2010年 9月20日  明るい曇り空。夏の気温の秋の空気。


朝ゆっくり起きて、洗濯機を廻しながら、きな粉ピーナッツバターつきの食パン一枚と,豆から挽いたコーヒー、リンゴジュース、カマンベール1カケ。洗濯物を干し,片付けを少ししてから、グリンピアの遊歩道へカングーで行く。
出たばっかりの頃に買ったワコールのCWXというタイツ(だけれど,はいただけでテーピングと同じ効果がある)と半ズボン,長靴下にビルケンシュトックのアテネサンダル、Tシャツにパタゴニアの夏用パーカ、トレイルランニング用帽子という一見ものすごい軽装。スエーデン軍用背嚢に,小さいガスストーブとお茶とカマンベールの残り。水。一番軽いレインウエアその他を入れて、愛用の長い山歩き用杖。
去年の夏はさんざんの入院続きだったので,こういう活動はまったくできなかった。今日は本当にしばらくぶりなのでまず近くの里山からだ。スタート前にゆっくりストレッチをしたが,これがそもそもしばらくぶりですごく気持ちがいい。ニコニコ。ここにはノルディックウォーキング用のトレイルが3本用意されていて,ゆっくり土を踏みしめながら(ビルケンだとこの感じが凄くダイレクトになるので好きだ)軽い上り下り、深い緑の木立の中を全部回る。トレイルでない所もゆっくり踏み分けながら歩く。イノコズチが下半身にビッチリ付く。約3時間+ぐらい。12時過ぎに見晴らしの良い所でお湯を沸かしてお茶とチーズ。
最終的に中央広場に出て,みんな休日で家族ずれでテニスやフットサルや水泳や温泉なんかを楽しんでいる脇を、汗みずくで不審な半ズボンおじさんはそっと歩いて車に戻る。車に乗る前、上着を脱いでイノコズチを丁寧に落とす。その後今昔庵でもりそば1枚食って帰宅しお相撲を見る。ほぼ極楽の一日。

女川原発に行った人が話していた。原発の建設当初、反対派の主要なスローガンの一つは「自然破壊反対」だった。数十年経った今行ってみると、原発の周囲は建物自体が見えないくらいうっそうとした森になっていて、自然が残っているのは実は原発自体とその周辺だけになっていた。「皮肉な事だねえ」というのがその人の感想だった。

熊野岳に登った事があるだろうか。熊野岳は蔵王のお釜の西側のピークで、普通はエコーラインで刈田岳駐車場まで車で行き、そこから整備された山道をたどって登る。高度1800メートル程で、もちろんきちんとした山登りの格好でいくと、誰でも難なく気持ちよく山頂にたどり着けるが、ま、ハイヒールとは言わないまでも普通の街歩きの格好でも何とかなるような山/場所だ。でも僕の好きなのはすうっと麓の賽の河原駐車場で車を降り濁川の沢にいったん下り、カモシカ温泉跡から登りに入ってロバの耳を超えて直登するコースだ。初めて下の娘とこのルートに行った時、彼女はこの時確か中一だったと思うが、カモシカ温泉跡からすぐに取り付いた急なガレ場で、滑り堕ちるのではないかという緊張のあまり過呼吸になってしまい、しばらく動けなくなった。それまでも、様々僕と一緒に歩いてはいて、もうこっち行っても大丈夫だろうと試みたルートだった。最終的に、彼女はなんとか難所を克服し、登頂に成功した。エコーラインからの登頂を彼女は既に何回かしていたけれど、「本当」はこういうふうにあるのだということを彼女は充分に感じたと思う。すごい体験だったらしくて、それ以降、山に行こうと彼女をさそっても来てくれなくなった。でもこのときの体験は時々あまり否定的ではない形で彼女の話の中には出てくる。

原発の周りに必ずある自然保護林は、原発建築に反対する人たちへの対応策として誰かによってデザインされ、計画的に作られ、常に手入れされる。数年もたてば、そこはデザインした人が思っている自然として絵に描いたように快適な林になり、入れる部分はみんなスニーカーで気持ちよく散策できるようになる。みんなそこに集い、(デザインした人が考えてくれた)自然は良いなあと言うようなことを言いあう。その周りの、元々林だった所は、人間が意識的に作ってしまった林によって本来の生物多様性のバランスが崩れてしまう結果、下草が多くて木の枝が空間を塞ぎ、気持ちよく歩く事なんてとてもできなくなって誰も行かないのでイケナイ様子はどんどんひどくなる。というより、普通の日本の林は、そんなに歩きやすい場所ではもともとないのに、こういうふうに比較されるようになると、本当の自然の方は手入れがされていない事になって、イケナイ自然になってしまう。

この手の問題は様々な問題が複雑に重なり合っていて、簡単には説明できないと言う事は重々承知の上で、しかし、私たちは、見えている事柄をより慎重に見て考える態度が必要になって来ている事は忘れないようにしたい。私たちが見ている自然はほとんど誰かがイメージしたように作られた自然である事が多い。作られていない自然は普通人間の都合の良いようにはなっていない。
今の教育をきちんと先生にしかられないように受けているーと言う事は、自分が何を見て何を基準に何を決めているかを、知らないうちに誰か特定の人に都合のいいようにしむけられているのではないか、というあたりは、常に点検していたい。もちろんこの文章も含めて。

何だかすごく面倒な世の中になって来たなあと思いつつ、しかし、僕は明るい(計画され作り込まれた)里山の散策も、ひどい薮コギ(や、気をちょっとでも抜くとすべり堕ちてしまうような道)の直登も両方楽しみ続けたいと思う。