孤立する自覚の向こうに、
僕が見るもの。

それは荒野と呼ばれるものでは決してない。



2013年12月30日 

冷たい空気の固まり。その上から来る太陽の光。

今、僕の家は63歳の夫婦二人暮らしがベース。カミサンは一時に比べればものすごく良くなったとはいえ、相変わらず統合失調症で、基本的には自分の世界だけで生きている。僕は、最近のブログでわかるように、これまでの様々な生活様式が原因(たぶん運動のし過ぎではないか)の、体力不足や、集中力不足、老人性物忘れなどに軽くうんざりしつつ、週2回の優秀家政婦紅子さんの助けを借りて、シコシコ忙しがりつつ、本当は何もしないでいる実感の、退職生活を送っている。週3日公立美術館の教育普及部で働き、あと4日は何やかにや忙しい休み。今年は、美術館の年始年末休館日も重なって、12月の中旬からほぼ1ヶ月休み。ふと思うと、こんなに長く給料のために働かなくてもいい状況というのは、結婚以来初めてなのではないか。「君は様々な所で表明してきたように、本当に一人でいるのが好きなのだね?」と、誰か(ひょっとすると自分か?)に試されているような気がしてきている。僕は、小人閑居して不善をなす、のも楽しめるのか?

このところ、岩沼市立図書館から借りてきた本を、立て続けに読んでいる。普段は、通勤途中をメインに、池波正太郎の鬼平、剣客、梅庵の文庫を何回も繰り返し読む。時々池澤夏樹と片岡義男。椎名誠と梨木香歩と佐藤さとるを、もっと時々。最近はハヤカワ文庫のミリタリー/ミステリー系は集中力がついていかなくなってきた。僕は、退職を機会に読み返したいハードカバーの本以外はほとんど処分してしまった。それでも新たに建てた家の、壁いっぱいに作り付けた本棚では入りきらない程残っている。美術館の創作室で公開されているのもまだある。これだけの本を静かに読み返しながら、これからの時間を過ごしていくのだなんて思っていた。まったく、なんと能天気だったのだろう。本って何なのか、人が生きるって何なのかを、僕は全くわかっていなかったのだ。「さてどうしようか」というのが、今年が暮れようとしている今日、考えていること。僕はいったい、何を表現の手段として使おうとしているのだろう。

昨日は栄子さん(母)の命日だったので、一昨日の夜に下の弟家族が、昨日昼過ぎに上の弟が線香を上げにきた。上の弟はもうだいぶ長い間尺八を吹いていて、来年1月15日に仲間とコンサートをする、というお知らせも持ってきた。彼は本来、土木会社の経理専門家なのだけれど、上手に尺八を演奏する。父親が亡くなった時、枕元で静かに吹いてくれて、僕はずうっと気持ち良く泣いていることができた。彼は、既に大師範とかいう普通の尺八吹きの中では一番上の所までいっているのだが「面白く吹ける方が大切で、何段とか師範とかそういう名称とは距離を持っていたいのだ」というような話をして帰って行った。彼はそういう表現を持っている。

この一年多くの人が様々な形で様々な発表をしてきたのを僕は見た。震災以来、これまで僕がやってきたり見てきたりした様々な表現活動に、なんだか不思議な違和感が強くあって、僕は何も発表しない/できないでここまで来た。そうこうしているうち、僕が認識できる小さな世界ですら、どんなにひいき目に見ても、人類は絶滅したいのだとしか思えないような具合になってきた。我々は物心ついて600万年。恐竜のように1億6千万年継続するとは思わなくても、地球の上に生まれてしまった生物の1匹として、きちんとした生き方を全うしたいものだ。きちんとって何をどういう風に。来年に続く、だといいが。




地球上の生き物としての私。

ここまで来た猿としての自覚。

そうとうのものが
充分すぎているのではないか。


2013年12月25日 
冷たい乾いた空気に、
乾いた暖かい日の光。

僕は、今年は22日から休みに入った。美術館自体が今年度は12月23日までで年末休館に入り1月17日から開館。なので、僕はここから1月22日まで1ヶ月休んでも、そんなにムリヤリ休んでるというわけでもない。でも、もう25日。何してたんだか自覚のないまま日は過ぎる。

27日に、震災前までは恒例だった冬の浜辺での年末焚火を今年から再び始めるつもりでいる。震災以来、年末年始を始めお盆などの季節毎の年中行事は、きちんとするけれど自分が納得する方法で執り行うことにしたので、年末だから何かと忙しいということは無い。今日は、午前中いつもパンを焼いてもらっているW辺さんちにクロスカブで行って、ケーキをもらってきた。紅子が一昨日(月曜)イチゴとブドウふんだんデコレートのチーズケーキを作ってきてくれ、ちょうどK出君(僕の本関係編集者)などもしばらくぶりに訪ねてくれていたので、クリスマスっぽいのは一応終了している感じ。今日はカミさんと二人でふろふき大根に菜飯かなんかで、質素なクリスマス。

さて休みに入ったので、「のびのび自己管理な毎日」になるはずなのだが、最近はどうも「ウジウジ言い訳反省の毎日」だ。アメリカンフットボ-ル(NFL)のシーズンが終盤なので、熱戦が続いて/始まっている。普段はなぜか僕が出勤の日に、日中の中継がある。休みになったので、お茶やお菓子を用意して、家事も万端整え、テレヴィジョンの前に座る。試合は4時間程で終了するのだが、そこからはなれられない。僕が見たい番組は今や地上デジタルのどこでもやらなくなったので、僕の家にはBSもCSも入っている。大変な数のチャンネルが常に見られる。スポーツ(しかも僕の好きな方向)はもちろん、ミリタリー、アドベンチャー。ふと我に返ると、夜の11時だったりすることがこのところ続く。いかん、強く意志を持たねば!、とこれを書いている。


K出君が来てくれた時、お歳暮で全身マッサージをしてくれた(彼はプロのマッサージャーでもある)のだが、彼の見立てによると、僕は骨盤の上の背骨がだいぶチジマッてしまっているとのことだった。体力(筋力)が落ちているだけでなく、物理的に体幹の萎縮が指摘されたわけで、やや動揺。この前、自転車は冬の間外では乗らないことにして、リアタイヤをロードのスリック(溝のないやつ)に交換後、ローラー台にセットすることにした。そのタイヤ替えをシミジミ始めたのだが、なんだかんだ上手くいかないのだった。コツを忘れたからだろうと思っていたのだけれど、どうも基本的な身体の動き/かし方と、基本的な力の出し方がだいぶ弱って/変わってきているようなのだなあ。集中力の弱り方といい、単語の出方/ツッカカリ方といい、充分な自重がいる。若い頃の運動し過ぎと食い物が、ここに来てネガティブに出始める/たのか。それなりに自覚して行くことにしよう。

よく見える=細部の集積。

顕微鏡の絵を集めると
望遠鏡の絵になるか?。
見えることの点検。

2013年12月 4日 
乾いた空気。なんだか暖かい曇り。

1階玄関三和土のペレットストーブの前で書いている。この次期ここが一番心が和む。低い送風機の音に時々ペレットが転がり落ちてくるカランという音が混じる。2階で明美さんが洗物をしている音がする。

先週、友人に聞いていた山形寒河江の工場にペレットを買いに行った。寒河江中央工業団地にある、山形ウッドエネルギー。詳しい場所を聞いたら、その人が言うには「行けばわかる」ということだった。えーほんとに? で、山形道の寒河江SAから降りて、なんとなくそっちの方向に行ってみた。いわゆる近代的な工場が建ち並ぶ団地の中に、それらの工場の屋根を越える高さに木や材木の残骸と云うかゴミがそびえているのが見えた。工業団地の中にあるちゃんとした山。半端な量ではない。ちょっと見には凄い量のゴミ/残骸。確か津波のひいたあとに見たそれ。確かに行くとすぐわかった。これら残骸ががすべてペレットになるのだ、という工場。
山形を走っていると道ばたの所々で薪を売っている。薪ストーブはここでは普通の暖房のようだ。でもたぶん薪ストーブは薪を燃やす。木の皮から枝から残骸から、すべての木の部分は全部ペレットになる。ううむ、ペレットストーブを使うということ(薪ストーブでなく)は、そういう/こういうことだったのだ/か。ということが一目で実感として分かる。

山形だと10㌔400円。でも、山形の木。宮城県だと10㌔600円。でも、宮城県の木。さてどうするか。今回初めてなので、一応両方買ってみた。しばらく燃え方を比べてみようと思う。



神様と王様がいなくなった後が
モダン=近代。

人間は自分ですべてを、
決める/決められる。



2013年11月23日
快晴。雲一つない、乾いた冷たい空気。

相変わらずの何やら心忙しい毎日。スケジュール表はそんなに予定が立て込んでいたわけではない。季節の変わり目だからかなあ、毎日何やかにや片付けなければいけない事が起こる。

普通使いの車を冬タイヤに交換し、ストーブ用のペレットをそろえ、着る物を交換して、身の回りのしまうものをしまい出すものを出す。この時期は、その合間に、大学での授業が規則的に挟まる。書いてみるとそんなに気にする程のことではないのだが、定期的な授業は、僕には結構ストレス。そしてそういう時に限って、オカミサンが覚醒しすぎたり、職場でキレちゃう人が出たり、難しい質問を持ってくる人が重なったり、「そあとの庭」に児童館が来たりする。ううむ、書いてみて思ったが、ちょっと脳のメモリーに余裕が無くなってきている感じだな。こんなに天気の良い日に、美術館の創作室の端っこで電脳に向っているのが、まずいけないのかな。

前にカブのならし運転をしていたとき、柴田町入間田あたりに山神社というのがあるのを知った。この前の、今日のように天気の良い日、散歩を始めるには少し時間が遅くなったかなと思いながら行ってみた。登り口にカブを止めて、ちゃんと整備された登り坂の参道をたどると、大変立派な太い杉の並木に守られた、立派な古い(でも誰もいない)神社があった。良い空気が流れていて、ここでテントを張って一泊っていうの良いなあ。本殿をぐるっと巡ってみたら、裏の崖っぷちに細道が切ってあって滝沢不動に続くとある。ちょっと行って/落ちてみた。里山の雑木林の中や山裾の古そうな小道をゆるゆるとたどる、ものすごく気持ちのいい道。果樹園の脇や、昔からある大きいお寺の裏を過ぎる。山の中腹にある段々畑を登って、道が一層細く荒れて来る。そこに新しい石塔がたっていた。滝沢不動参道。カッコいい。そこから山の中腹をたどる道は、突然木々が迫り薄暗くなる。で、パッと明るくなると小さい滝の前で、そこがお不動さんだった。回りは崖で囲まれ、滝で始まる小川がそこに谷を作っている。カッコいい。深い落ち葉。小さい社のそばにあるペンキのはげかけた看板を読むと、この不動は個人の持ち物だということがわかった。個人が見つけみんなのために公開している。カッコいい。しばらく社に腰を下ろして、耳を澄ますと聞こえる水の音を楽しみ、もと来た道をたどり山神社に戻る。最初見たときも立派な神社だなと思ったけれど、滝沢不動に行ってから見ると、このあたりの神様の有り様の深さが一段と感じられて、しみじみした。

前に書いたかと思うが、この山の西側に、磨崖仏富沢大仏がある。そうか、このあたり一帯がなんだか様々な神様に守られているところだったのだなあ。又は、守られないと大変だった所だったのだなあ。帰り、もう日が沈み始めていたが、このあたりの一番谷奥にある(と聞いていた)深山神社によって帰宅。このあたりはまだまだ探検が必要だ、こういう毎日が続くと良いのだがなあ。

活気あふれる美術館。

うるさくて落ち着きのない
美術館。

どこがどう違うのかの自覚。


2013年 11月 1日 

明るく曇った高気圧の日。
涼しい。

1年程前のブログを読むと、「S氏の優雅な退職生活」というようなフレーズが出て来る。なんということだ。全然優雅ではなくなって、コタコタにシナビタ毎日になっているのではないか?

21日月曜、1日かけて橘大(京都山科)から帰ってきた。せっかくここまで来たのだから、ゆっくり景色を見ながら帰ろうと様々画策してみた。全部各駅停車の新幹線利用とか。しかし、もう既に日本には「長距離各駅停車」なんて列車は存在しないのだった。ましてや新幹線においておや。今や京都から一生懸命ノソノソしても、11時に出ると(遠回りしない限り)午後4時過ぎには仙台駅に着いてしまうのが精一杯のゆっくり。

次の日午後から宮教大の授業2コマ。90分口角泡を飛ばすお話と、雨模様のグラウンドで幅跳びのピットに、スプーンで穴を掘る活動。
翌水曜日は本来休みの日だが、今年6月に約束していた、Kヶ森市民センター老荘大学の人達と一緒にシャガール展鑑賞。と言っても、シャガールを見るのは各自で、見るための練習を常設展で、という方向。歳とった人達はもの凄く熱心で、終わってから質問多数。結局午前中を大きく過ぎて、でも3時過ぎには解放。ここで終われば問題ないのだが、、。

出勤初日となる木曜。2カ所の仙台市立保育園年長計40名。本来この人数だと何とか(人数を)分けるか(来る場所や日にちを)変えるかしてしまうのだが「どうしても子供達を齋さんに逢わせたい」というベテランの先生達に押し切られ、皆でゆっくり美術館探検フルコース。先生達がちゃんとわかってフォローしてくれたので、思ったよりちゃんとできた(と思う)。
続けて金曜。近くにある開館最初期に美術館を使いにきてくれた愛J幼稚園年長組。この人達との試行錯誤から今の活動が組み立てられたので、大切にしなければいけない。今回は、美術館探検とその延長の粘土を作る活動フルコース。昼ご飯の後、ほとんど裸にTシャツ半ズボンで子供達と頭まで粘土だらけの興奮の泥んこ遊び。さすがにへばる。普通ならこれで今週は終わり、なのだが、、。

出勤最終日の土曜。山形芸工大博物館学の学生40名が集中講義で来館。午前中美術探検、午後美術館探検。ほぼ全員唖然呆然と実践に参加。来週土曜日、今度は僕が大学に行って、これは何だったのかを講義。これでだいたい先週から続く殺人的活動三昧週間は終了。さすがに、なんとなく風邪気味になる。本格的に風邪を引く前に、免疫力を強化するサプリメントを一挙大量服用し、ビタミンCと葛根湯を混ぜてお湯で一気に飲む。結果、なんとなくうっすらと鼻水出るなあというぐらいで、今日まで来れた。「S氏の優雅な退職生活」は何時になったら始まる?のだろう。

私の仕事は、ノッツオをこくことではなかったか。

本質をシンプルに、
実践を直接に。


2013年10月23日 
終日冷たい霧雨。

この前の台風が過ぎてから、なんだかグズグズした毎日だ。そういう毎日の中、忙しい日が続いている。と書いてから思えば、美術館に出ている日は結構時間が空いていることに気付いた。休みの日に仕事が入っているので、なんだか忙しそうなのかな。

先週の土曜日一日かけて京都に移動。本当は、今や京都は半日で余裕に着く距離なのだが、今回行く所は山科なので、少し早めに移動して散歩/うろつき。この時期京都はまだ紅葉前で山科駅前のホテルの連泊の予約はわりと簡単だった。
仙台にいると、つい山科駅前と簡単に書いてしまう。山科駅はJR東海道線を京都駅から一駅戻ればいいはずだった。で、新幹線で京都駅に着いて在来線乗り場に行くと、どこにも東海道線の表示がない。山科は京都から一駅だから山科駅行きという表示は特にない。仙台駅で長町駅行きの表示がないのと同じ。仙台だと長町がなくても白石とか福島とか知っている駅の名前がある。でも、京都で表示されている電車の行き先の駅の名前は、そもそもなんて読めばいいのかすぐには思いつかない漢字(というより訓読み)だったりする。(漢)字が読めないので「どこ(ここ)行きの電車は山科通りますか?」と人に聞けない。湖西線と琵琶湖線が山科で別れるという表示があって、とにかく、その辺りに乗れば山科には着くようだということがわかる。湖西線と琵琶湖線って、東海道線なの?実際に行ってみたら、山科駅は僕のわかっただけで3つあった。だからホテルは山科駅前すぐということだったのだが、本当に着くのかなと結構緊張しながら到着。

だいたい、せっかく各駅!停車の新幹線で行ったのに、名古屋の次は岐阜羽島で、次米原そして京都、京都を出ると次は終点新大阪。名古屋から大阪まで3個しか駅がない!そんなに近かったんだ!東北新幹線だと仙台福島間だって1つ駅があるというのに。宮城県内だけで3つ駅があるというのに。あっちでは、私鉄がその間を縦横無尽に(仙台にいると考えられない程に)つないでいるのでJRの駅はそれぐらいで充分なようなのだとわかる。何しろJR山科駅前には、違う線の、名前は同じ駅が、3つ上下に重なって、あった。いやはや。僕は本当に田舎のオンツアンになってきたのだなあ。

なにはともあれ翌日、京都橘大学で、博物館教育での教育の捉え方の講演とシンポジウム。興奮して1時間しゃべった後シンポジウム。会終了後、質問に来た(物凄く真剣な、イギリスから留学している)学生に、タジタジと答えたりする。夜、参加者(学生より博物館美術館関係者が多かったようだ)と食事をし、コタコタになって帰って早く寝る。次の日はゆっくり起きて昼頃の新幹線で帰仙。東京からの電車の中で爆睡。家に帰っても、早く寝る。

火曜日は、宮教大での授業。3時限目講義と5時限目実技。早く帰って(といっても8時になってしまう)アメリカンフットボール中継をBSで見て就寝。
今日は午前中美術館に出て、今年の6月から約束していたK森市民センター老荘大学の人達25名程と、シャガール展を見るための常設展の使い方。歳とった人達はみんな熱心なので、こちらもつい一生懸命に話す。その後全部歩きで、デ−ステルでコーヒー豆を買い、「かふく」で蕎麦を食い、佐々木さんのカフェで美味いコーヒーを1杯だけ飲み、SARPの明才展に寄り、飴をもらって帰宅。予定では、あそこでこれをしてここでこれをするはずだったが、もういいやと全てキャンセルして帰宅。今、夕飯を食ってこれを書いている。

明日から木曜金曜と幼稚園が来て、粘土を含む美術館探検をし、土曜日に山形芸工大の美術館教育の学生が来て、午前と午後、探検のワークショップをしてみせ、その次の土曜日に、今度は僕が芸工大に行って、あれは何だったのかの解説講義をする予定だ。ううむ。


天気良いんだから外で遊びなさい、から始まる教育。

ごく基本的な発想から始める理論。



2013年10月16日 
凶暴な台風が来ているはずなのだが、高曇り。 

朝一番で、来年2月に行くことになっている沖縄県芸大への飛行機の切符を買いに(予約は済んでいるので支払いをしに)行くことにしていたのだが、凶暴な台風が来て、昨日の夕方から鉄道は今日の運休が決定。午後まで外に出ないようにとラジオで言っている。でも、僕のいる岩沼は、今午後1時で既に高曇り。風は吹いているけれど、確かに微風ではないが、という程度。もう過ぎて行ってしまったのかな。岩沼は、なぜか、いつもこんな感じ。阿武隈川がうまい具合の所に流れていて、うまい具合にやり過ごしてくれているのだろう。電車が動き始めたら仙台に出かけようかと思う。と書いたところで強い風が吹き始めた。

というような理由で、今日の午前中、ポッと時間が空いたので、10月1日から始まっている宮教大での授業の整理をしていた。これまでの大学の授業と同じに、継続して行う授業のときは各自にカードを渡して感想と質問を書いて出してもらい、それを出席カードにしている。出席を確認しチェックした後で、丁寧に彼等の文章を読み、考える。単純素朴な質問が多いので、その分こちらが考えるところは大きく多い。この感想質問を持ったまま、欠席しないで最後まで寝ないで聞いていれば、その質問に答えが出るためにこの授業をしているのだがなあ、という質問も多い。

僕が授業で話していることは支離滅裂で全くアカデミックではないなあという自覚が、こちらにはある。1回目の質問に個別に答える(といってもかいつまんで)というのを2回目にしていたら、提出者の半分もいかないうちに時間が(1時間半の)来てしまった。そもそもの基本オペエレ-ションソフト上の言葉の概念を点検修理しているうちに終わってしまう。何処から始めたら良いのだろう?ということを自覚する授業をするのだなあ、と思う。

何しろそもそも「美術による表現」とか「イメージと表現」という最初から美術の奥に飛び込む授業なのだが、その美術という概念が図工のまま+ぐらいのところから始まってしまうので(たぶん)そちらにもこちらにも、大変なのだ。
初めに点検しなければいけない概念。美術。教育。歴史。日本とそれ以外の国。基礎教育と大学での教育。視覚表現。そもそも表現。見る。評価。生きていく。感性。西洋画を習っている。日本画は習わない、が、僕等は日本人だ。絵の価値。歳を取る。ここに生まれる(た)。いやはや。これらはすぐには理解できない。理解できてどうなるというモノでは(も)ない。では、私達はなぜ教育をしたがる(する)のだろう。

なんてことを考えていたらアッという間に1時半。風もやんできて高曇りどころか、薄日が射してきた。でも空気は一気に冷たくなってきた。

主語を忘れない発言。

齋でなく正弘としての
発言と行動。

そこに表れる私=Iと
貴方=Youとの関係。



2013年10月 7日  
曇。時々霧雨。全てが中途半端な天候。

ここしばらく、歩いて美術館に通勤していたので、先週末、アエル丸善前の市営駐輪場に行ったら、通勤用自転車に料金不足のステッカーが貼ってあった。僕の自転車には9月までの半年用駐輪場定期ステッカーが貼ってある/あった。おお、もう10月にすっかり入っていたのだった。何なのだろうこの物凄く早い時間の進み具合は。駐輪場使用チケットを再び半年間延長。色々手続きをせねば行けないことがこの時期続く。電車の通勤定期ももうすぐ更新時期だ。カングーのバッテリーも換えなければいけない。でも最近こういう何でもない普通のことの手続き等がとてもめんどうに感じるようになってきた。胞夫さんが一気にアルツハイマーになった時を思い出す。あるとき彼はバサッと請求書の束を僕の前に出してきて「正弘、これはどうすれば良いのや」と聞いてきたのだった。面倒なことこそ丁寧にやっつけるようにしよう。しばらくブログの更新もしていなかった。

この前の更新(9/15)以来なんだか毎日忙しかったように思う。この時期見たい/聞きたい展覧会や聞きたい/見たい演奏会などが時期的に多くなって来て、それをするのに様々オプションを付けてしまったりして(松島西行戻りの松まで行くのに舟を使うとか)ますます時間がなくなっていく。でも毎回充実した体験が出来て満足はしている。ただ時間的にはなんだか毎日忙しさがつのる。
その上、10月から、短い間(今年一杯程)だが再び宮教大で先生をすることになったので、やや緊張気味にその準備などを始めたりした。それを始めたら来年年明けに沖縄県立芸大に呼ばれていることもリアルに思い出されて、なんだか心騒ぐ。その前に芸工大の博物館教育の授業と、京都橘大でのシポジウムがある。どちらにせよ、僕の場合は出たとこ勝負だとは言え、何なのだろうこの落ち着きのなさは。

9月中にいくつかあった美術館での美術を巡る相談活動から始まって、9月末にあった松島西行戻りの丸公園での音楽会の体験/経験や、SARPや芸術協会の展覧会などを見た想い/感想、新たに手に入ったクロスカブ(モーターサイクル)でのしばらくぶりのツーリング(という程のものでもないが)体験などが相まって、深い動揺のようなものを、今の僕に感じさせた。ああ、それであんまり文章書けなかったのだな。

良いことも悪いことも含めて、とにかくみんなは着々と表現に変えているように見える。僕はもう20世紀的な方法ではなんだか恥ずかしいような気がして、あまり直接的な表現には移れないでいる。では何か違うものをとは思うが何も思いつかない。呆然と毎日が過ぎていく一方で、毎日毎日体力が落ちていくのが実感出来る。少しずつ実験を始めてはいるのだが、何しろ最も大切な集中力が落ちてきているのでいかんともしがたい。しょうがない少しずつ丁寧に好きなことをやり始めようと思う。いやはや。


子供は普通に話している。
うるさいのではなく、
声の周波数が高いだけだ。

子供は移動しているだけ。
彼等の移動はワープなので、
走っているように見える。



2013年 9月15日 
強い雨。湿度高し。

今朝ゆっくり起きた時は、今日は絶対熔接仕事のカタをつけに美術館に行くぞ!と意気込んでいた。
落合にある宮城県子供病院の待合室を飾っている、鉄とステンドグラスでできた様々な店の看板風オブジェは、子供病院オープンを記念して当時の僕が鉄の部分を作った。病院は今年開院10周年。なので、その時できなかったもう一つの看板を作ってくださいというオーダーが来た。その最後の一つだった音楽屋さんの看板を作っている途中で、僕は脳内出血になって、それが未完成のまま病院は始まってしまったらしい。らしいというのは、僕のそのあたりの記憶が全く無いからで、この話が来た時ちょっと、しかし深く、動揺した。ま、とにかく今日は少し雨が降りそうだけど(台風が来ている)、かっぱを着てカブで美術館に行き(何しろシャガール展の真っ最中の雨の日曜。駐車場には入れないだろう)昨日までに部品は作ってあるから手っとり早く方付けてと思っていたのだ。

そもそも、ゆっくり起きたのは早くは起きられなかったからで、今週の出勤日は連日ハードな活動の毎日だった。三日しか行ってないのに。木曜金曜と元気な(ということは子供の状態が良いということだが)幼稚園が来て、粘土作りまでやる美術館探検をした。自分がへばらないようにと気にはしているのだが、そういう子供達だと面白くて、つい夢中になってしまい、彼等が帰るとバタンキュウ。でもそういう時に必ず、その日あたりで終了する展覧会がいくつかあって、帰りながら回り道をしてギャラリーを回って腹ぺこで帰宅。そうすると、そういう時に限って明美さんが不調であることが多く、帰っても誰も居ず(彼女はセブンイレブンに自分の分の弁当を買いに行っている)、自分で夕飯を作って静かに食い、早めに寝る。つもりでテレビを付けると、なんだか見たかった番組をやっていて見てしまい、ふと我に返ると11時になってしまっていて、あわてて寝る、という2日。土曜日は普段なら何もないのに、こういう週はなぜか美術探検がある週で、これも普段なら参加者3名とかなのに、今週はその一般3名の他に大学の博物館学の学生が博物館教育学の授業できて、+15名。1時間の公開活動終了後場所を移して、今やったあれは何だったのかを、学生に1時間講義。今、思い出して書いているとどんどん疲れて来る。

でも昨日は、帰ったら明美さんも復帰しており、ゆっくり風呂につかって早めに寝られたから、今朝一番には、最初に書いたような状態だった。起きて最初に洗濯機をセットしてまわす。昨日は暑くて湿度も高かったから、お話だけの活動だったのに結構汗をかいた。その後いつものように珈琲を立て、林檎ジュースとヨーグルトを出し、残っていた食パンを1枚焼いてオリーブオイルと蜂蜜をつけ、朝刊をチェックしながら、トマトと一緒に食う。食後、脳と心臓血管関係薬を飲んだ後、昨日までの洗濯物を畳んで収納。子供との粘土の活動が続いたので、ビックリするほど多量。で、このあたりでふと思い出したのだが、今日の新聞の運勢欄は「そろそろ夏の疲れが出るから、今日はノンビリするのが吉」だった。確認して、そうだったのかと、今日はこちらをとることに変更。

終わった今日の洗濯を部屋の中に干してから、まず始めにかっぱを着て自転車でゆっくりダイシンに行き、今日やるはずだった作業が終わったら使うことになる塗料を購入。隣の100円ショップで金ブラシセットも。その隣の陶器屋さんは見るだけ。帰ろうと外に出るともの凄い土砂降り。その中を自転車で帰宅。靴の中まで水浸し。一息ついてから、ちゃんと入れる珈琲の練習をしようかなと思い立ったのだが、美術館に行かないとなると、するべきことは次々出てきて、まずこのブログを書いてしまったら、確か19日が締め切りだった頼まれ原稿も書いてしまい、10月から始まる宮教大の授業のカリキュラムのメモをまとめておくことにしよう。というふうに一日は始まり進むのだった。快調の明美さんは、これを書いている後で今日の夜のカレーを作り始めているが、なんだか凄いことになりそうなので、今回は見なかったことにしようかと思っている、雨の日曜の午後。

怖いときは大きい声で泣いていいんだぜ。
泣くと少し怖くなくなるからな。

で、その次どうするかだ。



2013年 9月 1日 
湿気った暖かい空気。空は快晴。

だいぶ良くなってきてはいるが、腰/背筋の鈍痛継続。でも、今日は電車で南仙台まで行き、ホンダテクニカルショップからクロスカブを受け取って来る。僕の黄色い新しい小さいモーターサイクル。

クールに見渡すと、ここに来て僕を取り巻く様々なモノの状態が一気に良くなくなってきている、気がする。まず、ルノーカングーのスターターの調子が気にかかる。かかることに関して問題は無いのだが、キーをひねった時に一瞬息をつく。ルノーの(だけでなく欧州車の)バッテリーは、突然死ぬということを僕は知っているので早めに点検したい。点検するとバッテリーではない本当の不具合が出て来るかもしれない。そういうのは早く見つけた方がいい。僕の心臓の時のように。本当はそれを今日のメインの活動にするはずだった。でも今日は日曜で新車のキャンペーンをやっているというお知らせが先週来ていたから、今日は混んでいるだろうなということで、順延。

といっているうちに、だいぶ長く使っている携帯電話が、使用後突然切れてしまうという状態が起こるようになってきた。これもバッテリーの寿命を超えて使っているのは知っているから、心しておかなければいけない。ただ今度携帯屋さんにいくと、まず絶対iPhone5にしましょうということになるはずなのだ。でも、冷静に考えれば、僕に必要なのは電話と簡単なメール機能だけで、スマートホーンが持っている様々な能力は僕にとって煩わしいものばかりで全く使わないことは目に見えている。唯一ルーターの機能は魅力的だが、それだって今やもの凄く特別な場所(でも、そこは宮城県美術館だったりするのだが。あ、でもモーツアルトでは使えるか)に居るときだけ必要な訳で、そういう所で手帳電脳を使わなければ何も問題は起こらない。次のは操作が最もシンプルで、表示の字の大きい老人用携帯にしよう。ルーター機が付いている、かっこ良いのあるといいのだが。と、ここまでは考えてあるのだが、たぶん最も僕に腰を引かせているのは、あの携帯屋さんの若い店員の人達とこの話をし、彼等にそれを納得させなければいけないというあたり。使っている言葉が違うし意味不明のイニシャルとカタカナ語、数少ない通じる言葉もその概念がうまく同調せず、それを僕の方が知らないうちに自主的に修正してしまう。で、終わり頃、それに気付いてどっと疲れる。でも切れちゃう前に行かなくっちゃ。でも今日は日曜日。すいてるウイークデイに行くことにして、今日は延期。

2CVに乗って、達夫君ちでディスクブレーキに変えているYETYの様子を見に行き、新しくしたワンポールテントでキャンプをし、ここ数年ご無沙汰の蔵王に行って、松山に移動したことがわかったレーションで昼飯を食い、庭の草を整理して敷いてある線路を一時撤去し、新しく設置した食器棚を基にしてこれまでの生活全体の動線を考え直して持っているモノを並べなおし、10月から始まる宮教大の授業の実際のカリキュラムを組み立て(あ、その前に宮教大の教務に電話して駐車券を申請しなければいけないのだった)、なんてことを書いていたら、もうカブを取りに行く時間が来てしまった。行こう。


怖い物が見えそうなときは
まず薄目。

見たいときは全部開け、
見たくないときは全部閉じ。

でも目をつぶると
死んじゃうときもある。



2013年 8月23日  
昨日突然夏。本日ヒヤッと曇。

先週末に「実寸」という雑誌にあった。持ってきた人との会話の中で僕が「雑誌」と言ったら,「冊子」ですと直された。A4サイズ50頁ぐらい。内容は障害者授産施設で手に入る様々な物の実寸写真集(の様に見えた)。作品(写真)を巡る座談会、巻頭の言葉。写真をざっと見ていたら、値段は1000円ですという。少し高いかなと思ったが、若いのがなんだか一生懸命作っているわけわかんない物に、僕は弱い。1000円払って、僕の物となったのが1冊手元にある。

その少し後で、それを作った人たちの何人かに会う機会があって、これは何で、この後どうなるのかを聞く機会があった。彼等の話はアッチコッチ跳んでうまくつながらない所もあった。けれど、フムフムとも思った。文章を細かく読んでもらえば書いてありますと云うので、全部(細かく)読んでみた。やっぱり不思議な物だった。僕の中では、彼等が言っている心意気は良く解らなかった、といった方が正しい。様々なブログやtwitterやfacebookでは、感動したり褒めたり皆で読もうと言ったり日本中で売ろうと言ったり東北の誇りと言ったりしている人達がいた。みんなは何が起きているかわかってるようで、少し動揺。これはなんか「僕の概念を超えた本」が始まっている始めの所なのだろうか。
本と云うメディアがする/できる仕事のイメージが、僕はたぶんあまりに20世紀的すぎるのだろうか。それとも単に僕がコンサバすぎるようになってきたか。様々深く考える機会にはなった。

同じ頃、しばらく前に話を聞いていた、大学の後輩の先生夫婦が始めたコーヒの店に行ってみた。岳山珈琲(ガクサンコーヒー)。彼等は二人とも美術の先生をやっていて、定年の少し前に辞めて練習し、店を始めた。泉が岳に向ってメインストリートを登って行き、温泉を過ぎた登りの途中、除雪トンネルのだいぶ手前の山に向って左側、林の入り口。
いやあ―驚きましたね。このあたりは、昔、山や林の奥の方までモーターサイクルで走り回ったあたり。七北田ダムの方から、大蔵の方から、横川林道の方から、舟形の方から、升沢の方から、赤崩の方から、南川ダムの方から、その他の踏み分け道を含め、昼夜を問わず、縦横無尽に走り回っていた。いやあなんという変わり様なのだろう。これではトトロは居なくなるし、もののけ姫も逃げて行くのあたりまえだ。という中にたたずむ、手作り感の漂うしっかりしゃれた喫茶店。ケーキとトーストぐらいはつまめるけれど、基本は(美味しい)珈琲。余裕のあるテ-ブルの配置。みんな違う椅子。元先生だとはとても思えない彼等の服装。ニコニコしてしまった。ニューヨークに居た頃には気付かなかったけれど、ここに来てそうだったなと思い出す、欧米のカフェで感じる「ほっとかれている感じ」が、ここの店でも味わえるといいのだけれど。時間ができたら何回か来てみようと思って、一番深煎りの豆を100グラム買った。


天気良いんだから、
美術館になんか来ないで
外で遊びなさい。

10歳以下の人達と
遊ぶときの基本。



2013年 8月20日 
湿度高い。部分的に雨降り続く。

腰が痛い朝。昨日1日青根の川で遊んでいたからだ。ノッツオの人達との夏の恒例行事。今年は若い新人も少し来たけれど、基本のメンバーはベテランの小学校教師達だから、テキパキと山の谷川に石でダムを築き、蔵王からの冷たい沢水を溜めてプールを作り、浸り、遊んだ。今年は気温が高かったのに、水は冷たく、Tシャツを着て沈み、立つと寒い。水の中だと思いもかけない程大きい石も一人で動かせるので、ちょっと少し無理をした。その結果、楽しさの後のちょっとした苦痛。そしてそれはすぐにはこない。川での活動を一通り終えて温泉に入り、チーズシェドでチーズドリンクを飲み、家に帰ったあたりからじわりと現れる。ギックリ腰ではない。筋肉がひどく疲れているだけの感じ。早めに風呂に入り早めに寝たら、今日はずっと良い。まだ痛いことは痛いのだが。
この前ブログを更新してからすごく時間が経ったように感じていたのだが、思えば2週間しかたっていない。日記のメモをしておく。

様々あって、家に来ている電話線が光ファイバーに変わった。それに伴って、再びNTTがメインの電話会社に戻った。同時に/なので、電話機が、壁に取り付けてあった電話用のコネクターではなく、ルーターにつながることになった。で、ルーターは何処につながっているのだ?少なくとも、電話コネクターは空いたままだ。有耶無耶ムヤ。家につながっている電話線?が光ファイバーになったら、これまで受信しかできなかった固定電話機(ネットで買った韓国製古型黒電話器)が送受信両方できるようになった。この電話器は格好優先で決めたやつなので、受信はできるんだからしょうがないとほぼあきらめていたのだが、何もいじった訳ではないのに、普通の電話器になってしまった。理由は簡単な所にあるのだという気配はするが、解らないことにしておこう。

角田丸森境の大蔵山へはあの後も行ってみた。丁寧に見れば見る程気になる。山田さんはいまだ社長のようなので、電話をして会い、あの場所の意見と展望を聞いた方が良いのではないかと思い始めている。あの山堂で、レストラン(又はカフェ)をするだけでも、、、。

家の玄関に入る前の庭に黒竹が植えてある。そこに今年は七夕を飾った。といっても、100円ショップで短冊セットを買ってきておき、家を訪れた人に無理矢理何か書かせ、つるすというもの。皆なかなか書かないので、景気付けにまず僕が数枚書いた。「夏の青空」「ひとりでいるからほっといて」「世の中のほとんどは、ま、いいか、である」「正直真剣臍曲り」このへんまで書いたら、家政に来ているK子さんに、インデペンデントな七夕ですねえ、という感想を言われた。全く自然にこれで良いと書いていたので、一瞬(だけ)動揺。思えば、七夕の短冊って何書いてたんだっけ?でもこれで様々吹っ切れたので、これからはあんまり世間に具体的な影響を与えない事物は、きちんとした自己流で行くことに(改めて)決心。

僕は何宗とかではなく、でも神様は居ると考えている。で、クリスマスも好きだが、大きい石も拝むし、一応お盆もやる。今年も13日に竹駒寺のお墓に行ったら沢山の人達がいて、お墓を掃除して安い緑色の線香束をそなえ、そそくさと帰って行くのだった。僕はあの安い線香のニオイがあまり好きではない。墓石を掃除して花を生け変え、水をくんで、どうせあげるのだから、僕の好きな香りの良い線香に5本だけ火を付け、それが燃え尽きるまで、ぼんやりお墓の前で日光浴をしながら(もの凄く暑いが)周りを見ている。パンパンと拍手をして拝んでいる家があったり(何か理由があるのだろう)、パッと来たなと思ったとたんサッと返って行ってしまうとこ(でもやるべきことはやってある)があったり。ええい、死んでしまったら何をか言わんや(言えないが)なのだなあと、しみじみ思う。お墓に来てしみじみ線香の香りを嗅ぐ時間を持つのは、もう少し時々やってみてもいいなあと思う。

なので、七夕だけでなく、お盆の仏壇の飾りも、今年からはその飾り付けの意味を知っている範囲は、自分で決めて、(かってに)飾ることにした。これまでは栄子さんが最後に飾ったときの写真を基に右往左往自身無くやっていたのだ。たぶん深い意味が様々あるのだとは思うが、彼らがあちらから来るときのことを様々考えつつ、お話をしつつ作り並べて行く。こっちの方がずうっと心落ち着く。盆提灯を4つ立て、花を飾り、ミョウガとキュウリ(しかなかった)で四つ足を作り、ドライフラワーのほうずきを飾り、荒縄で結界を張り、蜜蝋の日本ロウソクを立て、この前寒河江の慈恩寺で買ってきた慈恩香を用意して完成。盆飾りもインデペンデント。これから僕の齋家はこの方向にする。

痩せ我慢の許容度。

孤立することの自覚。

そのことによって自覚される
自由の許容度。


2013年 8月 8日 
立秋過ぎたら、朝から突然の夏。

昨日のブログを書いた後、一階の食堂に降りた。朝は7時から朝食、ということになっていた。7日の活動は朝9時半までに釣石神社駐車場集合ということになっていたので、少し早く行って下見をしておきたかったのだ。地図で確認した感じでは県道33号線を裏から通り抜け、追波川沿いの堤防に出ればいいから、8時に出れば充分だろう。

で、7時に食堂へ。誰も居ず、何もない。部屋がそもそも開いていない。でもパンが焼けるおいしい匂いはしている。呼んでみても誰も出てこない。少し焦る。こういう時、ここは自分で勝手に自主的にする方式なのか? 他の宿泊の人達(なぜかみんなオス)も少しずつ出てくる。7時を10分程すぎた頃、少ししゃれた民宿のおかみさんのような女の人が慌てた様子で事務室の中から走り出てきて、あたふたと用意を始めた。何のことはない、ホテルの職員が遅刻をしたらしい。笑うしかないなあ。こういうの初めて、あたりまえだけど。どちらにしても朝は洋式のバイキングな訳で、10人程の宿泊客はそんなに混乱もなく次々食べて出て行く。ほとんどの人はなんとなく復興関係技術労働関係者のようだった。思えば今日は僕もそのうちの一人と言えなくもない。というようにして始まった震災復興系子供対象美術的活動を、ムリヤリ炎天下半日。釣石神社は、物凄い石の神様で、(その神様に)怒られないように注意してしなければいけないのに、みんな無神経すぎる。社務所の人に怒られないようにしてしまう。そちらより神様だってば。

這々の態で参道のチョークを水で洗い流し(そういう活動になってしまったのだ)、13時頃にすべて終えて帰ろうとしたら、若い仲間に、齋さん今日の夜は来るんですかと聞かれた。今日はもう帰って早く寝るつもりだけど、それなんだっけ?今日の夜7時からターンアラウンドで、槙さんん主催のDVD上映会があるのだった。それはずうっと前から決まっていたのだ。ああそうだった、覚えているよ、いっぺん岩沼に帰って電車で行くと思うよ。何しろ今日は七夕の日だぜ。いやはや。それでも三陸道がずうっとこちらまで伸びてきているので、岩沼まではそれに乗れば直通。のはずだったが、なぜか今回僕のETCが鳴瀬の本線チェックで稼働せず、混乱。誰か僕に意地悪してんじゃないか?眠くなってくるし。こういう時は気を引き締めてユックリ行くことにして、新しく出来た松島春日SAに入りミニストップでハロハロとブラックコーヒー。コーヒー飲みながらボーッとしていたら、突然にゅーっと、あの(僕の嫌いなユルキャラとかいう)ムスビ丸が僕の視界に割り込んで来た。何なんだこれは!と身を引く。春日SAの開場1周年記念なのだと。僕にはどう使うのかどうしても思い描けない、物凄く小さいタオルハンカチを1枚(ムリヤリ)もらう。ここで意気をあげてと思っていたのが一気に下る。再び這々の態で帰宅。とにかく無事にはついた。42度のシャワーを浴びて着替え。そうしたら、なんだか癲癇の発作が起こりそうな予感がしてきたので、癲癇止めの薬を飲んで暫く昼寝。ということは出る時間がややきつくなってくるということになるわけで、6時少し前の電車で仙台へ。片平消防署の前からはほぼ走って、なんとか5分前に着く。DVDは相変わらず面白かったのだが、家に着いて寝たのはやはり12時をすぎていた。

何という一日だったのだろう。あんまりこういう風なのはしない方がいいなと思いながらも、なんだかニコニコしている自分も居る。こまったもんだ。


自分を自由にしておくということは、自分の孤立を自覚することだ。

その自覚の上にある、
近代の社会。



2013年 8月 7日 
朝5時、まだ曇っているが、既に空気は暖かい。

今日午前中から石巻長面浦の近くで、NPOの活動がある。三陸道が混みそうなので、昨日の午後石巻に移動し、前から気になっていたHutaba Innに宿泊している。今のところ快適。ただ石巻は何しろ漫画で町起こしなので、過剰に石ノ森章太郎。とはいえ、このホテルは彼の定宿だったらしいので、当然といえば当然なのだが。僕の部屋は2階で、北を向いた大きい窓一面、向いの大嶋神社住吉公園の森。音がしないというのではない、静けさ。昨日の夜は雨が降っていて、夕飯を食う店を探して少し歩き回ったが、街自体がそんなに大きくないので、いろいろな所にすぐ行けて面白かった。ただ港町なので?居酒屋さんが多く、僕が使えるような普通の食堂は、この時間なかなか無く、結局日和アートセンターによって聞いた。雲雀Hibariという、中国人の人がやっている店であんかけ焼きそばと餃子。朝飯は7時からなので、今から朝の散歩に行く。


どんな教育活動でも、
本当は受ける側に
その主体がある。

なのでその活動は常に
並列で見ることから始まる。




2013年 7月27日
ぼんやり暖かい湿った空気。
時々雨になる厚い曇。

ついこの前亡くなってしまった友人の石彫家菅野直子さんは、長い間角田の大蔵山を作業場にして石を彫っていた。大蔵山は古くから伊達冠石を掘り出す所で山田石材が管理している。伊達冠石は元々大きな卵形で赤土の中から掘り出され、回りを切り取って墓石などに使われている。宮城県南の黒い墓石のほとんどは、実はこの石ではなかったのだろうか。そのぐらい長い間この石は普通に墓石として使われてきた。

表面が一皮だけ赤く中身は真っ黒い硬い石。山を掘ると、中から赤くて丸い石がゴロゴロと出て来る。石を採ってそのままにしておくとそこはただの赤土の空き地になって、山は壊れて荒れていく。20世紀の終わり頃、僕とほぼ同じ年齢の山D正Hさんが社長になって、このままではいけないと山の再生をすることにした。山をただ元通りにするのではなく、全国からよんだ何人かの若い彫刻家と組んで様々な事業を絡めた再生を始めたのだ。赤土の広い空き地は基本的に牧草地になったり、様々な石を使った広範囲の造作物があちこちに建ったりできたりした。東欧からよんだ石組み職人による石の壁ができ、それを使った建物もできた。一時は頻繁にイベントや活動が組まれ、朝から夜遅くまで様々な時間と空間に起こる面白いことを体験しに、僕はそこに出かけた。何しろ空がくっきりと広く、西には蔵王の屏風が見渡せる。夜、星を見るのには最適だったし、草原に響くモンゴルの人がうなるホーミーなんか他では聞けない音だった。

バブルが終わって21世紀に入ったあたりから、そういういわゆる「ムダな動き」は様々な状況が重なって動きがにぶくなっていき、人の入れ替えなどもあり、僕はしばらく大倉山に行かなくなってしまった。何しろ、ちょっと遠い。

先週日曜日、ちょっと相談があって、いつも庭を見てもらっているH浦さんに来てもらった。庭の整備をしながら、彼女が質問をしてきた。僕の庭には、直子さんの石彫が少しあり、伊達冠石のかけらもあちこちに敷いてある。で、「この石は何なんですか?」という質問に答えながら、僕は本当にしばらくぶりで、大蔵山のことを、懐かしく肯定的に強く、思い出した。前置きが長いな。

どうやって大蔵山に行くのかを、僕は少し忘れていた。一時期、胞夫さんや子供達と行っていた場所で、目をつぶってもとは言わないが、全く自然に様々な方法と方向から行っていたはずなのに、地図上にそこを見つけるのに少し手こずった。大蔵山というのは、国土地理院の地図では見つけられなくて、GoogleMapを使って確認した。でも、確かにそこだったか。そこまでの道のイメージがよみがえらない。で、この前の雨のしょぼ降る火曜日、一緒に行くという明美さんをカングーに乗せて行ってみた。

まず東側からのアプローチ。船岡から手代木沼脇の農免道路を丸森に向い、斗蔵山への古い県道に入る。軽自動車用の道。所々整備された二車線が現れる。白石蔵王駅から来る別の県道と作るT字路を過ぎたらあと少しだ。ここまで来れば思い出す。イメージはよみがえってきた。山田石材現場へは道標がある。未舗装の登り。途中に昔は無かったしゃれた建築物があって、そこは山田石材のデザインセンターだった。もっと登る。霧が流れる原っぱが出てきて、そこが来たことがある大蔵山のメインステージだった。山田石材、大蔵山、山堂。やや遠いが、もっと色々使いたくなる状況が未だそこにあった。
帰りは山を降りたら少し戻って、県道24号線と150号線のT字路を白石蔵王駅の方にとり、とにかく真直ぐ進めば、直通で国道4号線に出られる。道路沿いの店で白石温麺を食って帰宅。これが西側からのアプローチ。こっちからの方が距離的に遠いが早い。

今は夏で草の茂り具合がすごいから、いやはや大変に見えるが、時期と天候が合えば、大蔵山の使い方は様々広範囲に考えられるように思う。しばらく気にかけて行こうと思った。






教育の主体は
常に受ける側にある。

その人がしたいことの
相談に乗る。=教育。



2013年 7月16日  曇り。乾いた涼しい空気。無風。

明日、仙台市泉区K茂小に図工の授業をしに行く約束がある。というブログを、今、仙台宮城インター脇にある、そあとの庭で書いている。今日は火曜日で、毎月第2と第3火曜日、僕はそあとの庭で「何でも相談」を開いている。ほぼ毎回児童館での様々なワークショップの相談がある。いつも具体的な相談なので毎回快調。

この前の日曜、公務員になったばかりの頃に住んでいた、向山にある私立幼稚園の父親会に呼ばれて朝8時から回りの森の探索。9月に父母会主催の活動をするので相談に乗ってくれというリクエスト。始め美術館に来るための相談だったが、せっかくだから自分達の身の回りで探検をということにして、それへの回答。しばらく(20年ぐらいか?)ぶりに県中央児童館下の林(森?)に男子5人で入る。踏み分け道は一応全部点検し、メインロードから枝分かれする高校や小学校へのルートも見て回る。道は僕がいた頃と同じままだった。だが彼等は、中央児童館(現在建物立ち入り禁止)を含め、ほぼすべてのエリアが全く初めてなのだった。天気がすごくよかったので、木漏れ日凄まじく、苔むした廃墟?もあり、全くトトロともののけの世界。僕も含め全員声もない程に感動。何もしないで、丁寧なお散歩をするだけでいいよねとなる。10時頃に終了。せっかくなので、しばらく来ていなかった、野草園、大年寺山を廻って帰宅。どちらも、記憶していた物よりぐっと近代化されていて、動揺。東北大植物園にも行ってみなければと思う。帰り道、今年初めての冷やし中華を食う。夜に、連絡していた友人が残っていたオフロードバイクを取りにきた。これで、今、僕の家にモーターサイクルが1台もない状態になった。特に何ということはないのだが、なぜか心もとない不思議な感じ。新たなカブは9月に来ると連絡あり。しばらくこの心細さを楽しもう。

一人でいることの
何でもなさとかっこよさ。

その自覚から始まる
あなたと私。

そうなれば
私は既にあなたでもある。


2013年 7月9日 
薄く青空の見える曇。湿気った動かない空気。

明日は62歳の誕生日だ。それで先週自動車免許証の書き換えに行ってきた。これまで何も考えることなく七北田のセンターで書き換えをしてきていたが、今回は意識的に仙南免許センターに行くことにした。小雨模様の日、余裕を持って家を出て、初めての道だったが8時ぐらいには着いた。僕の前に待っていた人は二人。決してガラガラではないが、全体に余裕のある込み具合。今回はブルー免許なので、1時間講習。今回もうまくニコッとできなかった写真の免許証。

少し前に、図書館から借りてきた片岡義男の小説を読んで動揺したことを書いた。それでその後しばらく、家に残しておいた彼の論評やエッセイ、ハードカバーの小説を読んだ。赤い背のカバーの角川文庫は、全册持っていたのだが、脳内出血復帰以来、整理して古本屋に売ってしまった。高校生以来彼の書く話は僕の言葉に深く影響を与えていたが、2000年を超えたあたりでもういいだろうという気がしたのだと思う。

新たに読んだお話はすべて面白かった。孤立することは清々しく肯定的で、近代の個人はすべて、まず私は一人だという所からだけ始まるのだった。ううむ忘れていた。僕はもっと意味のある言葉を話そうとしていたはずではなかったか。少なくとも、「よろしく」「頑張る」「うん」というような日本語では全く普通の言葉は意識的に使わないようにしていたはずだったのに。たぶん普及部長になったあたりからこれらの日本語を無意識に使うようになって、僕の孤立した個人としての集中力は急激に低下したのではないか。これらの日本語を無意識に使えるようにならないと部長にはなれなかったのだと、今になってわかる。僕は角の取れた日本の大人になったのだ。集中力と覚悟。みんなに伝えるべき物の見方を、もう一度自覚的に書き始めてみようかと思い始めた。





一人でいることは基本的で
あたりまえのことで、
それがごく肯定的な状態なのだ。

その状態から始まる IとYOU。
個人と公共。


2013年 6月30日 涼しい夏の空気。ギリギリ降らない雨。

アッという間に6月最後の日曜日。NHKFMを聞きつつ缶詰の鯨肉と春雨スープの昼食。

だいぶ前、トルコの人がやっているイオンヤというピザ屋が岩沼にあった。石釜で焼いたマルゲリータとニンニクの香りが沸き立つパスタがうまくて、岩沼に住むようになったばかりの頃頻繁に利用していた。イオンヤはその後繁盛して、仙台駅前に進出した後、しばらく前に名取市4号線沿いへと移ってきた。定休日が月曜で、近くに戻ってきたのは知っていたが、最近まであまり行く機会がつかめないでいた。この前脳神経外科での検診の帰り、ふと思い付いて昼飯を食いによった。相変わらず旨かった。前には見たことがなかったが、キャシャーの横で石釜焼きのフランスパンを売っていた。店中に焼きたてのパンの良いニオイが満ちる。カンパーニュをホールで1個買った。帰って生で少し食べ、残りを4等分して冷凍した。今朝そのうちの1個を解凍し、ポメリーのマスタードでトマトのオープンサンドイッチにして食べた。2切れぐらいで腹一杯になると思っていたのに、気付かないうちに全部食べてしまった。朝食が腹八分目どころか、腹一杯プラスぐらいになってしまったので、昼飯は春雨。

今週は、比較的ゆっくりした毎日だった。普通よりは本を読む時間があった。前の続きで片岡義男の今家に持っている本(ハードカバー)を再読。心にずんずんしみ込む。既にやたらにマーカーで線が引いてあるのだが、そこに重なり、かつ新たに線を引く。1999年頃に書かれた本なのに、状況はどうも思うようには動いていなくて、納得しつつ恐ろしく冷静に覚悟を考える。

ホンダテクニカルショップに行ってクロスカブを見せてもらい、黄色のやつを本格的に注文。今日は朝、facebookで紹介されたK田君の所に、TYZで行って譲り渡す相談。成立。エンジンがかからなくなったトモスはトモスマニアの佐T君が引き取ってくれることになったし、いよいよ僕の家にはカブが1台だけになって、あとはモーターサイクル関係スッパリ何もない状態になる。なんか不安な、でも気持ち良い軽さ。

今日は今から生協注文書をチェックしたあと、図書館から借りてきた笹沢左保木枯らし紋次郎の文庫本を読もう。

昔読んでいた小説。
しばらくぶりで読んでみて、
新たな衝撃。


作品はそちらにあるのではなく、常にこちらにある。


2013年 6月23日 涼しい空気の曇。夏?


昨晩、動かしたら、sai01@から始まるメールが動いていた。相変わらず忙しい毎日が続いていてややうんざりだが、とにかく連絡に関しては以前のメールが稼働しているので御利用を。 


お話の時には映像を使わないですませたい

その言葉でイメージする各自の映像はすべて違う。

映像を使うと映像はその一つになってしまう。

せっかくそんなにあったのに。


2013年 6月18日  
雨粒の見える雨。気温は高いが肌寒い。

sai01のメールアドレスは継続検討中。まだ動いていない。手続きは進んでいるからまもなく元通りになりそうだ。動いたとたん、メールがもの凄くたまっていて、今度はそっちで問題が起こりそうで怖い。

ここ数週間、というより6月に入って以来、毎日何やかにや動いている。
5月末頃、連日小さい人達の活動の打ち合わせが続いた。打ち合わせが続いたということは本番がある訳で、今、それ(本番)が始まった。5~6歳の人達と鑑賞の活動をしたり粘土を作る活動をするのは、毎回違う人間を見ることができて、大変面白いから、僕は心から好きだ。ただそういう状況は、自分が意識している範囲を超えて集中し動いてしまうようで、その人達が帰ったあと、僕はほんとに倒れそうな程疲れている。僕は今、木金土だけ出勤しているが、子供の活動(特に年少の)はそこに集まり三日間のうち、木金のほとんどがその状態。

その合間を縫って、だいぶ前に死んだ母方の叔父さんを巡って、僕は相続人になっているという連絡が来た。その叔父さんは大きい工場の会長を長くやっていた人だったから、え!濡れ手に粟でお金が来るのかと意気込んだが、よく読んでみたら、全くの逆で、彼にはもの凄い借金(1億4千万とか)があったから、貴方が返してという話しであった。まったくいやはや。家庭裁判所に出かけ話を聞き、弟達に電話をし、あたふたおろおろとそうこうしているうちに、その会社から連絡が来て、委任状を書いて相続権放棄して一件落着。勉強になって、面白かったと云えば面白かったが、何事もなかったからこう言えるわけで、世の中気を抜かず、ちゃんとしていないといけない。

僕はもう定年退職しているのに、全然変わりなく、美術と美術館教育を巡る相談や講演は後を絶たない。これも、ま、しょうがない。震災復興関連で、関西の人たちが子供のためのワークショップをしにきて、そのついでに僕の所に顔見せによる。兵庫県自然博物館の人達や愛知県子供センター等の人達。ワークショップの相談。様々な市民センターでの美術を巡るお話。何気に行ったらラララホールの大ホールで、観客は僕より歳を取った人達600人だったりして、ややあがり気味に、美術鑑賞とは何をすることなのか、などという話しをいかにもわかっているような顔をしてかたずける。気付くともの凄く疲れていて一晩寝ただけではスッキリ起きられない。

娘齋悠記のトウキョ―ワンダーサイト本郷での個展は今月一杯なので、来週始め、山形芸工大に呼ばれているついでに、そのまま山形から山形新幹線で行って見てこようと思っている。昨日仙台東脳神経外科でしばらくぶりに見てもらった首の血管のエコー写真では、だいぶ血管の中にゴミがたまり始めてはいたが、見てくれた先生からは、あとしばらく?は大丈夫だろうと云われた。ま、あとしばらく?は忙しい毎日を続けよう。


頭が良いということは、
学校の成績が良いということではない。

学校の成績が良い人より、
人間の性能の良い人になりたい。



2013年 6月 7日  厚い曇り。冷たく湿った動かない空気。

昨日、古くからの友人がしばらくぶりに突然訪ねてきて「ああ、生きていましたね」と言った。ううむ、すまぬ、私はしばらくブログの更新をしないで(できないで)いたのだ。せめて生き死にだけはハッキリさせておいてねと云われてしまった。

しばらく前、メール(電脳通信)に見慣れないアドレスから連絡がはいって「あなたのメールサービスを終了しました」と云ってきた。でもその時、電脳通信機能は全く普通通りに動いていたので、あまり気にせず何もしないでいた。そうしたら、数日前、ぱたりと動かなくなった。私ができる様々を色々やってみても動かない。なんか面倒だなあ、この次の休みの日に腰を入れてサポートセンターに電話しようと思っているうち、今日まで来てしまった。
五月の末からのこの時期、市民センターや何かで新たな講座が始まる。定年退職者の「前」教育普及部長(俺のことね)は何やかにやおよびがかかり、その合間を縫って病院に行ったり、庭の草が限度を超えて急に伸び始めたり(要するに夏になったということなのだが)、そういう時に限って様々な機械が動かなくなったり(歳とったので、キックでうまくモーターサイクルの始動ができなくなっただけだった)するから、腰を入れる時間がなかなかとれなかったのだ。そうこうするうちに、電脳通信が動かなくなった。

みんなすまぬ、sai01から始まるメールアドレスは現在動いていない。鋭意修復中。僕宛の電脳通信を急いでいる人は、美術館宛に手紙か、番号知ってる人は直接携帯に電話の方が早く確実です。

思えば20世紀の終わり頃、初めて買った初代MacBookシェル-オレンジ色で登録して以来使っているアドレスには結構沢山の人が登録されており、これ使えなくなると一騒動だなあと、まるで人ごとのように思っていた。俺の脳は本当に電脳的ではない。本来なら、良い機会だから、手紙と電話に戻るかとも思ったが、水洗便所と同じで、あそこまで戻るのは今となっては無理だ。すまぬ、みんなちょっと待っててね。






先々のことはたいてい予定通りにはいかない。

先をいかに読むか、より
事に当たるときの覚悟をこそ
心していたい。



2013年 5月 1日  厚い曇り。冷たく湿った動かない空気。

最近の天気はクルクルと人間の思惑と関係なく変わって、だいぶ前に映画で見た地球最後の日のようだ。夏かと思う日が突然来て、今日は典型的3月の空気。今朝の新聞に1歳の誕生日を迎える人達の投稿写真が載っていた。みんななんだかかわいい。しっかりやっていってくれよとつい見入ってしまう。彼等が僕等やったことの後始末をする。もう5月だ。

少し前に、古くからの友人S口R子さんから、しばらくぶりで突然、電話が来た。昔、一緒に相談に乗った県立子供病院が、もう開院10年目になるという。その時は、みんなでお話の有る待合室を作るのを手伝ったった。10周年記念に、その時作り残した看板を、新たに作れないかという相談。その最後の看板を作っている途中、僕は脳内出血でダウンしたらしい。話を聞くまで(聞いても)スッカリ失念していた。たった10年!で地球最後の日を連想する程、僕等の日常は変わってしまった。この前の更新は4月16日で、まだ半月しかたっていないのに、なんだかずいぶんブログを開いてなかったように感じる。一応まずここまでやったことを書いておこう。

普段使っているルノーカングーはこの5月下旬で車検が切れる。しばらく前からブレーキをかけるたび不穏な音がし始めていた。でも、この音は、モーターサイクルに乗って以来何回も聞いたことのある音で、この程度なら車検までは大丈夫だろうと高(たか)をくくっていた。その最中の4月中旬、今年最後のペレット200㌔を築館まで買いに行ったとき、一緒に行ってくれた若いM君に「齋さんこれ壊れてますよ」と指摘された。愕然。冷静に見れ(聞け)ば、全くそのとおりで、すぐに(このすぐにというあたりが退職者の良い所だ)ルノー仙台に持って行った。するとブレーキシューは全く無くなっていて、その不穏な音はシューホルダーがパッドを削り始めている音だったことが判明。そうではないかと思っていたのに、知らんぷりしていたんだよなあ。前ブレーキ全取り替え、5万円!。
今年度になって、軽く追突はするは、一時停止違反で捕まるは、その上このざまだ。運転を巡っては、60歳を過ぎたのだという事実を、きちんと自覚しなくてはいけない。自覚反省覚悟。

そあとの庭でのお話会は2月いっぱいで終了。その延長?で4月から第2/第3火曜日、そあとの庭で、美術/美術館何でも相談をすることになった。11時から16時までそあとにいて相談に乗る。最初は、そあとの人達がする児童館での活動実践の相談。
美術館での公開活動は、今年度から第2土曜11時から美術館探検、第3土曜
13時から美術探検。その両方を僕がすることになった。なんか良く解らない。担当が変わったのだからそのまますれば良かったのに。

長い間国外にいて、今はイタリアに住んでいる日本人のデザイナーが、震災を巡って一時帰国していて、最近は連日美術館に仕事をしにきていた。彼女が「間もなく帰国するのだが、せっかくだから近くの里山を散策したい」と云う、願ってもない相談を持ってきた。青葉の森、グリーンピアを1日ずつゆっくり散策。小さい白い春の花の畑を見、カモシカと会う。グリーンピにカモシカがいるのにはそうとう驚いた。彼/彼女?は何処で寝てんだろう。

4月も半ばを過ぎてきたので、保育所や幼稚園の人達が今年もそろそろやって来始めた。楽しいが最近普段の日はぼやっと好きなことをしているので、集中しすぎて凄く疲れる。面白いのは間違いないのだが。

26日まで、仙台フォーラムで「よみがえりのレシピ」という山形の人達の作った地元の在来野菜を巡るドキュメンタリー映画を見た。映画云々よりも、あそこ(フォーラムね)があんな風な(ミニ)シネマコンプレックスみたいになっているのにまずビックリ。何しろ、山形のには何回か行ったことがあるのだが、お茶を飲むのではない仙台フォーラムに入るのは初めてだったのだ。
在来作物を巡っては、ここまでみんなが何も考えずに経済優先の生活をしてしまっている今となっては、僕は特に話すことはない。なるべくしてなって、ここまで来ないとそうしなかったのはやっぱり恥ずかしいことで、僕は、少し違う意味で覚悟をすべきなのだと考えている。


4月の末に向けて、ジョルジュ-ルースというフランスの美術家が、松島のカフェロワンで制作をおこなった。作品の詳しい説明はここではしないが、27日夕方塩竈エスプでシンポジウム、28日午後現場で僕のお話会。
そもそも遠近法という技術自体が、人によって発明された技術な訳で、私達個人が遠近法のように見えている訳ではない。という楽しさを、その発明した人達の末裔(ルースね)が、そもそも奈良京都の盆地と谷間が遠近のはじまりだった(掛け軸と絵巻物の)僕達の国で、真面目にやって見せてくれるのが、本当のビックリな所なのだ。こういう話の、何処から話したら良いのかさえうまく伝えられる前に、アッチコッチの混乱に陥って僕の話は終り。
何しろ回りの風景が凄い(天気良かったし)ので、それ見ているだけで時間は過ぎる。当日お祭りや何やかにやで道路は大渋滞。行きは電車。帰りは遊覧船で松島から塩竈まで戻る。塩竈に船が着いたら、ちょうど御神輿が駅前に来た所で、偶然とはいえありがたい?ことで、帽子を取って観た。竹駒神社の初午とは全く違う、老若男女の祭り参加者(氏子)の心の込め方に深く感動。

さて5月にはいると、様々な市民センターで老荘大学のような催しが始まる。既に3件お話を頼まれた。僕で良いのかなあと思いつつ、元気に出かけよう。たぶん僕が一番若い。
5月13日~22日ギャラリー蒼(仙台市青葉区)、6月8日~30日トーキョーワンダーサイト本郷(東京都)で、(僕ではなく)娘の齋悠記がグループ展に出品する。しばらくぶりに(特に東京のは)彼女の大きい作品が見られるのは、一美術フアンとして嬉しい。


水面から見える風景。

橋の上から見える風景。


2013年 4月16日 春霞の空、高し。無風の生暖かい空気。

気にはしているのだが、思えば更新しないまま1ヶ月が過ぎようとしている。
相変わらず、毎日何やかにやドタバタと過ぎて行っている。ブツブツ言いながら、再雇用も2年目にはいってしまった。美術館に出勤するたび、本当に僕は公務員には向いていないの想い深し。4月になったので少し人事異動が有り、一人いなくなって二人新しい人が来た。

年度が替わったので、お話(仕事)の依頼が少し来た。毎週、第2と第3火曜日「そあとの庭」で「美術何でも相談」をすることになった。今日も今から行く。第1回目には、児童館でのワークショップを巡る具体的な相談が来た。ううむ、美術館に来れば良いのに。月の初めにやっていた夜のDVD(S.Mさんによる僕へのインタビュー記録)を見る会は、5月から「右岸の羊座」から大橋たもとの「ターンアラウンド」に変わる。このDVDは映画ではなく美術を巡る作品だということになったらしい。X-Boxでの昼の分はあと数回、そのまま。4月は21日日曜午後2時から、X-Box第3Boxで。あと2回分残っている。4月28日、松島に来て作品を作っているJ.ルースというフランスの美術家の作品の見方のお話を、松島西行戻りの松前のカフェロワンで。作品解説ではなく、現代美術とは何でどう見るのかというあたりを、主に松島商工会の人達等を対象に、というリクエスト。一般の人も参加可らしい。J.ルースは世界的に知られた美術家で、関西大震災時来て、今度は東北に。5月になると仙台市の様々な市民センターで老荘大学が始まる。何回か呼ばれて、美術を巡るお話。地元の街を解説するボランティアの人達に、その街にある変なもの(ほぼすべてが美術の作品のようなのだが)をどう説明すれば良いかの相談に乗るのが一番面白そう。その間をぬって、幼稚園や保育所の美術館探検の予約が既に重なるように入っている。なんで僕が辞めると来るのかなあ、という感じ。辞めてないときも来ていたのだろうが、辞めたので気になるのかな。

ペレットストーブは快調で、だいぶ暖かくなってきた最近も毎日焚いている。目に見える火がそばに有るのは嬉しい。梅雨頃までは炊き続けられるように、この前栗原市志波姫町まで、自分でペレットを10袋買いに行ってみた。それはつつがなく済んだのだが、車のブレーキの感じがなんだか変だったので、日曜に仙台ルノーに見てもらった。結果、前のディスクブレーキ総取り替え。いやはや。モーターサイクルに乗って以来、同様の故障は何回も経験していたのに、ここにきて失敗。3月末あたりから、軽く追突はするは、一時停止違反でパトカーに捕まるは、自分の移動手段を巡って、しばらく忘れていた事柄が、次々起こってきた。自覚し心せねばと思う。この前も、デ-スティルにコーフィー豆を買いに行った時、自転車を降りたら何の前触れもなく足下がよろけ、数歩後にふらついた。こういうのも含め、明らかに身体は60歳のおじいさんになって来ているのだなあと思い知らされる。60歳は未だ年寄ではないのだろうけれど、しかし、生き物としての僕はきちんと歳を取ってきているのだという自覚を持ちたい。


既に表現されているものは、
表現した人の世界観。

問われるのは、常に、
それを見る人の世界観。

作品を見ることは、
自分を見ることだ。



2013年 3月23日 雲の多い快晴。微風強し。

土曜日は本来出勤の日だ。今日は土曜日なのだが、有給休暇をとった。

先週金曜、山形から僕の好きなH保育園の年長連中がバスで来て、元気一杯、一日、美術館探検と粘土作りのワークショップをしていった。今週木曜、古川のT保育園の今年卒園の人達が来て、美術館探検と粘土作りのワークショップをし、お土産の粘土をウンウンひきずりながら帰った。翌金曜、仙台の昔から知っているK保育園の年長の人達と、充分に時間をかけたフルコースの美術館探検(だけ)のワークショップ。
性能の良い人間の幼体達(ずうっと笑いながら、うるさくて、走って、泣いて、喧嘩できるということだ)と、本当のワークショップをすると、やや老人の僕はもの凄く集中し、それを悟られないように動くテンションの高い活動をしてしまうので、心理的には数歳若返るが物理的にはもの凄く疲れる。彼らが帰ると、知らないうちに居眠り(気絶とも言う)をしてしまっている。

で、今日は特に予約がなかったし、夕方4時からNPOの理事会があったのと、庭の手入れをお願いしているH浦さんから、新たなシンボルツリー(家を新築した時に植えた白樺は、虫にやられて枯れてしまった)を、山の植木屋に見に行かないかというお誘いがあったので、良い機会だと休みを取った。

朝遅く起き、来年度からすることになったMK大の美術理論の非常勤講師の書類を書きハンコを押してポストに入れに行ったり、ペレットストーブの手入れを少し丁寧にしつつ、携帯でメールを何件か書いていたりしたら、アッという間に待ち合わせの時間になってしまい、カングーで松森まで出かけ、彼女と落ち合って二軒程植木屋を回る。最初シャラが良いのではないかという話だったのだが、実物を見て植木屋の人と相談し、桂の木にすることにした。

その後、昨年から頼まれて参加している美術系NPO理事会に出席。昨年度の会計や活動の報告は僕にはほとんど発言する部分はない。その後今年度の活動をどうするかをみんなで話し合うのだが、ほとんどの活動がメディアの露出度を基に作られ話されているようで何ともいずい。メディアは誰かが作っているから、その作っている人(本当ならジャーナリスト)の概念を超えることは、あまりない。だから、本当のジャーナリストは絶えなる点検と勉強がいるのだけれど、最近の日本のそれは、僕にはどうもがっかりすることが多い。そういう人達が取り上げてくれるような活動(しかも、それをワークショップという名称でやろうというのだ)を何の疑問も持たずに最初から考える活動は、そこに参加する人達にとってどういう生活をもたらすのか心配になる。僕は老人性鬱に陥り始めているのだろうか。

ワークショップを計画する人に、その始めのメモのあたりから相談に乗って、それの目的と参加する人と、本来有るべきワークショップの形と動きを見失なわないようにしつつ、オリジナルな活動の形を考えて行こうね、という話しをしたつもりだったが、それまでの彼等が話した活動の内容で、既に老人性興奮が始まっていて、僕の発言はきつくおっかない口調になってしまった。やや反省。ええい、でもこういうところがトッショリの良いところなんだいと、開き直る。

個人の表現と学校で鍛えられた美術。教える教育と相談に乗る教育。教育の主体がどちらに有るかの自覚。内にある世界観と既にそこにある世界。いやはや相談に乗るのは大変だ。


Can I で始まるか、
Could You で始まるか?

今日は月曜日。 か、
It is Monday,today. か。

私が何処にいるかを自覚した毎日を送りたい。


2013年 3月 6日 
空高い快晴。微風。

今、確定申告(というより医療費控除)を終えてきたところ。僕は未だに公務員から足を洗えないでいるので、面倒な計算を伴う大部分は事務の石Zさんがやってくれている。ありがたい。医療関係の領収書を計算して市役所の申告相談に持って行くだけ。でもなんだか緊張するのはなんでなのかなあ。今日はいい天気で、向かい風の自転車でも気分よかったからいいけど。
2月末から3月初めにかけての日記メモ。

9月から始めたそあとの庭でのお話会は、2月22日の金曜日が最終。そんなに話のネタは無いのによく続いたものだ。このブログにもよく書くが、毎日の生活の中で様々起こることにどのように反応するかというのが僕にとっては面白いこと(美術)なので、話のネタは無くても反応は限りなく次々起こっている。そういうのから話が始まる。最終的に8~9名の人達のために話は続いたということになる。僕には大変ためになった。
22日金曜日までの話は話だけで「非実践」だったから、24日日曜日に最後の「実践」をした。大雪。俺、日頃のおこない悪いからなあ。宮城県美術館の忠良館集合。常設展だけ2時間かけてみる。お話会には来ていなくてこの会だけ来た人3名を含めて7名。これでだいたい美術館的活動は終了。なんとなく朝寝坊できる休みの日々が始まって3月。

3月最初の日曜日、若い友人の庭師に来てもらって、冬枯れの間に庭木と草の手入れをしてもらう。第2回目。今年こそ、草と木々の間をぬって庭園鉄道(模型)を走らせたい。そのための基礎工事。火曜日に模型のレールを仕入れてもらっているO島君に来てもらって現地を見て相談。だいたいやり方が見えてきた。庭はすっきりして、軽い走行テストもできるようになった。
第1火曜日夜7時から愛宕橋たもと「右岸の羊座」で、例のDVD上映会(テンボックスで昼にやっているやつ)夜の部。夕方家をでて電車に乗り、長町で降りて駅前でうどんを食べ、地下鉄に乗り換えて行く。満員(といっても20名弱)。今回は2006年のやつ。何回見ても面白い。見ている人は変なところ(僕が困っていると見えるらしい)で笑うが、本人は見るたびに覚悟を確かめる。そうだ僕は一人で遊んで一人で死ぬんだ(った)。胞夫さんがまだ生きているときで、歳とった人と一緒に暮らすことでわかる様々なことを思い返す。胞夫さんが「お前は英語で考えてるな」と云ったということを話している自分を見て、やや(様々に)反省。最近、英語で考えているか?

又、3月11日が来て、3月14日(脳爆発日)が来る。




今となっては何気ない風景。

それでも、人間はここまでしてしまったと思うべきではないか

復元不可能な風景。


2013年 2月22日 
快晴。昨晩は布団の上がけを1枚減らした。

毎日午前中何かしているおり、ふと想う所があって、おお、これを次のブログに書こうと思う。でも、すぐに忘れてしまうのだ。忘れてしまう物やことはあんまりたいしたことではないと思うことにしているから書かない。今朝も通勤の途中で何かうまいこと考えたのだが、今、いざ書こうとしたら、何か想い付いたということはおぼえているのに、何だったか思い出せない。

最近、下の娘は2番目の子供がつかまり立ちし始め、だんだん人間化してきているのに会わせ、親が自分に何をしてくれていたかの自覚が深まってきている、という手紙をくれた。その中で、お父さんは私と同じ30歳頃何をどのように思って親をしていたのと聞いて来た。そうしたらその手紙が来た次の日、市内の真面目なシュタイナー保育所の母親会の人達と活動をしたあとの座談会で、同じような質問を受けた。今61歳の僕は、30歳前後の頃(ちょうど下の娘が生まれた頃だ)何を考えて親をやっていたんだろう。ちゃんと考えると長くなりそうだったので、思い付く所をメモして返事した。

1学校的な教育関係者(いわゆる先生)の子供は、あんまり善い子供がいない気がするから、注意しよう。僕も先生なのだと思っていた。

2この人達は、僕とは違う人だということを忘れないようにしよう。

3子供は、僕が言ったとおりでなく、僕がやったとおりにするから、自覚し覚悟した行動をしよう。

4性能の良い人間の幼体の行動は「死ぬかも知んない」ぐらいが普通だから、自覚し覚悟しておこう。

5何かを命令的にさせなければいけなくなった時は、物差し百回(確実と思ってもしつこく計り直す)してから。

6日本は辞められるが日本人は辞められないから、何処に行っても日本人として話ができる人になるための相談。

7教える=相談に乗ること。

 こういう風に書いていくと切りないなあ。そうか、俺は結構(他の誰でもない)貴女(娘)達!に怒られないように!気使ってたんだね。ううむ、正しい親のあり方だな。

というような所がその時の答。全体としてその時点で「僕が格好良いと思ったこと」をしようと思っていたあたりがまとめじゃないだろうか。できるだけみんなと同じでなく、できるだけその問題の基本に戻って「格好良い」ことを。でその他のことはまだ勉強中だったのだと思う。何でもわかっているとは思っていなかったな。回りに凄い(大人の)人達が沢山いたからな。これは大分勉強しないといけない(大人になるために)と思っていた。でも、だから、僕はできるだけ若僧でいなくては!とも、強く考えていた、と思う。

ある時ふと気付くと、僕はもう(多分)若僧ではなくなっていた。でも、若僧の動き方しか練習していなかったので、身体が歳とって思うように動けなくなった今、ちょっと動揺してる時期なのではないかしら。





頭の中にある世界
=言葉でできた世界観

世界観を見えるものにする力
=芸術

言葉を見えるものにする力

芸術と言語=識字の力


2013年 1月25日 
無風曇り。冷たく乾いた空気。

だいぶ日にちがたってしまったが、正月に下の娘一家がしばらく居た。去年新しくこの世に来た小さい男の子は慎重なやつで、僕に興味は有るがなつかない。でもまだ凄く赤ん坊なので、お母さん(僕の娘ね)が手を離せない仕事(コンビニエンスストアから今住んでいる家に荷物を送り返す手続きをするとか)の時は、僕が抱いていなければいけない。こういう時、彼は必死で泣く。店のおばさんが、「おじいさんかわいそうね」と言ってくれるくらい、僕に抱かれるのが本当にいやそうに必死で泣く。僕はその時店の外で待っていたので、手続きが済んで出て来た娘から店の人がそう言っていたという話を聞いた。でも、この時僕が思っていたのは、その店人とちょっと違う感覚で「すまぬなあ」だった。おじいさん(僕のことね)はこの状況がどういう事で、この後どういう風に動き、結局どう終わるかを知っている。泣いているこの人は純粋に(多分)恐怖で泣いている。怖いだろうなあ。「早くお母さん来てくれよ」だろうなあ。大丈夫だ。僕は君に危害を加えない。一緒にここで泣いているの付き合おう。こんな感じだった。ま、とにかくこういうのは時間が解決するのを待つしかない。こういう時に必死で泣くのは、小さい人間としては性能良いわけだから、僕としては彼をほめてあげたい。お互い大変だが。

もう2月になろうとしているので、今年に入って以来の出来事をメモしておきたい。上に述べたように、お正月に、子供達が帰って来た。義理の息子と少し話した。ずうっと違う生活体験をしてきた人と話を会わせるのはそんなに簡単ではない。しかも両方とも美術を巡る人だ。機会ある毎に、誠実で丁寧で注意深い、嘘つかない話を続けて行こう。と思える話をした。娘は善い母親になっていた。孫達も人間としての性能は良さそうだった。本当に文化が伝わるのはゆっくりだ。そのうち僕が死んでしまって完了するのだろうが、それが見られないのは(残念ではなく)少し変な感じ。

1日から3日まで毎年僕はテレビの人になる。駅伝を見てライスボール(アメリカンフットボール全日本選手権)を見る。年始、竹駒神社はもの凄く混むので、それを良い事にお参りにも行かずずうっとテレビ鑑賞。どちら/誰のファンとかではなく、長距離走とアメリカンフットボールそのものが好き。その後年寄の方の孫と静かに遊ぶ。グリーンピア1周とか。彼は今年からビーバースカウトに入ったとの事。今後できるだけ早く、こういう時のリーダーシップをとってもらいたい。
7日、松が開けると終了する、村田町歴史みらい館の猫神様の絵馬(絵猫?)の展示を見に若い友人と行く。何しろ僕の自動車生活はシトロエン2CVから始まったので、若いやつが乗っていると、いざという時車押してもらえるので心強い、と考えてしまう自分がおかしい。展示はもの凄く面白かった。みんな見に行けば良いのに、誰もいなかった。この展示は、考古民族学系の人がやっているので、そっち方向で整理/展示されている。でも美術/美術教育から見ても、様々面白い発見が(僕ですら)有った。美術教育/発達の専門家に見せたいと思った。こういうのみんな見に行くと良いのに。終わっちゃったけど。
13日午後から、卸町X-Boxで「齋のインタビューDVDを見る会」があった。ムーダの会主催。一人の参加者として見に行く。仙石線苦竹駅下車徒歩。こういう風に、齋を使ってみんなで集まる会が最近様々な(良く解らない)会主催でおこなわれるのが面白い。脳内出血復帰4年目?の僕の考え方を問いかけるDVD。個人的に襟をただしながら大変面白く見た/聞いた。あたりまえだが、基本的な部分は何も変わっていなくて嬉しい。次は2月3日日曜、5年目の記録。
次の日(大雪の日)前から約束していた、白石インター脇の昔からの友人の新居に、みんなして行く。東北道白石インター西側に深谷小学校が有る。その隣に白石に住む石彫家のN子さんが800坪?!だかの土地を買ったのは数年前だった。始めもの凄い薮だったのを自前で整理して、今度新しく家を建てたから見に来ませんかと連絡があった。石彫家としてもお母さんとしても、自立している女の見本のような彼女は、大学の少し後輩で、いつもパンを焼いてもらっている渡Bさんの後輩でもあるから、その他ウチのカミさんやらお手伝いのK子さんやらとみんなで(お、俺以外全員女子だ)行った。「雪ひどかったら大人の判断ですぐ帰ろうね」と言いつつ、這々の態で辿り着く。家までの最後の部分の農道は轍無し。緊張。梅林の中に建つ高床式銀色のピラミッド。家の大黒柱の側に薪ストーブ一個でほんのりあったか。回り雪で真っ白。居心地最高でつい長居。季節が良くなったらいろんな人と何回も行きそうな予感。迷惑な客にならないようにしよう、っていうのは無理か。
22日、塩竈のビルドフルーガスで打ち合わせ。朝から仙石線で塩竈に行き、話し合いを聞いて、僕の手伝えそうな部分に口出しをして、マグロ丼を食い、塩竃神社を一回りして帰宅。ジョルジュというフランス人が松島の西行戻りの松にあるロワンというカフェでやるワークショップを手伝う。今年のゴールデンウイークあたり。もう少しいろいろな事がはっきりして来たら、ここにお知らせを書こう。帰り塩竃神社博物館で、日本刀の金物(鍔とか柄とか)を集めた展示を見る。あの博物館は行ってみたら宮城県日本刀保存会事務局をやっていて、その展示はただならぬものだった。静かに感動。江戸時代、誰かが静かに細い金線を刻んでいたのだなあ。

これらの活動を挟んで、DVDのゲオが家から歩いて行ける所に在ることが判明。というより在る事はずっと前から知っていたのになぜか失念していて、そうかあそこで借りれば街はずれのツタヤまで自転車で行かなくていいのだと気付いただけ。何枚かのDVDを見たり、病院に行ったり、N須君の心もとない、しかし重い展示をSARPで見たり、明美さんの自立支援手帳を更新したり、その他コマゴマした日常をこなした。火のつきがいまいち悪いが、ペレットストーブは連日快調に動いている。

口だけだとしても、
言うだけは言っておこう。

言葉にすることによって起こる
世界の固定と拡大。




2013年 1月10日 明るく高い曇。カキカキした空気。

美術館はまだ年始休館(1/12から)だ。で、僕は休みをとって家にいる。毎日なにやかにややっていて、そのたびに考えることが次々起こる。思いついた時は結構大切なことだと思うのだが、すぐ忘れる。これまでの経験では、忘れることやものはそんなに大切なことやものではないことが多いから気にしないでいても大丈夫だ、と思う事にしている。

とは言え、さて、衆院選挙が終わってこのような状態なので、様々深く想うことが多い。最も近最近起こった状況は、ツイッターで田母神さん(例の自衛隊/むしろ軍隊?の人)が放射能避難している福島県民が県の支援打ち切り反対署名を出したことに「甘えるな」と言っている件について、うちの娘がどう考えたら良いのだろうと書いているのを読んだ時に感じたことだ。(もちろん今、あなたが読んでいるこのブログの文章は僕が書いているので、僕の要約が入っているから、正しく考えたい人は各自がツイッターにある元の文を確認してもらいたい。)

僕の娘も、原発爆発が起こった直後、自分の子供(僕の孫)を連れて、山形経由で沖縄に避難した経験を持つ。彼女が「これから避難する」というメールをくれた時、僕はちょうど電車に乗っていて、「そうか行くんだ」とシミジミ不思議な(初めての)感じがして、「了解。前だけを見て行け」と返信した。それを送信したあと「この人達とはもう会えないのかもしれないのだなあ」と、なんだか物凄い喪失感が襲ってきて、僕は静かにしばらく涙を流した。
田母神さんの短い文を読んだとき僕が最初に感じたのは、あの時の気持ちだった。僕は今回の原発を巡る問題には(20世紀に楽しく!積極的に豊かな!生活をしてきた)僕も深く関わっていると思っていて、一概に反対反対と言い切れない気持ちを持っている。僕は原発についてそんなに深く勉強をしたわけではない。原発が始まった当時、新聞に載った情報程度以上ではない。でもそれだけの情報からだけでも、直感的に「それって、要するに原爆をコントロールして少しずつ使えるようにしたってことなのね」と思っていた。僕らが物心ついた時代では「原爆を使ってしまったら世界は滅びる(だから抑止力ね)」ことになっていたのだが、そういうものを人間はコントロールできるようになったのだと、幸せに思っていて、ここまで来た。そういうことを日常生活では感じられない程あたりまえになった状態の上に日常が続いてここまで来た。もちろん不平等に誰かが儲かったりしてはいたのだろうが、多分僕も世界の誰かに対しては不平等に近代的な生活をすることができたのだろう、とも思う。
一方僕はそういう生活をしていた/これたので、子供達(僕の遺伝子継承者)がこういう状態になった時にできることは、物理的にできることを可能な限り(たとえ僕が死んでしまうような状況になったとしても)提出することだけだと思って、覚悟している。少し視点を広げれば、甘いと言った田母神さんも(軍人だから)多分命をかけて放射能を止める作業をし、県だって、ほぼ同時に全部やんなきゃいけない物凄くたくさんの仕事を、なんとか整理し優先順を決め、一部のみんなからは文句言われるのを我慢しつつ、皆のために一生懸命しているに違いない。こうしてきた僕が、こうなった子供達のために、死んでもしょうがないと覚悟を決めるのと同じように。
美術教育の失敗は広く深くこういう時に効いてくるのだなあという想いが、シミジミ深い。

たとえ話は間違ったイメージを伝えてしまうことも多いという危険を自覚した上で、これは戦争なのだろうと(田母神さんが出てきたので)思う。田母神さん、威張っていいから、きちんとしてね。