既にそこにあるもの。


たいていは、
必然があるのでそこにある。


私の必然、ここの必然。





2012年 5月 12日 明るい快晴。乾いた北風強し。

この文を書くために、少しさかのぼって前に書いたブログを読んだ。ほぼ1年前のこの頃の想いは、具体的には僕の中から、ほぼ消えていた。ちょっとビックリした。では、すっかり忘れてしまったのか!と考えると、どうもそれとは違う感じがする。体験が経験値として蓄積される実感。不思議な感じだ。

僕の両親の胞夫さんや栄子さんは、震災の気配もない(ま、普通、その時!まではずうっと気配なんかないわけだが)時期(20世紀とまとめて言ってしまいたいが)に、生きて死んでしまった。彼らと、正否に関わらず、原子力発電についてお話をした記憶は、僕にはない。電気をいかに安く使うかについては話した記憶がある。彼らは正直真剣(超)真面目の人達だったので、上手く育てられたその息子(僕の事ね)は、やっと正直真剣(やや)臍曲りになる事ができた。今となっては様々な意味で、善い教育を受けられたと思う。
そうして、3/11以降に/も、人間の生活を組み立てていくことになってしまった僕は、その出来事のポイントにどうするこうするという事より、自分自身(人間)の生き方(行く末)のようなものを点検し直す活動に興味が移って来ている感じがする。その人の、その時々の実際の活動がどう出るかは、普段どういう基準で生活を組み立てているかと深く関わる。僕は気色ばったり頑張ったりせずに、しかし地球上の生き物として普通に生きているかは意識して、というようなことを考えながら定年になった。そしてそのまま毎日、生き続けている。

1週間に4日休みになって、自分が自分のためにだけ時間を使って良い(もちろん様々他人と関わり合いを持たざるを得ない状況も含めて)という実感は、まだいずい。うちにはちょっと皆と上手く調子を合わせられないオカミサンもいるし、自分のために好きにやる、というのはたぶんみんなが思うような「好きにやる」とは違うのだろうが、でも、そんなことを言えば、人間はみんな違うのだ。

これから、僕は何処にどのように口出しをしていくのかを巡って少し動揺している。