正直 真剣 臍曲がり、
だと信じてやってきた。

でも、気付かないように、
嘘つき 適当 言われたとうりになってしまっているかもしれない。 

絶えなる点検。




2012年 9月26日 乾いた風。高く雲のない青空。

ここ数日しとしと降っていた雨があがったら、突然の秋の青空だ。着る物の入れ替えをしたいが、本当にこのまま秋になるの?でも、パジャマは変えよう。

今週の金曜日に齋の話2回目をそあとの庭でして、週末から四国に出かける。高松のNPOの人達(主に学校の先生)の質問にのりに行く。丁寧な人達(というより一般的な日本人なら当然の態度なのだろうが)で、事前にいくつかの質問を送って来て、当日の進行案も連絡して来た。

ごくかいつまんでいえば、質問は、最近の現代美術のように題名などを読んでも作家の言いたい事がよくわからない、取りつく島のない作品をどのように見れば良いのか? 前日夜、僕は高松に着き、会は次の日の午後の予定なので、夜の歓迎会に始まって、当日午前に名所案内しますか?というような提案。当日の進行は、4時間ずうっと質疑応答では大変だろうから、まず自己紹介をして、手紙で送った質問から話を始め、徐々に質疑応答、途中休息あり、というものだった。

僕は臍が凄く曲がっているのだろうと思うが、こういうのはなんだか時間のムダのような気がする。近代の個人の自覚が始まっていないと言うか、、。前にどこかで読んだ、宮崎駿さんが講演会などによばれ、始まる前の時間をパチンコ屋に入って、校長先生や何とか長さん達とお茶をのむ時間をできるだけ減らそうとする話しを思い出す。こういうのはあんまり気にしなくていいのだよね。お葬式に、喪服ではなく、喪に服した服を着ていくことができるかという感覚に近い。夏だからみんなそろってネクタイを外すではなく、暑い時には暑い時のキチンとした服装ができるセンスというか。ホオリッパなしにするというのではなく、でも気にしないでおくという感じ。個人でできますよね、というのに両方が自信を持っていて、でももちろん困ったらいつでも全力で対応できますよというような。大変ありがたい申し出だが、ほとんどほっておいてもらっていいですよという返事を送った。

こういう状態は実は取り付く島のない現代美術の作品に対峙した時に似ている。せっかくちゃんとした(ごく一般的な)進行を考えていると、それに全く乗って来ない。歓迎会や打ち上げの相談に乗って来ない。そういうのはしなくていいと言う。最初から質問をしてくれと言い、それから話しを組み立てると言う。そもそも、どういう話しをどういう考えでどのくらいの時間話すのか、事前に教えてくれない。普通、こういう状態が起こると、取りつく島のない人だ、困ったものだという事になる。ね、現代美術の前に立った時と似てるでしょ?すべてがこちら側にあると思っている(又は、そんな事思いもしない)と、こういうことはよく起こる。それが、美術は個人を尊重し、みんな違うんだという事を理解する事だ!と普段教えている人達でも起こる。個人と社会(と思っているシステム)はこういう風に会合する、未知の物のように。

今週金曜日の齋のお話会で、僕は主に、人の発達/発生とモノの見え方=絵の描き方の話しをするつもりだけれど、こういう事が統計でわかっている年代のうちに、個人が心から(甘やかすとかわがままという事とは最も遠い所で)尊重されていれば、たぶんこのような齟齬は起こらないのではないか。そもそも基本は一人。寂しかろうが辛かろうが一人。人間は既に、一人で生まれ、一人で死ぬ、という事さえ自覚できるようになっている。
なので、僕達は社会を考える。コミュニケーションを考える。話すというのはそういう事で、人生は、突然違う考え(他人の頭の中は見えない)にどう対応するかという事の連なりなのだ。だから/そうすれば、美術は識字教育だということがわかる。