ってここまで来た僕にして,そう思う。誤解と深読みと早とちりができるためにはつぶやきでは無理だ。今後も,僕のブログはしつこく饒舌で長いまま進む。

でも今日は短くこれだけ。

2010年 3月27日  晴。空気は澄み切って涼しい春。

前の更新からあっという間に10日過ぎた。少し前に沖縄の若い人達から大きい封筒が届いた。心当たりのない差出人だったが、これは、東京都現代美術館の教育担当学芸員GO君からの紹介だという手紙が入っていた。まず「美術の先生は何を考えているのか」という名称のシンポジウムの報告書が出てきた。この名称は挑発的なのかのんきなのかよくわからなかったがパラパラとめくってみた。パラパラ見るだけだと相変わらず造形教育としての美術教育の報告のように見えた。次に「萩堂貝塚再発掘報告書」が出てきた。何んだか怪しい絵も書いてある表紙だったが、体裁としては正しい考古学の報告書のようだった。でも「再」って何? 表紙をめくって数ページは、小難しそうな貝塚の地図(台湾や大陸まで描いてある大縮尺)や始めになどが書いてあって、まったく普通の報告書だなと思えた。その次のページをめくると「史跡萩堂貝塚碑」の前に腰をおろしている、変な帽子をかぶってビーチサンダルをはいたジーパンのお兄さんが二人、真面目な顔をしてこっちを見ている写真だった。

これおかしいでしょう?何なのこれは?座り直してきちんと読んでみた。これは美術作品だった。そしてこれを読むと教育シンポジウムも、美術作品になってしまうのだった。いや、教育シンポジウムのままなのだが、僕には強く美術を意識させるのだった。いやはやこう来たか。

これまで考えていた様々な問題に、様々な方向と様々なやり方で、この報告書は答えを出してくれそうに思えた。パズルのピースが一気にはまって形を見せ始める感じ。興奮した。

この事件を通して考えたことはたくさんあって、しばらく余韻を楽しもうと思うのだが、さしあたってなぜこれほど興奮しているのかを、彼らに書いた返事を通して記録しておこうと思う。


これらの活動は,美術と教育を巡って、大変広範囲に問題を提起している。しかも考え始める(読み始める)と深い。かつ21世紀だ。


話を始める前の幾つかの確認。

学校の図工美術(造形教育)の延長上にだけ美術があるのではない。美術の美は『ビックリ」のビ。きれいだっていうのもビックリだが,きったねえっていうのもビックリ。ある点を超えるとそれらのビックリは同じものになる。きれいな方だけを見るのだけが美ではないという美意識。

本当のことを言うと、絵を描く時は対象を見て描いてない。本当に見ているのは平らな紙。見ているものは全部立体なのに、あえて平らな紙に書く(たぶんだから難しく感じるのではないかしら)。わかるもわからないもなく,描く事って抽象的な活動なのだ。見て描くって,実は頭の中を視て描いている。かつ頭の中に言葉であるものしか見えない。頭の中にあるのが,あなたの世界,それがあなたの世界観。頭の中は他人には見えない。あなたの見ているものはあなただけが見える、あなたしか見えない/見られない。自分の頭の中なのだから、他人にとやかく言われたくないし、他人がとやかく言えるものでもない。そこいらの「相談に乗る」のが美術教育?だから美術教育は造形教育とは(まったく)違う。自分の世界観を作る事が(個人的にはたぶんすべての)勉強の目的。そういう勉強をする時美術は(図工や造形では決してない美術は)大変役に立つ。


世界観を巡る様々な言葉の概念確認を始めると,いやはや止まらなくなりますから、この辺にします。EDUCATION(教育)とSCHOOLING(学校教育)の違いをはじめ「ワークショップのファシリテーション」まで,みんな使っているのにみんな違う概念は,(日本では)限りなく存在する。


一方「近代(モダン)」の問題がある。色々な言い方(という事は考え方)があるが,人間にとって近代はとても大切な思いつきでした。象徴的にかいつまんで言いますが,近代以前,自分が生きているのは,神様(そしてその具体的な執行人である牧師様や王様)のお陰なのだと心からみんな信じていたわけです。そうでない人には罰が当たるのは当然でした。絵を描くのは,神様の作った世界を見えるように残しておく事で、牧師さんの修業の一つでした。産業革命や宗教革命を経て私たちは市民革命に至ります。美人とは誰かを,王様(すなわち神様)に決めてもらうのではなく自分で決めて良くなります。どこか外にある基準に依るのではなく,自分の中に基準を決めて実行しても罰はあたらないという自覚が一般的になる事/気付く事が近代の始まりだと考えると,今起こっている社会の問題の様々な部分の整合性がとれるのではないかしら。近代化した人間というのは,「神を恐れず!?自分で決める事ができる人」の事です。

だから20世紀までは,個人の充実した自立を目指して教育は組み立てられました。とくに,それを効率よく片付けて、沢山の「社会に(=会社に)有用な人」を作るための学校教育では、よりいっそう。だからこれまで,教育は個人の充実を目指していれば充分なのだと思われていました。神を恐れず!自分で決める事ができる。それこそが近代の目指した自己の確立でした。この教育では各自の中でほとんどすべての状況が完結しますから,教える(=多い方から少ない方への情報の伝達)のも簡単だし評価(教えた側がわかりやすいかどうか)も単純でした。何しろ「そこ」という一点を目指して各自全員が頑張れば良かったのですから。


その結果,今があります。問題は述べきれない程おこり,そのすべての理由と解決方法は何となく思い付けるのだけれど曖昧で混乱し、霧の向こうを描写するがごとくです。ものすごく大雑把に言うと,そういう経験を積み重ねて来た20世紀までを経て,私たちはこのような状況の21世紀にいます。美術はすべての表現の原点にありますから,こう来た近代の土台の上に,どう次のモノの見方を立ち上げるのか,立ち上げられるのか,なんて事を最近つれづれ考えていたのです。ちょっと鬱気味でした。


そこの所に突然あなたたちからの『ヘンテコリン」な報告書が届いたのです。何か大変な事なのではないかという感じはしましたが,パラパラ見ただけでは,新たな美術教育のシンポジウムのテープ起こしかな?に見えました。一方本能は,これは捨ててはいけないと言っていました。で,きちんと座り直して読んでみたのです。そのため少し返事が遅くなりました。僕の本能の直感は正解でした。


だいたい,ビーチサンダルを履いて変な夏帽をかぶってこっちを見ている二人の男子,という見開きの写真が,可笑しくもすべてを語っている、というのに読み終えて気付いて嬉しくなりました。この再発掘報告書は美術(それそのもの以外では決してない,しかし各自の世界観の拡大に大きく影響を与えるもの)です。美術の作品です。「そうか、こう来たか/来るか」という新たな美術の方向を示す作品になるのではないかしら。

その次としてのシンポジウム。美術作品としてのシンポジウム。ま,とにかくシンポジウムの報告書としておいて良いのだと思います。そう言いたい人(ほとんどの人はそうかな)そう言わせておきましょう。でも,これは美術の作品だ。直感的に美術館で30年程学芸員をしている僕にはそう思えました。それはなぜか?というあたりの合理付けは,どこかにいるに違いない、あなたたちと同世代の美術館学芸員に任せましょう。作家は,その時代の中でやりたい事(表現したいこと)をできるだけ自由に直接的にやりやすい方法で表現すれば良いのです。それが作品です。その作品を歴史の中に当てはめる合理性を紡ぎ出すのは学芸員です。作家は気にしなくていいのです。ううむ,ちょっと興奮気味だ。


メールの文をコピーしているので語尾がへんなのは無視。ざっと話し始めてもなかなか面白いことになって行く。しばらく考えを深めてみようと思っている。