一日一回宇宙を見ること。

=空を見ること。


2015年 6月22日 
光る雲が多い青空の夏至の日。乾いた涼しい風。

週3日美術館に出勤する。僕は今岩沼に住んでその三日だけ仙台に出るようにしている。定期購読している雑誌も、岩沼の昔からある本屋にとってもらうようにした。そうしたら「歳とるとあまり動かなくなるから、こういうのは仙台の本屋にとりに行くようにした方が良いんですよ」とその古い本屋の古いおばさんに言われてしまった。ううむ、思う所、考える所、深く沢山あり。着々と戦争の準備が進んでいるのをこういう所にも感じるのは、考え過ぎだと思いたい。

仙台に出た時は、できるだけ歩いて駅から美術館まで移動する。一応駅前の駐輪場の定期を買って軽快な自転車を一台おいてある。帰りに展覧会に寄ったり行きつけの自転車や(二輪工房佐藤/北仙台)に寄る用事のある時は自転車で動く。それ以外は極力歩く。歩くと考える。広範囲に考える。目につくもの、目につくことについて途切れなく考える。
たいていまわりを高校生が歩いている。彼等の着ている物、履いている物、背負っている物、背負い方、話していること、その言葉の使い方、声の大きさ、表情。その上で、彼等の歩いている町/街/状況。人以外に動いている物(達)。想いを寄せるものやことは連続あしてあり、だからずうっと考えながら次々見えるモノが変わっていく。めまいがして来る。そして空。
疲れて家に帰ると、考えていたことほとんどすべてが、しかしどうでもいいことのように思えてしまう。その繰り返しで1ヶ月過ぎた。

選挙権が18歳に引き下げられた。この人達。まわりを、丁寧に注意深く良く見ないで、街を歩く人達。ということは、まわりをザッと、思い込みだけで、ネガティブな主観で見て、自分の所だけを歩く人達。僕には何故だかワカラナイレベルで、すぐ疲れて、ほとんどのことにつまんないと、小学生の頃からいう人達。この人達の投票で選ばれた人が増える。
ものを見る/見えるということは、各自が、各自の主観だけで、世界(自分のまわりの社会)を、各自が見ているだけだ、ということをせめて自覚することを、最も置き忘れた教育を(たぶん無意識に、意識的に)されて/してきた人達。ふと気付けばそういう事に日本はなっていたのではないか。僕は極力ポジティブに世界を見ようとしているが、それにはなぜか努力が必要になってきている。老人性鬱かな。

最近抽象の彫刻(表現)を作りたくなって来ている。