金沢から帰ってきて,続けざまに毎日の活動があり(当たり前だけど)時間が進んでいく。毎日,こうもしようああもしようと考えは出てくるのだが実際に動けるのは,一日一個になってしまっている。歳を取ると時間の進み方が早くなると誰かがいっていたが,このことかと思う。アッという間の毎日で,家に帰って夕飯を食べ,テレビでアメリカンフットボール(これとバスケットね)を見ていると、もう今日は寝ようという時間にすぐなってしまう。更新がそんなに滞っているという気持ちは自分にはないのに,今開いてみると,この前書いたのは,なんと1月26日!だった。確か4日間ぐらい書いてなかったと思っていたら、もうこんなにたっている。このぶんだと今年は,あっという間にクリスマスになってしまうのだろう。ま、とにかくそれまで元気に生きていたいものだ。
今回の金沢でのもっとも大きな収穫は,今の時代は近代(モダン)の延長で考えてはうまく納得できなくなっているのではないかという事に気付けたことだった。自分を意識する事に、各自が今の私たちのように気付いたのはそんなに昔ではないと、僕は考えている。元々私達はまずお母さんの子供だという認識から自意識を始める。成長するに及んで,お母さんは、王様や神様に変わっていく。でも,誰かの子供である事に変わりはなかった。自分が何かを決める中心にいるという意識は,本当についこの前わかった事のように僕には思える。誰が美人かを王様に決めてもらうのではなく,自分で決めてもバチはあたらない事にみんなが納得するのに,僕たちはだいぶ長い時間(何千年も)をかけてきた。自分で決める事をどの方向にどのように拡大するかについて,人間は様々な検討と練習と実践と、そして反省と後悔を、繰り返してきた結果(とは言え,それはたった200年ぐらい)が今の社会だ。
もちろん様々な意見があって当然だけれど,僕には,この近代の時代の流れ方は、美意識や倫理観を含め,何か大きな勘違いを詳しく点検する前に、そのまま雪崩をうって21世紀に入ってきてしまったのではないかと思える。20世紀を通して,私たちの自意識は,種としての人間から切り離された形での自分を肯定する方向で来てしまったのではないか。良いとか悪いとかでなく,種類としての人間は今をそうしか理解できなかったのだと思う。どうも悲観的だ。
そういう自分の中での動揺とはまったく関係なく,美術館で高山登展が始まった。彼は「モノ派」の重鎮で、昨年後半にあった「宮城のゼンエイ」の締めくくりだと見ればわかりやすく面白い。ちなみに,宮城県美術館は昨年ファイニンガー展から始まってこの高山展まで,美意識の拡大については、なかなか善戦したのではないかなあ。なのに,高山さんは,オープニングに始まって,この展示について,とにかく良く喋る-解説してしまうのだ。ちょっと驚いた。はなしてもいいけど、なんかちょっとダイレクトすぎる感じ。モノ派まで行き着いた近代は、もう少しモノに話させるんじゃなかったっけ。金沢の後で,モダンについて動揺している時期だったので、彼のおしゃべりは心の深い所にきいた。
こういう動揺の最中に、宮教大の視覚障害ゼミの学生等や市内の保育所の卒園の連中とかがきて、僕も何やら,近代崩壊の中で、しかしポストモダンの実際の活動をしなければいけなかったりして,動揺の振れ幅は大きくなるばかりだ。
そういう中、2月11日東京新宿である武蔵野美術大学の『ワークショップとファシリテーションを巡るシンポジウム」に呼ばれている。神様、近代(モダン)、ポストモダン(近代)、コンテンポラリー、で、テンポラリ=は?。どんどん自信が揺らぐ中で,いったいどのように話は展開していくのか。楽しみと言えば楽しみだ。