沖に向かって泳ぐ(©池澤夏樹)
という言葉は好きだが、
僕はたぶん曲がる。

沖に向かって!眺める。
何処まで見えるかに
想いを馳せる。だめだな。


2012年8月25日 暑い夏。風は秋っぽい。

 8月も、色々あって、もうすぐ終わる。早いなあ。ぼやっとしてるうちに死んでしまうのだなあ。美術館から退職しても、美術館、自宅をとわずいろんな人がいろんな相談に来る。それらの相談にのりながら、様々思う。人は皆違うという事を理解してはいても、ううむ、君はそれにそう行くか。それにはなんかもっとこう面白い人生があるのではないかなあ、と思う事が多い。人はそんなに他人とのつながりの中で生きているモノだったのか。ああ、それがみんなには「面白い事」なのだな。僕はけっこうそういうあたり、面白いとは思わなかった/気付かなかったのだなあ。

 8月の初旬、9月から始めるお話の会のチラシを作った。チラシを作るためには考えを厳しく端的にまとめなければならない。様々伝えたい事は本番で話せば良いのだから、チラシでは伝えたい事を端的に。という作業を少し他人と(撒いてもらわなければチラシにならないので)したら、僕の常識は本当に今の時代とはだいぶ離れてしまって来ているのを実感して、嬉しかった。本当は、常識は人の数だけある。

 僕のチラシは半分手書き。必要情報はパソコンで打って、余白を空け、そこに筆ペンで、「伝えたい事」を書く。僕の場合、伝えたい事を冷静に書くと、もの凄くくどくて長くなるのでこのお話会をするわけだから、そういう「感じが伝わるような単語」を直接、筆で書いて、署名入り。チラシを配ってくれる人には、僕が全部書きこんだのと、書き込む所が空欄のを両方あげて、彼らが、勝手に書き込んで作ったチラシでもかまわない事にした。僕から直接もらって行く彼らは、ぜひ僕の話を聞きたいという人達だが、何を聞きたいのか(齋の話のここが聞き所)は、みんな違う。で、各自書いて(決めて)かまわない。どっちにしても、僕の話はそんなにバリエーションに富んでいるわけではないわけだし。できたら、チラシをもらった人が各自5枚ぐらいずつコピーして撒いてもらうとありがたいという「ねずみ講式」チラシ。だから最初は5枚しか枚数が無いチラシ。それってチラシか?
 参加料も、聞き終わってから各自(今日のはつまんなかったから10円だな!とか)決めて箱に入れる方式。それって賽(齋)銭箱ですねという人あり。ううむ、再び新興宗教の匂い、フワリ。ただ、ここの所(自分で参加料を決める)がすでに(結構高い)ハードルだという人がいた。ううむ、自分で決める事の開放感を巡るお話になるから、このへんハードルだと感じてしまう人は聞いてもつまんないかも。
 僕がニューヨークにいた時のメトロポリタン美術館の入場料はコントリビューション(寄付)で、入場者が各自入場料を決めて入場券をもらう方式だった。入場券が無いと入れないのだが、それがあればその日は何回出入りしてもかまわなくて、しかもその寄付の値段は自分で決める。学生運動が沈静化した日本から来た典型的若い日本の男子(俺の事ね)には、もの凄くアメリカだった。誰の後に列ぶかが問題で、僕等(僕とカミさんね)は二人で10セント(ほんとに貧乏だったのだ。1ドル360円だったし)に決めてるので、前の人が100ドルとか(貴族のいないアメリカには普通にいる。寄付はその人のステイタスなのだ。)出してしまうとなんかヤバいと思っていた。で、もちろんその感じが間違いなのね。いくら出そうが、受付のお姉さんは同じ微笑みを返してくれる。この微笑みのそっちとこっちの見交わすまなざしの感じ。そういうのを含めてアメリカだった。さて、今はどうなっているのだろう。そういう感じの参加料。チラシの文字の概念説明で、第1回は終わってしまうのではないか?いや、今考える近代について、僕は話さなければいけないのだ!