2011年 3月26日 穏やかな青空。太陽の光が空気を澄ます。
3/11から2週間過ぎた。もうほとんどいつもの日常に戻ったみたいだ。肩はこったままだが、見続けようと思う。
11日は美術館に居た。丁度、仙台文庫の大泉君達が来ていて、これまでとこれからについて打ち合わせをしていた。そうしたら揺れ始めた。どんどん揺れ続けて終わらなかった。彼は食器棚が倒れるのを支え、僕はドアを開け、物が崩れ落ちるのを、「そうだよな、だから常日頃きちんとしておかなければいけないんだよな。」というようなどうでもいいことを、しかし冷静に考えながら、立っていた。創作室では公開制作が始まった所で、スタッフが全員出ていた。
揺れがおさまってからの動きは大変良かったと思う。全員が訓練どうリに点検に走り中庭に集まった。そうだ、まるで訓練のようだった。怪我をした人とか建物が大きく壊れた所とかはなかったようだった。学芸の人達はかいがいしく動き回っていて、さすがだった。僕は少しボオッとしていたかもしれない。こちらに問題がなければ、普及は学芸の手助けをすることになる。館内の点検が進むと被害がわかって来た。外に面した側の窓は、見える所ではどこも壊れていなかった。でも、展示室内のガラスはだいぶ壊れたようだった。防火扉も一部曲がってしまったと聞いた。僕はずうっと外にいて、主に創作室を中心に動いていたから、そういうことを直接見てはいない。
普及のスタッフは大変良く動いた。これまでの学校での経験が生きていたのだろうと思う。各自が的確な指示を出し自ら動き、僕なんか出る幕はなかった。多分、世間が大変なことにはなっているだろうことは想像できたが、海沿いがどうなっているかなどまでは、その時まったく気が回らなかった。その日はそのまま創作準備室に泊まった。家族のあるスタッフには帰ってもらった。結局僕と庄子君だけが泊まった。夜中、近くのマンションの住人が避難して来たりしたが、一応、ちゃんと眠った。
12日、美術館に居ても僕の物理的な力で動くようなことは何もないことがわかってくる。有川君に話して家に帰ることにした。家に帰ることの出来ない監視の若い女の人が二人、守衛室に着の身着のままでいるのを見た。リュックに、残っていた2リットルの水を二本詰め歩いて子平町の悠美の家に行き、GTのマウンテンバイク(自転車)を借りた。彼らの安全は確かめられたのでそのまま紅子(彼女も大丈夫だった)の家に回り、工具を借りてシートの高さを調整した。それ以上の作業はしないで二輪工房佐藤に回ったら丁度店を開けようとしていて、訳を話すとすぐブレーキとタイヤを見てくれた。両方とも部品を交換。ありがたい。深呼吸をひとつして、太白大橋経由で岩沼に向かった。建物が大きく崩れている所とかはなかったが、コンビニにたくさんの人が並び始めていた。途中、休店のガスステーションで便所を借りつつ名取から4号線に出て、家に帰る。4号バイパス沿いを、航空大学校の制服を着た若者が何人かのグループになって歩いていた。みんななぜか手に蜂蜜レモンの小さいペットボトルを持ち、下半身が泥だらけだった。仙台空港についてもこの時まだ情報を知らない。若い奴ら元気だなあとだけ思った。快晴だったことの方が記憶に強い。
家は無事だった。中は物がひどく落ちていたが、ま、しょうがない。自分の部屋を片付ける所から始めることにした。明美さんは呆然としていたが、生きる本能の人だから、何もしないで部屋に閉じこもっていたようだった。水をあげたらあっという間に1リットル飲み干した。脱水間際だったのかもしれない。水と電気は止まっていた。期待していた風呂の水は揺れで栓がとんでしまって残っていなかった。確か持っていたはずだと思っていた、キャンプ用携帯浄水器は何処を探しても見つからなかった。折り畳み蛇口付き水タンクも僕は捨ててしまっていたのだった。僕の頭の中にいたアウトドア少年は、脳内出血以来すっかり実践家ではなくなってしまっていた。やや呆然としながらどうするかを考える。
と言うふうに、今回の僕のサヴァイヴァルは始まった。