2011年 2月26日  高曇り。風の甘い。


そんなに長く更新していなかったという感じはしないけれど、ふと思えば、もう3月だ。今朝の通勤途中の空気も、春の気配に満ちていた。

2月の19日まで、僕はほとんど休めない毎日が続いた。週一の休みは当然あるのだが、一日しかない休みの日は、病院や様々な手続きや、掃除や買い物や、何やかにやであっという間に過ぎる。そういう状態の結果休みがたまって、ついに2月20日から25日まで連休ということになった。こういう時、公務員は「みんな、本当にすまぬ」なのだ。その休みのうちにブログを更新すればよかったのだが、いやはやずうっと天気が良かったこともあって、明るいうちはいつもの空間博物館で散歩、暗くなってっからは、DVD鑑賞で毎日が過ぎた。なにしろこういう時にかぎって、ツタヤの準新作DVDが4枚800円だったりする。まずさしあたって「アバター」を見たいと思って、借りに行ったらそうだったのだ。
僕は普段いっぺんに沢山DVDを借りたりはしない(借りても見きれない)のだけれど、VDV屋に行くのがほんとにしばらくぶりだったので、本で名前だけは知ってて見たかったものなどが何枚かあり、つい4枚借りてしまった。最初アバターとグリーンゾーンだけ持って行ったら「2枚だと680円だが、4枚だと800円なのです」と、キャシャーのお姉さんがささやくのだ。ううむ。

1月の末に出た僕の本「大きな羊のみつけかた」は、快調に売れているらしい。今回は、仙台文庫という会社が出版元。自費出版の時のように、読んでもらいたい人みんなに気楽に差し上げるというふうにはいかない(というより、してはいけない)ので、こういうの売れるのかなあ(なにしろ美術と、美術館教育中心の文章なので)と、(本当は)思っていたのだが、ううむ、もうあまり残っていないという連絡が入った。ヤバい、再び、僕の本は幻の本になってしまうのだろうか。まだ読んでなくて、欲しい人は早く手に入れてください。あゆみ書房でも売っているということだが、見つからないときは、どこの本屋さんでも頼めば入ることになっている。僕の手元にはありません。あ、「お父さんのひとりごと」は(まだ沢山)あります。

なにしろ冷静に考えれば、美術なんて普通の生活には本当にほとんど関係ない。でも、「アリとキリギリス」のお話で解るように、冬になってみんな冬ごもりを始めるあたり、まったく夏のキリギリスの歌声なんか忘れてしまったあたりに、キリギリス(芸術家)はヨロヨロと出て来て、あなたの生活に波風を巻き起こす。普段の生活に関係なくなったとみんなが思い始めたあたりにふと出て来て、それまでのすべての生活の点検を迫る。普段、美術なんて関係ないと思っている人にこそ、この本は読んでもらいたいと思う。

この休み中、何回か、亘理山元空間博物館での散歩をした。毎回、何もなく、しかしすべてが充実した散歩が楽しめた。薄水色の空に雲が浮かび、ポカポカだが、風は冷たい。ほとんどの渡り鳥はいなくなってしまったが、尾長鴨が少し。既にオタマジャクシがいて、梅は七部咲き。確実にノンビリした毎日だった。

2011年 2月 6日  高曇り。乾燥注意法の出ている日の、湿った朝の空気。僕にとって最適の気温。


昨日朝起きて着替えをしている時、腰にギクッと来る時の前兆が走った。それ以来、腰を曲げるのではなく、膝を曲げて体を下げるようにしている。昨日一日、しばらくぶりの溶接作業を数時間したのだけが原因として考えられるが、そうか、僕の体は、もうあの程度でこうなるようになってしまったのだなと、少し動揺。冬だから運動しないといけない。

最近時間ができると、ミニ4駆の改造をしている。アメリカンフットボールとバスケットボールと相撲の中継がああるときはそれを見て、そうでないときは本当はローラー台にセットしたマウンテンバイクを15分踏むという生活をするはずだったのに、なんということだ。
井出先生(宮教大での僕の美術教育の先生)の昔書いた本をわざわざ古本屋で見つけ「これ齋さん好きなんじゃないか」と持ってきてくれた人がいた。読んだら、本当に好きで、というより、ううむ、僕の基本はここにあったのかと、開いていると思っていたのに知らないうちに目脂でくっついていた目を引っ張り開けられたような内容。今も、美術館開館時に買っておいた、彼の「幼年期の美術教育」を読み直している。
今読むと、このような美術と教育に向かう態度や考え方は幼年時に限ったことではなく、美術教育の必要性とその向かう所について、もう既に、この人たちはこのときから始めていたんだなあと、心震える思いだ。でも今、学校(基礎教育)における美術(表現)教育がこういう状況なのは、何がどうしたためなのだろうか。初めからしておけば、そんなに難しいことではないことなのに、こじれきる所まで来てしまうと、それを解いて真っすぐな糸に戻すのはもう無理のように感じる。これをそのままやるというのではなくても、この方向で問題を考えるという態度は、今の僕の有り様を大きく支えている。普通に進む時代は何を選択していくのかについて考えてしまった。