良く見て描く。
注意深く、丁寧に、善く見て。
描くは書く。言葉を!
2012年10月 5日 高曇り。乾いた空気。
アッという間に日がすぎる。この前書いた/更新したのはそんなに前じゃないよなと思っていると、イヤハヤその間にあった事を書くのが面倒になるほど、毎日充実した(色々なんだか面倒な事があるという事だ)日がたっている。
東山魁夷展が始まった。僕はあんまり好きでない作品。そあとの庭で金曜夜始めたお話会で、「そもそも風景画ってなんなんでしょうねえ?」という質問があったので気にしていた。様々理屈は知っている。違うな、理屈は聞いているだな。とにかくあまり好きではない態度でざっと見た。しかし、できるだけ先入観を持たず好き嫌いを無視して、いつものようにざっと見た。ううむ、この白い馬のリアルさは何なんだろうという印象が残った。
ちょうどその日、地下の県民ギャラリー(一般用貸出し展示場)で、県芸術協会絵画部公募展の入選作展示をやっていた。展示場を2つ使って沢山の作品が展示され、仲間や絵画教室の生徒とおぼしき年配の女性達が、そこここに固まって、様々な会話をしていた。奥行きの捉え方が上手だねとか、心情の描き込みがとか、なかなか専門家っぽい話しの内容が漏れ聞こえて来る。でもね、全体としては、素人っぽくて下手だなあと、僕は感じた。描き込んである上手な絵は、もちろん何枚かあったけれど、全体としては、下手だなあという印象。なぜだろう?
そのまま1階の常設展に行った。いつもの常設。州ノ内コレクションのや、萬鉄五郎の風景/春も飾ってある。描き方としては雑で下手なものも多い。言ってしまえば、これらはあの公募展に出したら落選するだろう。でも、全体としては上手いなあと感じる。なぜだろう。
で、もう一度東山魁夷展を見に行った。すまぬ、僕は職員なので何回でも出たり入ったりできるのだ。展示室をブラブラ歩きながら閃いたのは、ううむ、「彼は見て描いてないんだな!」という事だった。
いろんな所で何回も言っているとおり、絵を描く時は対象を見て描いているのではない。絵を描いている時、描いている人は自分の頭の中の世界を見ている。自分の頭の中に世界があることをわかっていて、それの見たい所隅々まで見られるかどうか、絵を描くとき問われるのはその辺りなのだ。そういうふうに思ってみると、下手な絵は見て描いてしまっている。絵を描いているとき、頭の中の(本当はそれ(だけ)を見なければいけない)世界/映像が曖昧になって現実を見てしまうと、そこには見える物しかない世界が見える。見える物しかない世界とは、見える側だけある世界だ。そこにある山や森の裏側は裏側だから見えない世界。頭の中の世界には、裏側はない。いや有るけれど、裏側がある事を「知っている」ので、見えない所にも世界は続いている。頭の中の世界は世界観という世界なので、先天性全盲で、生まれてから一回も世界を視覚的に見た事がなくても、上下左右前後、踏みしめる大地を地球に生きる人間なら誰でも感じることができる。みんなの心を打つ風景画を描く人は、自分の頭の中にある風景が描ける人だったのではないか。
そこに見える風景ではなく、そこで彼が見た風景を見ないでかける人。彼は最初から頭の中に見える風景を描いているので、そこには深い森しか描いてないように見えるけれど、その森の裏にある草原や山や、その上に広がる空や、山の裏側の街や、何やかにやが全部ある世界が見えている。でも、しょうがない、描く紙がこの大きさしかないなので、枠で切り取ったその森を描くほかなかったのだ。元々頭の中の森だから、そこに出てくる白い馬は、居たとか居無いとかと関係なく元々から本物としてそこに居たのだ。僕が感じたリアルさはそこから醸し出されたのだろう。善い風景画は、たぶん、作品を囲む額縁の外側を/も描いてある絵なのかもしれない。ワー凄い!と声をあげてしまう世界は、たいてい常に、額縁の外側に有る。
なんて言うような事を考えて、さて、8時間かけて台風の四国に電車で行ったという話しは、ね、次の話しでしょ?という毎日。