楽天的だというのは
解った上で、しかし
マナーがあれば、
ルールはいらないという生活。

ルールばっかりに、
なってはいないか。

2015年 9月26日 
冷えた湿った空気。明るい曇。

最近反応が遅い。思えばもうすぐ9月が終わる。又1ヶ月以上ブログの更新をしていない。毎日想う事は様々あるのだが、起こる事の一つ一つの根が深く、その事について考え始めると、その根の深さに愕然としてしまって、しばらく腕組みをして時間が経ってしまい、文にならないままここまで来てしまった感じ。季節は長袖になってしまったというのに。

今日までの日録。8月16日から丸森の大蔵山で第4回ワークキャンプが始まった。このひとつきの美術館勤務でない日はこの活動を中心に動いた。何回も作業を見に行ったが、知ってのとおり今年のこの時期、ほとんど雨(ある時は大雨避難警報)だったので、赤土の上を重機が動く巨大石造物制作現場は、物凄い事になっていて、僕は呆然と離れてみていただけだが。
とは言えその合間をぬって、SOUP(障害者美術支援活動)やそあと(地元美術家支援活動)の活動が入り、主に日曜日は何やかにや活動があって、石巻や宮城インター近くの郷六の林の中に出かけた。
この時期に重なって、地元の女子大学の後期から始まる授業(初等図工科教育法)の手続きが始まり、書類提出のお知らせが来る。ただ、最近では書類の詳細を読んで、それに従って書類を作成し、提出するのは、全部電脳経由になっている。みんなにはより簡便なのだろうが、僕には凄いストレスになる事が多い。結局教務の人に電話したりしながら、何やかにや組み立て、結局学生には自分でコピーした紙のを持って行くことになったりする。
もちろん、美術館は芸術の秋だから、手の抜けない?(まだ現役だった頃に来ていた幼稚園の人達が、齋さんとやりたいと言ってきて美術館探検を粘土作りまで=美術館探検フルコースというだけだが)日が、何日か続く。
そういう毎日の中だからなかなか日にちのやりくりがつかず、疲れを無視して空いた休日を使って、山形に木工家(僕の家の基本的な家具を作ってくれた酒田のK原君)の個展を見に行く。普通の日に山形に行くと、目的が終わったあと、つい街を巡り歩いてアッチコッチの横丁に入ってしまう。今回は山形東高出身(という事は旧市内はテリトリーという事だ)の若い友人が一緒に居てくれたので、いっそう面白そうな雑貨屋を見たり美味い御飯屋で昼飯を食ったりすることができた。そうこうするうちに時間が来て山形新幹線(僕は昔から、車体そのもの沿線の景色や佇まいなど全てが何だか好きなのだ)で福島に出て、様々な方法で岩沼に帰るということになる。普通は阿武隈急行を使うのだが、今回は東北本線で福島から仙台行きの普通列車。福島からは普通白石で乗り換えになるのだが、一日何本か仙台直通というのがあって、新幹線から降りたらちょうど時間ピッタリだった。
20日からのいわゆるシルバーウイークには、何人かの友人がかわりがわり赤ん坊連れで泊まりに来たりして、毎日活気溢れる日々だった。普段は静かな家の中に、何かおばけが見えるんじゃないかと思えるような8ヶ月の赤ちゃんの泣き声が響き渡る。

そうしてこの9月最後の木金土の出勤日が、余っていた夏休みに当てられて休みになった。で、木曜はこれまでずうっと留守番だった明美さんを連れて村田の歴史未来館に「オオカミ現る」展を見に行き、猫神から始まって、オオカミ(大神)に至る自然と僕たちとの関係に深い想いを考え、村田から東北道に乗り国見で降りて115号線で東に走り、相馬から常磐道に乗って遠回りをして岩沼に帰ってきて、昨日は多賀城の歴史博物館に電車で行って、人間国宝展を見、芸術と工芸の違いに心から震え、今日やっと一日何もしなくていい日という訳でこれを書いている。


という毎日の中に、物凄い雨が降って、堤防が各地で決壊し、デザインはこれで良いのかという問題が起こり、信じられない方法と方向であっという間にある方向を向いて決着し、それらは、実はこれを皆に深く考えさせないためだったのかというような、酷い政治の動きがあり、僕の回りの社会も動いて行った。多数決や、専門家や、公共という概念自体が、いかに誰かによって作られているかという事が、しみじみ思われた。自立した市民になる/市民でいる事/ための普段からの動き。これらを気にせず生きるとき、自己ができる事、そこにいる事の難しさ。今そこにある事を、考える毎日だった。