2011年 5月28日  深い曇空。梅雨には入ってないが似たようなもんだ。


仙台市内に住んでいた下の娘が、東京の山の手に移動した。いいねえ、僕の娘さん達はどんどん親からはなれて行く。良くできた種ほど元の木から遠くへ飛ぶのは道理だ。だからこそ元の木はそれでもきちんと立ち続けなければいけない。遠くに親戚が増えると、遊びにける所が増えて嬉しい。もちろん普段は少し静かで寂しくなるけれど。最近彼女は新しい同居者と一緒に朝のお散歩をしているという連絡が来た。孫の希野は自転車でついてくるという。そうか、彼は遂に自転車に乗るようになったのか。

僕が、一番最初に意識的に買った自転車は、ミヤタの、その当時は珍しかった太いアルミフレームのマウンテンバイクだった。だいぶ長い間、ハンドルをトライアスロン用みたいな形に大きく改造したりして(そういえば、もうああいう形のハンドルは見かけなくなってしまった)楽しく乗っていた。それは、その当時創作室の手伝いをしていてくれた若い男子に譲って、気仙沼に行ってしまった。次に手に入れたのは、ゲーリーフィッシャー(世界で初めてマウンテンバイクという概念を立ち上げた何人かの人達の一人)のCR7という、本当にこれがそもそものマウンテンバイクなんだというように基本的なマウンテンバイク。正確には僕には一サイズ小さい大きさのフレームを選んだ。最初から大きいサイズのは扱いにくいという体験がそれまでに何回か決定的にあったのだ。凄く気に入り、その当時モーターサイクルにも入れ込んでいたのに、家の回りの田舎道や山道をバシバシ走り回った。元気が有り余っていた時代。その結果、ある日、そのバイクのヘッドチューブ(ハンドルを支えている部分)にひびが入ってしまい、危険で乗れなくなってしまった。直せないかと様々やったのだが、アルミの溶接は元どうりというわけにはいかないのだった。しかし何でも一生懸命やっていると、上手い具合に世界は動いてくれるので、そのフレームをあきらめたとほぼ同時に、同じ機種の一回り大きいサイズのモノ(ということは、僕にピッタリのサイズということだ)が中古で出て、僕はそちらに乗り換えることができた。

その後、様々あって、今、僕はイエティというフレームの運動用マウンテンバイクと、岩沼市内用松下電器自転車の後部荷台の無い、凄く古い、父の形見のパパチャリと、仙台市内用キャノンデール街乗り用小径自転車フーリガンを持っている。凄いなあ持ち過ぎだと思っている所に、その一番最初に持っていて、今は若い友人の所に引き取られて幸せに暮らしているとばかり思っていたCR7が、「すみませんどうも相性が合わないのでお返しします」と戻ってきてしまった。もういらないってば、と言ってもしょうがない。今、創作室を手伝ってくれている若い女の人は、上背も僕とほぼ同じくらいあるので、彼女に聞いたら、欲しいと言ってくれた。よかったよかった。彼女に譲ろう。

引き渡しの日、乗って帰る気満々で来た彼女の前で、しかし、僕のそのCR7は上手く動かなかった。後変速機を動かす為のワイヤーが経年変化でカバーがはじけとんでしまい、ワイヤーが動かなくなってしまったのだ。ううむ、人生、色々ある。今この時期、自転車屋さんはやたら忙しい。僕の見る所、たぶんハンドルステムと、変速機そのものと、そしてワイヤーとたぶん鍵なんかも換えた方が良いのではないか。彼女への引き渡しは早くても来週半ば以降になりそうだ。その間、僕は様々楽しんで部品集めができる。悪いけど嬉しい。

2011年 5月22日  雲が厚い。日中雨。昨日半袖出勤。今日は長袖上着。


何だか気候があんまりキッパリしないうちに、夏突入の感じ。しばらく前に、市内移動用小径(ホイール径20インチ)自転車を買った。主に通勤に使う。駅前の駐輪場に止めておいて、朝美術館まで走り、日中は美術館に置いておいて、帰り又駅まで戻る。夜は地下の駐輪場。
前に持っていたデジタルカメラをもっと良く使う/使える人にあげてしまった。すると、このブログを編集する時に困ることになるという理由で、新たに一つ手に入れることにした。

昨年末に地震保険をかけ直し、家屋と家財両方にかけることにした、とたんに震災が来た。今回の地震関係保険支払いは国庫補助があるので(ということでもないだろうが)、査定と振込は迅速で甘い。だから今、私は少し!保険成金なのだ。ううむ、じわじわとモノが増えていく。僕は貧乏症なのだなあ。

最近あるよんどころない理由で僕の親族圏に入って来た若い男子は、理想的にモノを持たない人で、うらやましい。そういうのが身近かに出て来たので、いっそうモノを買ってしまう自分の残念さが身にしみる。思えば高橋貴和さんが死んだ時、脳内出血から生き延びた時、栄子さんが死んだ時、心筋梗塞が見つかった時、胞夫さんが死んだ時、その度ごとに僕は、身の回りを片付けておかなければと思い続けて来た。今回も、僕は生き延びた。震災だから、ストレスと折り合いを付けながら、身の回りを意識的に整理しようと再び思う。

2011年 5月 6日  薄ら寒い曇り空。湿気った空気。


もう九日になっってしまった。この文は6日に書き始めたが、一日では書き終えられまかった。一文字一文字にしばらく考え込んだことを忘れずにいよう。

だいぶ家の中が片付いて来た(3/11本震と4/7余震以来、結局ずうっと後片付けが続いている)ので、集めていた震災(を巡って出て来て決心を迫られた、両親の遺品や引っ越しや自身の身の回りや何やかにやの、ひょっとして人生の整理整頓)ゴミを捨てに/出しにいくことにした。
調べてみると、岩沼の震災ゴミ置き場は海べりの南浜中央病院の東側の空き地だと言う。南浜中央病院は、津波で施設が(人は全員無事)全滅した病院だ。震災津波以来、小心者の僕は仙台東道路(今回の津波ではこの高速道路が津波の防波堤になった)から東(海)側には行かない/行けないようにしてきた。何でもきちんと見るのが基本だと言っているのに、今回は見るのが怖かった。いや違うな、つらかったが正しい。見てなくても聞いているだけで心が萎んでいく。だとしても否応無く、そこに行かなければいけない日は、ここに生活している限り、いつか来る/来た。何気ない顔をしながら、しかし実はそうとう決心して東道路の高架を海側に抜けた。良い天気の日だった。お日様がきちんと照っていると、なぜかもっと怖い。
(何時も、何回も行って散歩した)知っている場所を、(メディアを通して見、聞きした)知っていることを確認しながら見る。ううむ。ううむ。ううむ。

表現する美術はほとんど何もできないだろう。そこに広がる状況は現代美術を、鼻で笑って超えている/いた。
でも、インスタレーションを見る力の方は、そこにある状況をより深く心に刻む力になる。というようなことは、ま、どうでもいいんだなということがすぐに圧倒的に解る。私の想像力なんて、笑っちゃうしかないのだということがすぐに圧倒的に解る。そうか、こういう感じを持つことができる為に、歳を重ねて来ていたのか。勉強をしてきていたのか。

なんか、みんなこれからの(人間社会)復旧復興をどうするかなんて話を、あちらこちらで一生懸命しているようだが、地球(自然)の復旧復興は大丈夫なんだろうか、ここまで地球をやっつけてきてしまっているのに。というようなことを言うのも、何だか違う。地球の上にいる生物の一種の生き残りとして、僕はどういう態度を取るべきなのか。なんて言うことを、マッキントッシュの小型コンピュータで書いているというのは、どういうもんなんだろう。もう戻ることはできないんだということを自覚するとしても。

今、6日の午前9時過ぎで、僕はこれから自転車で長町まで行き、地下鉄と徒歩で、旭が丘の鍼灸院に体の調子を元に戻してもらいに行ってくる。何しろ、まず、自分が自分に戻ることからだ。