2011年 6月16日  快晴。乾いた空に白雲少し。


最近、下の娘一家が東京に移動したことは書いた。最近少し落ち着いて、電脳手紙でやや長く現状とその感想を送ってくる。手紙に孫の自転車を新しくした連絡があった。

僕が、仙台にいた頃彼にあげたクロームメッキのBMXはたぶん12インチかそこらの大きさで、その時の彼にはちょうど良い大きさだった。けれどもう今の彼には小さくなっていて、そろそろ買い替えだねという話が仙台を離れる前から出ていた。今度の彼女の連れ合いはライフスタイルが自転車の人で、きちんと考えて、それを使う人の自転車を決める人のようだったから、僕は何も心配していなかった。もし必要ならお金は出してあげるから、きちんとしたやつを買ってねとだけ話していた。余計なお世話は、オジイサンの嬉しい仕事だ。

彼女は新しい自転車に乗った彼と散歩に行った時の写真を数枚貼付して来てくれた。そこには彼の新しい自転車が写っていたのだが、散歩の途中に撮った写真だからほぼすべて後からか斜め後からで、色さえはっきりわからなかった。ここからが今回の話題だ。前置きが長い。

自転車がはっきり写った写真はツイッタに添付して送るとのことだった。ほとんどの人はそれで「ああ、そう」と次に進むのだろう。僕は「ええっと、それ何?」。ちょうどその日、いつも家事手伝いに来てくれているK子さんがいて、「それ」をやってくれた。僕は自分の電脳の脇で、テキパキ進む「それ」をみていた。最近の話はこのように始まり、このように展開し、このように着地する、を見る思いだった。で、なんとなく、それが僕はいやだった。

10年若かったら、何も考えず喜んだのだろうか。喜んだか?頭の動き方が、もうユックリになっって来たのだろうか?頭が働いていないのか?ううむ、そういうような問題ではないと思う。では、この状況が嫌いなのか?写真をすぐ見られて良かったと思っていたのではなかったか?何なのだろう、この態度を決めにくい感じは?
あることが起こってそれに反応したことがごく短い時間で公表される。誰が見ているかわからないので、注意深く固有名詞や特定できる場所は、曖昧にされる。そうでないこと(特定の人用に送ること)もできるけれど、それにはああしてこうしてそうすればいいらしい。僕は途中で始めの方の操作を忘れ始めるけど。
そういう風にして目の前に、ほぼ瞬時に、伝えられてくる情報は真実なのに、なぜか嘘くさい。「くさい」。すると、それを読んでいる「僕の見ている真実」の方もくさくなってしまう。気がするのかな?短い言葉の羅列は。読む人の方にあらかたのイメージを任せてしまう。日本のみんなは、イメージを組み立てる練習を基本的にあまりしていないのは、美術館に居るとしみじみ思うことなので、この方法は日本にいて活動している僕にはあまり向いていない気がする。ツイッタの情報だと、僕の頭はものすごく動きすぎて、むしろ広く深くイメージを拡大し続ける、ということか?なんか「くさく」なるのは僕だけなのだろうか。

驚いたのは、僕が自覚していなかったのに、僕もツイッタの人に登録されていて、既にそれをフォロウしたい人が身内以外にも数名いることがわかったことだ。何だろう、ここに、僕の今を知りたい人は、この前出た僕の本買って読んでっていう情報をのせればいいのか?それで伝わって広がる情報(のようなもの)は、誰かの意思が(誰も気付かないうちに)どこかで入ってしまう情報のような気が僕はする。僕の本は文章が長くてそんなに面白いという物ではない。国民全員がぜひ読んでという物でもない。普通の人生はそういうもんだ。でも、みんな一人一人深い人生を送る(送らざるを得ない)。そういう生き方に対する見方や態度が気付かないうちに無くなってしまっているような、感じが怖い。ううむ、凄く20世紀的だ。