四月の終わり頃、その時宮城県美術館の県民ギャラリーでやっていた「本間秀一展」をどう見ましたかと聞かれた。即答しかねた。ちょうどその時,詩人秋亜綺羅が送って来てくれたココア共和国という本についていた彼が詩の朗読をしているDVDを見ていた。僕自身も5月11日から始まる齋悠記との二人展に向けて,作品の仕上げ/まとめをしている。本間、秋、齋。この3人は同学年だ。深く想う所がある。
僕の作品を含めて,彼等の作品を初めて見た時はなかなか良いインパクトを受けた。もう30年程前になる。そのときはすべてが前衛だった。という事は、ショックはあったが社会に普通に受け入れられる物ではなかったという事だ。それ以来我々は、その各々の立場で,様々表現を続けて来た。各々の生活が有り,各々の状況があった。
たぶんあの頃の最初の作品を表す事ができた時に,僕たちはその表現のスタイルが自分達にとっても、ものすごく新鮮だったのだと今になると思う。それはその時代のその時のその人を通してしか出て来ない表現だったのだろう。そしてそれはたぶん,すべての純粋な表現に共通する物なのだという事が今はわかる。社会はほぼ30年を経て彼等に追いついて来る/来た。僕たちの表現は、未だその各々の個人の最初の高揚を失ってはいないとこれらの作品を見て思う。でも,社会が追いついてくる。では,30年前に今を表現した僕たちは、現在の社会を追い越しているのだろうか。そういう事はできない事を,その間生活を重ねて来た僕は知っている。そういう事はできないのではなく,しなかったので,今の生活をしているのだ。
僕は,結構今の生活が好きだ。考えもなくダラダラと好きなのではなく,選択し行動して、そうしようとしてそうしている今の生活が好きだ。今,少し離れて(そういう事ができるようになった)これらの作品を見ると,感慨深い物が有る。それらは今や,一つも前衛ではなくなっている。社会に受け入れられているとはいわないが,そんなに奇異な物ではなくなっていて,友達だってけこういるし(前衛には友達ができにくい),そもそも僕たちが友達だ。
今回の作品を見ると彼等は,しかし,汗を振りまき,つばを飛ばして,脇目もふらず作品を発表し続ける/ている、ように見える。ぼくにはすでに、そこに懐かしい未来が少し見える。嬉しいけれど,少し悲しい。この感じは、美術館にいる僕だけに特別な事なのだろうか。萩堂貝塚再発掘調査を知ってしまっている僕は少し力を抜こうと思う。抜けるかなあ。