自分を自由にしておく。

ということは、
自分は孤立していることを
自覚することだ。


2016年11月28日 
乾いた北風少し。
でも気持ち良い快晴。

今、月曜日の午後が始まったところ。これを書き始めて気付いたのだが、この時間にブログをめぐる何かちょっとした文章を書こうと思う余裕が出てきたのは、しばらくぶりだ。いやはや。部屋の仕事机に戻って、スケジュール手帳を持ってこよう。何しろこの前更新したのは、9月の初めだったはず。

普段はなんてことない毎日なのに、僕たちの国では、この時期突然毎日に文化が動き始ま/める。今ひっくり返してみると、スケジュール帳のマス目が真っ赤に埋まっている。美術館に出勤している木金土曜日は、ある意味決まった仕事なので、赤で書く(忘れないように)こともないから、むしろそこだけ空いているように見えるけれど、もちろん僕の生活は美術館教育好きが基本なので、館の創作室にいるとつい面白がって、いろいろしてしまう。そうして本来休みのその他の日に、頼まれ仕事を入れてしまう。そういう毎日の空いている日は、思えばすごく貴重なはずなのだが、そういう日は病院に行ったり(僕とカミさん二人分)、大学の非常勤講師をしたり、冬に備えてペレットを買いに行ったりする、必然でしなければいけないことを、していた。最近はっきりしてきたのだが、僕は、どうもテレヴィを見る依存症らしい。早く寝ればいいのに、なんだか緊張する活動をした日に限って、夜、テレヴィをついダラダラと流し見している。すごく意識的に今日は8時に風呂に入ってすぐ寝るぞと心に決めていてもそうなる。こういうことはもう少し若い頃はあまりなかった。心に決めたらそうすることができた。最近は、心に決めているのに、そしてアッ、もう心に決めた時間だと気付いても、テレヴィの前から動けない。大したことやものを見ているのではないと思っていても、今見ているこれはどういう風になるのかを見きってしまう。動けないのは依存症だ。というプレッシャーをかけているだけかもしれないが。

そういう合間を縫って、熊本の県立美術館に行って、美術探検と美術館探検の公開研修。ううむ、まず確認しておきたいが、九州は、僕の基本的な自分の文化の自覚とは何か違うものが基本になっているように思える。このことは8月の終わりころ行った福岡県久留米市の石橋美術館での活動でも感じていたが、熊本は、また一層深く、そうなのだった。あの辺が、そもそもの日本文化なのだなあと、毎回思う。良いとか悪いとかではなく、そこに僕が教科書で/だけで学んだ日本の歴史が普通にあるというような意味で。だから、僕は、古い日本画の屏風絵を見て、「これ変だよねえ、バック書いてないじゃん」とか言ってしまえるのだが、かの地の人たちは、全くわからないか、一瞬おいてああそうかとなる人とがいる、というような。西洋文化との関わり合い方をするときの、日本文化の基礎的な量と深さが、少し違う。後から勉強で付け足す前の各自の文化の基礎の深さと広さと多様性。いやはや、お話しするの大変です。そもそも美術教育って個人の世界観にどれだけ影響を与えるかを自覚する仕事なので、本当はこのあたりはあんまり関係ないように思っていたのだけれど、熊本あたりまで行くと、ちょっと、僕の方がビビるのかもしれないなあ。

そしてそういう毎日の合間を縫って、市内の児童館で出張活動2箇所。僕を招ぶ館なので、そもそも毎日生き生きとした活動をしている館なのだけれど、外から時々行った方としては、大変そうだった。公けとして子供達の教育をうたってしまうと、今の日本では、人間の幼体としての子供としてはどうしても性能悪くしかできないようになってしまっているようにしか思えなかった。僕が普通にすると、様々な方向から圧力が現れる。いやはや。でも、両方とも、子供達はみんな終わるのを忘れて、真剣に活動した。まあ、いいや。

そあとの庭でも、何回か子供の活動。SOUP(ハンディキャップの人たちとの美術活動サポート)の活動で築館の風の沢へ何回か。こういうことをしていると、仙台での個展を中心に展覧会を見に行くのがどんどん疎かになっていく。でも、毎日は活気にあふれて面白く過ぎて行ってはいる(と思う)。





I









自分の知っていることだけが
見える。

1歳半の人が見ている景色。

その人が泣いている。


2016年 9月1日
台風一過の快晴。気温高く湿度低い。

と書き始めたのだが、考えがうまくまとめられず、書き終えた今日はもう、5日だ。木曜に書き始めて倒れ、書き終えたのは月曜ということだ。

向こうの部屋から、今日来ている仙台市郊外の小学校2年生の声が元気に聞こえる。同時に自分の体全体が細かく振動しているような気配がする。1週間前の木曜日、美術館に出勤していたお昼頃、ものすごくしばらくぶりに突然てんかんの発作がおきた。切れ切れに覚えていることをつなぎ合わせてみるに、嘔吐しながら何回か意識を失い、救急車で仙台東脳神経外科病院に担ぎ込まれた。体の調子が悪い感じではなかったし、だからと言ってものすごく真面目に毎日働いていたという意識もそんなにはない。典型的てんかんの発作だから、1日入院し、1日休んで、毎日の薬が1種類2粒増えて、今日から普通通り出勤。

6月の半ば、2CVの車検を中新田自動車で取った。2CVは快調。それを受け取りに行ったら、シトロエンC4ピカソ(典型的フランスのミニバン)の12万キロ走った、でも大変良い程度の中古車があった。話を聞いてみると、適当な値段でもあったので、8万キロ走ってガタが出始めていたルノーカングーを下に出して乗り換えた。8月のお盆の頃、下の娘の家族が家に帰ってきて、7人乗りの自動車(ミニバンですね)が必要だったこともある。美術館の活動がべらぼうに忙しかったわけではないが、それ以降休みの日も毎日なにやかにや活動が続いて、本当に寝坊が出来るなにもない日は数えるほどだった。8月のお盆過ぎには、九州久留米市の石橋美術館に行って、公開の活動をした。帰ってくると子供達(主に孫ですが)が来ていて、それはそれで面白かったけれど1日だけ家で休んで日曜日、美術館に出勤して水をめぐる公開活動。小さい人たちは翌月曜に帰京。火曜1日休んで水曜日に山形の鶴岡まで、新しいシトロエンで高速を走って致道博物館に行き、「日本刀の新刀」の展覧会を見る。帰り、山形道の中で、様々なコーションランプが点き始め、最終的にはオートマチックなのにマニュアルミッションを操作しながら帰宅。こういうことができるのがシトロエンのおかしく、面白いところなのだが、腹の座っていない僕は、結構痛めつけられる。そうこうした上での木曜日に発作が起きた。うううむ、書くと結構な毎日だったなと思う。もちろんその後、車は、シトロエン仙台に持って行って原因を見てもらい、今、部品待ち。簡単な部品交換の修理で済みそうで助かった。でもこの程度で、今の僕は発作がおこることを忘れないでいよう、公務員仕事はあと半年だ。

日本刀は、日本海まで観に行くのに、美術作品に対する興味は最近だいぶなくなってきている。致道博物館で、刀や釣竿を見ている時の心の動きと、毎日のように送られてくる美術展の案内状を見る時の心の動き。本来僕は、何も用(=意味)がなくて、それでしかないもの(美術館にあるもの)に深く惹かれていたはずなのに、最近、博物館の方が面白い。思えば、今作っている日本刀なんて、なんだか恐ろしく正しくそこにあるものでしかなくて、今や全くなんの役にも立たないものやことの象徴のようなものの典型と言える。で、それを結構な人が静かに見ている。致道博物館には、僕の好きな手で漕いでいた頃の漁船や、江戸時代の農家や、釣竿とそれで釣った魚拓なんかをはじめとして、普通の地域博物館の展示物が並んでいる。今僕がここにいることを肯定的に支えてくれる、役に立ってきたものが嫌というほど並んでいる。全てに意味が深くふんだんに説明できるものやことが並んでいる。でも、ふとそれらの意味を無視して、そこにそうあるものでしかないものとして見えるようになると、その手のかけ具合、使い込み具合、一体なんなのこの愛着のかけ方は、が、見えてくる。そうすると、今の美術表現の意味のなさが、それを作っている作家と一緒に今生きている僕には、本当に意味のないものに見えてきて、急激に興味を失ってしまう。僕は何を作ってきたのかという深い問いかけを含めて。こういうのが歳をとるということなのか?

言葉にならないことを伝えるために美術はある。

なので、本当の美術はなかなか伝わらない


2016年6月23日    
しっかりした雨。肌寒い。

またしばらく更新しなかった。先週の土曜日O泉くんが訪ねてきて、僕が1ヶ月以上更新していないことを教えてくれた。もちろん彼は違う相談できたのだけれど。えっ、そんなに?という感じ。そんなに忙しい感じはなかったのに、みるみる時間は過ぎていく。

昨日休日だったが、舘の身体検査があって、午後から出勤。ほぼ問題なし。体重も、よくコンントロールしている。そのあと、若い友人と国際センター駅の2階で会って、美術で食っていけるかをめぐる相談。気づいたら4時を過ぎていて、慌てて帰る。

特にどうということはなかったのだが、岩沼市につくと雨が降っていて、ポンチョを着て自転車に乗った。そうしたら、乗り出しの時に足がどこかに軽く引っかかって、駐輪場の中ですってんころりんと転倒。監視のおじさん(と言っても僕とほぼ同じぐらいの歳だろうが)が大慌てで来た。あまりのことに自分でびっくりして、ちょっとの間ひっくり返ったまま呆然としていたら、なんか救急車呼ばれそうだったので、ゆっくり起き、様々確認し、どこも血などでていないし、ひどく痛いところも無く、全体的になんともなさそうだったので、出発。あの軽い感じの引っ掛かりは、今の僕はグイと力で戻せなくなってるんだなあ、ということがショック。自転車のコントロールがとれなくなった時、あ、このまま倒れて、手をつくと手首の骨おれんじゃないかと咄嗟に思って、でもどうしようもなくて(これが残念、しょうがないので)極力丸まって転んだのは良かった。夜風呂に入っている時、明日起きて腕のどこかが腫れていたら、即医者に行こうと決心していたのだが、特に腫れていたり熱を持っているところはなかったので、少し寝坊で終了解決。でも、左腕が、主にねじる動きを中心に普通どうりに力が入らない。様子を見よう。

週一で家政に来てくれているK子さんのお母さん(90歳を大きく超えている)の調子が最近ちょっと悪くなって、彼女はそっちの方が忙しくなってきた。それで何もしないでいると、家がゴミ屋敷にすぐなる。彼女が来てくれていたので、我が家の平常は維持されていたのだ。大部分のところはそれなりの方向に/で折り合いをつけ、それなりの家政をする。そういう時に重なって、車検が来る。

2CVを、様々相談をして、もう一度車検をとるため、中新田自動車まで自走で、持っていくことにする。冬にエンジンがかかったので甘く見ていて、6月にエンジンをかけたら、かからず。知っている方法を様々やってみたが、完全にバッテリーあがり。いろいろ走り回って、結局いつもガソリンを入れている長町のガススタンドの店長に相談して、新たなバッテリーを探して(調べたら、2CV用はもう生産中止になっていた)もらい、様々な手順を踏んで、しかし意気揚々と、動かして中新田まで行く。

行って2CVの車検を頼み、庭にある中古車を見ていたら、シトロエンC4ピカソがあった。ううむ。試乗をしてしまった。ううむ。この時期世の中はダウンサイジングで動いている。私も賛成だ。ううむ。でも、C4は前から気にしていて、やはり乗ったらすっごく面白いのだ。最後は、やはりシトロエンか。だって、ハンドルの周りしか動かないんだぜ。ギヤチェンジレバーが、割り箸みたいなんだぜ。オートマチックなのに6速マニュアル?なんだぜ。いやはや。
で、ルノーカングーを孫取りに出せるか考えた。半沢くん家が欲しがっていたなあ。いろいろ考えた上で、ガリバーで、本当はどのぐらいでどのぐらい問題があるのか来てもらって、見てもらった。ううむ。気になっていた所と全く違う視点と方向から、大変良い話が聞けた。僕のカングーにはもう値段はつかないのだった。ううむ。そこで、一気に半沢くんたちにはお詫びの電話を入れて、ガリバーに持って行ってもらうことにしてしまった。なんということだ。こういうことを片一方でしながら、毎日の生活はどんどん進む。この次のブログを書くときには一体どういう生活を送っているのだろう、楽しみだ。















5歳といっても
生まれてまだ60ヶ月。
ほとんどのことが
生まれて初めて。

生まれて初めての時のことを
忘れないようにしたい。

2016年 5月 4日
夕方青空。空気冷たい。

河北展が始まっている。今年入選した、僕より少し年上の、美術館創作室利用者の女の人からハガキが来た。彼女は「子供の絵レベルの単純簡単な自分の絵がなぜ(入選したんだろう)?」という思いで、地元作家の解説の日に、展覧会を見に行った。そこで、あまり納得のいく説明/解説を聞けなかったので、そのなんだかモヤモヤした思いを書いてきた。彼女にとって、僕は未だに美術なんでも相談係。
彼女は、全く美術ではない分野の会社経営者で、宮城県美術館の創作室で美術に気づき、製作を始め、そのおもしろさに練習を重ね、引退した今は、東京の教室に出かけて製作を続けている人。今でも時々創作室に来る。
彼女に書いた返事。

書くにしろ見るにしろ、個人から表現されてくるものは、その個人の知っている世界以上のものはない。もちろん以下のものもない。だから自分の身の回りと、深いコンタクトを取ろうとすると、そこには自分の今知っている世界観が現れてくる。だから良い散歩はいつも面白いのだ。

上手い下手を問わず、真摯に描かれた美術作品(純粋にそれでしかないもの=描かれているということ以外、何の役にも立たないもの)は、普通、それを描いた人の世界観を、純粋に吐き出してしまったものだから、よくできた作品を鑑賞するとき、今度はすぐに、それを見る人の世界観が問われる。見ているあなたが、普段どんな生活をし、どんな世界に自分を拡大/解放したがっているかが問われる。良い表現をしている作品に向き合うと、自分の見る力=生きている世界が問われることになる。

河北展は中央の公募展の偉い先生に審査員として来てもらって優劣をつける展覧会だ。日本では、西洋式の絵画が入ってきたときに、その他の文化の時と同じに追いつけ追い越せ理論で美術表現を取り入れてしまった。一番偉いのが日展(最初は文(部省)展)。昔(今でもか?)日展に入選(=昔は文部省に認められる)すると、美術家として社会に認められたということになって、趣味だった絵を描くことが仕事になった。

でも、それっておかしいでしょう?近代という社会の状態が個人的に自覚されるようになって以来、それまでだって、絵を描くって、個人的に各々の世界観の確認をすることで、誰かの決まった/決めた状態にみんな揃って向かうことでは、決してなかった。自分が見るということは他人とはこんなに違う、ということを描くことによって、見えている世界をどんどんリアルに確実にして行く行為。西洋の近代絵画は、常識を常に点検拡大して行くことこそがこの1世紀の美術の仕事だったと言って良い。

せっかくそこ/ここまできたのに、誰か(しかも国の機関の文部省)に決めてもらうなんておかしいじゃないかと、気づくのはそんなに時間はかからなかった。で、始まったのが今たくさんある公募展だ。折角そうやって始まったのに、日本では(というより人間は、なんだろうか)、個人という自覚がうまく定着しなかったように僕には思える。なんだかみんなグループになりたがる。折角そのように始まった公募展なのに、様々な動きはあったとしても、そのほとんどの団体は、各々の動きの中で日展と同じ形になっていってしまう。美術の公募展に、偉い先生を呼んできて審査をしてもらう、というのは、本当は美術には最もそぐわない形なのだ。

偉いという言葉が、日本では上手いとイコールになっている。上手い人は一生懸命我を忘れて描いているから上手いのであって、特にここに述べたようなことを意識し、自覚して描いているわけではない。僕の体験では、昔の偉い、美術の先生には、上手いだけでなく、そこを通してなぜ絵を描くかまで意識していた人たちもいたように思うけれど、今、偉い先生とは、なかなかこういう話が弾まない。

多分、彼女の描いた絵は、「単純簡単な子供みたいな」だけではなかったのだろうと思う。形がどうあれ、描かれたものには常にその人の世界観が現れてくる。滲み出してくる。見る側に見る人がいたのだろうと思いたい。よく見るためには謙虚で真摯な、自分以外の世界に対する視点が求められる。丁寧で注意深く善く見る目があれば、真摯に描かれた絵に、見るべきものがないはずはない。自分以外の人の物の見方がそこには一目でわかるように描かれているのだから。


絵を描く練習は、その辺りが上手くできるようになるためになされる。自由に描くとはそういう風な状況を素直に真摯に描くことだ。

地球上の生き物のうちで
霊長類の幼体としての
人間の子供は生き物として相当に優秀のように見える。

でも、成体がダメだ。最近本当にダメ度が増してきている。
僕も成体だが、、。
あ、老体か。


2016年 5月 2日
曇り。冷たい空気。

5月1日から、本当にしばらくぶりに、作品を展示している。石巻駅前、ペンギンズギャラリー。展示した日の夜に、思うところあって、書いた文を以下に添付する。

 JR石巻駅を出てそのまままっすぐ国道398号の方に進み、その国道の信号を左に曲がってすぐの所にペンギンズギャラリーという美術の展示場がある。普通は、土曜日曜祝日の午後1時から5時までしか開いていないので、あなたが行った時、シャッターは閉まっているかもしれない。シャッターが閉まっていても、そのシャッターに華やかな手書きのいろいろが楽しく描いてあるから多分すぐわかる。石巻には、もともとペンギンズアトリエという、支援学校高等部卒業生の人たちに開かれた美術工房が前からあった。当たり前だけど、僕たちの社会の中には、絵を描いたり粘土をこねたり布を織ったりするのが好きな人たちがいて、できてくる絵や陶芸や織物が、お知らせの案内図に使われたり、コーヒーを飲むカップに使われたり、襟巻きにちょうどいい織物とか、何か生活に役に立つ物として使われたりしている。好きな人はたいてい一生懸命するので、できてくるモノは、たいてい上手だ。なんでも一生懸命すると、たいていの物や事は上手なモノになる。震災前、アトリエでは、年何回かの展示会などをしていたのだけれど、この震災を機会に少し考え方を広げ、みんなの協力も得て常設の展示会場を作ってしまった。一生懸命作っている、上手なものなのだから、できるだけいつでも、できるだけみんなに見てもらった方がいいでしょう? そこに5月1日から、僕の新しい作品も飾ってもらっている
 さて、ここまで来たので、やっと美術の話だ。役に立つように上手に制作していると、つい一生懸命が過ぎてしまうことがある。そうすると、いろんなことが起こってくるのだが、そういうことの中でよく起こる典型的なこととして使えないモノが出てくることがある。絵なんだけど、詳しすぎてものの説明には使えない絵。お茶碗なんだけど、やたら大きくてどこにお茶いれたらいいのかわかんないお茶碗。襟巻きなんだけど、あちこち穴が空いていて巻いても寒そうな襟巻き。でも、これらは、そうしようとしているのではなく、一生懸命が過ぎてしまっただけ。使え、役に立つことを超えて製作してしまっただけ。人間は物を作る。訳がわかり理由があって、物を作るのが普通だけれど、時々、そういう時間と空間を超えて、訳が分からず、なんなのか説明できない物を作ってしまうときがある。そこにできてきた物はそこにある物でしかないもの。役に立たず、意味を持たず、でも、そこに確実にあることだけは確かなもの。そういうものは普通不安なものなので、見た人は、これはなんだろうと、まず説明を求め、探し、それが、あんまり役に立たないと知るや、各自が勝手に理由をつけ始める。自分がこれまで生きてきて知っているものやことを引っ張り出してきて各自勝手に、しかし各自にとっては明快な、理由をつける。人に説明しても、あなたが知っていることはあなた以外の人にとってはどうでもいいことであることが多いので、本当の理解とは程遠い。
 僕は20世紀に勉強して美術家になった人なので、意識的に、それでしかないものだけを作ろうとしている。だから、こういうところに最初から飾られている人たちと一緒に並べられるとアラが目だつ。仕上げが荒く、隅々がきちんとしていない。隅々まで何だかわからないし、全く役に立ちそうにない。全体としてもなんだかわからないのに、変なところに凝って丁寧に手をかけていたりする。でも、なんだか目をそらせられない(だといいのだが)。題名を含め、作品の部分部分に見る人の様々な思いが起こり、これはなんだと首をひねることがおこれば、作家としての僕の思うツボなのだが、、。ちなみに題名は「帰り、ムジナ森で」on the road to home,at the racoon forest.




見ているものは
全てこちら側にある。

その自覚と練習のために
こそ美術はある。


2016年 4月20日
春の晴天。
暖かい空気の風少し。

仙台のビルケンシュットックの店から、春のセールのお知らせの電話があった。様々なお知らせを含んだ連絡だったのだが、今は、購入自粛中。気になる製品が今は特にない。最近こういうのが多い。たぶんどちらかが、変わり始めているのではないか。
僕のセンスに引っかかる製品がなくなってきたか、僕が今のセンスにひっかからなくなってき始めたか。


この前の日曜に、秋保クラフトフェアがあった。事前に打ち合わせて、美術館創作室使/利用者の加藤さんと一緒に、小雨の中行ってきた。加藤さんは僕の親父と同じ歳で、自動車を持っていない。だから時々打ち合わせて、一緒に出かける。この年齢の人とじっくり同じ活動をするのは、最近大変ためになる。彼は、作品を一つ一つ丁寧に見て、作家の話を聞いて、彼らと話をする。それをそばで見たり聞いたりしているのが楽しい。そうか、年とるってこういう風になることだったのかと、肯定的に思う。そのあと、秋保の木の家で、手打ち蕎麦を手繰り、珈琲と桜餅を食い、庭を見て温泉に入り、秋保大滝に寄って帰宅。なんだかやけに充実した1日の気分。
火曜日の午前中は、最近毎週ヨガに行く。脳内出血で入院した頃行っていた教室に再び行く。この10年で、すっかり体幹筋肉がなくなってしまったので、体の隅々にきく。昔は、身体的には何のこともなく、気持ち良いばかりだった記憶がある。今は、凄いことになっている。体の硬さ。筋肉の無さ。バランスの悪さ。この状態はヨガなんてものではないのではないか。ま、少しずつ柔らかく強くしていくしかない。
今日はそのヨガをした次の日で、身体中の筋肉が(痛いとかいうのではなく)文句を言っている感じ。ゆっくり起きて軽くストレッチをし、朝飯を作って食って様々な日常の家事用事を片付けてから、自転車で阿武隈川岸を上り下り、ゆっくり20キロほど走る。気持ち良い。


帰ってきてこれを書いている。最近OSを新しいのに変えてもらったのだが、そうすると、様々な古いメモリーにしまってあるのがうまく動かなくなったりして、ここまで書くのも一苦労。さて、明日からまた美術館に出て、早速仙台市の人と打ち合わせ。日曜にそあとの庭で子供たちとの活動。仕事のあるうちは忙しく過ごそう。

保育所の充実は
子供にとって!本当に大切か?

ハウスキーピングという仕事。


2016年 3月 30日  高曇り。無風で春の空気。

 25日は、先生たちの人事異動の内示が出た次の日で、みんな様々動きが取れない状況だった。だから?、その日に、かねて計画していた、土屋先生のお祝い会を泉ヶ岳スキー場上麓の岳山珈琲で開いた。参加者は全部で10名。土屋研究室の最初の頃の人たちと、いつもは日本にいない人も含め、普段なかなか会えない人たち。ドレスコード全くなし。式進行計画全くなし。打ち合わせ全くなし。これでなんかやれるのか、という状況。いやはや。

もちろん、ものすごくいい会だった。大きな丸テーブルを囲んで七面鳥の丸焼きをメインにした軽い食事をしながら、アルコールはワインを少しと、ノンアルコールビールだけ。最後にうまいコーヒー。何人かが心のこもった贈り物を持ってきて先生が喜び、打ち合わせなしで挨拶がなされ、そのフォローがあり、機転の利いた合いの手が入り、それの解説が、今だから話そうと先生からあり、話は延々と続く。あっという間に日が暮れてきて、解散。という会。各自がなぜ今ここにいるのかを自覚できている人たちだと、自然とこうなるという見本のような会だった。

ただ、その日の夜に家に帰って会計を閉めてみたら、大きく計算が狂っていて、その週の日曜に、相談に乗ってもらっていたN平君に急遽会って閉め方の相談をしたりした。本当にこういうのは、僕、相変わらず、全然ダメだなあ。




教育とは、
学校教育に邪魔されずに
身につけなければ
いけないもの。


2016年 3月15日 
快晴。
乾いた暖かい空気の微風。

ものすごくしばらくぶりで、何もしなくてよい日。とはいえ、土屋先生の会の準備が、(だいぶ整ってきてはいるが)まだだし、今日も本当は午前中にヨガの会に行こうと思っていたのに、様々やることをやっていたら行けなくなった。来週になると、また毎日何やかにや始まる。何かやることがあるのはいいことだと思いながら、しかし何だかなあ。

沖縄県芸大でやった博物館教育学の授業のリポートが送られてきた。同じ時期に、美術館教育の仲間が書いた放送大学の博物館教育学の教科書が送られてきた。もちろん基本的な状況に様々な違いがあるので当然ではあるけれど、その違いにちょっと驚いた。この教科書で学んだ人たちは、博物館や美術館でやる教育について、どのようなリポートを書くのだろうと思って、しばらく考え込んだ。どちらがどうというのではなく、そもそも、僕たちは、何のために博物館を作り、何のためにそこで教育をしているのだろうか?というようなところから始まる実践の考え方と/や組み立て方。
うまく言えないのだが、何だか21世紀になっているのに、20世紀にわかった最も大切な部分が、何だか曖昧に置き去りにされているような感じ。やっぱりうまく言えないなあ。良し悪しとか善悪というような見方ではなく、使われている言葉の概念から点検するような、モノの組み立て方の伝え方。言い方がしつこい。

こういうことを考えながらこんな文をひねり出していると、右肘の外側に何か小さい骨が少しはみ出しているのではないかと思えるような、軽い痛みが最近時々出る。月に一回身体を見てもらっている鍼灸師のkunikoさんに電話で聞いたら、そこは心臓の流れだから、厚生病院に行って「最近ストレスが、、」と言って、診てもらったらと言われた。ううむ、覚えておこう。


















各自がすでに持っている
ものこそ
今充分に使うべきものだ。

その使い方を学ぶ。


2016年 3月 1日
高曇り。雪混じりの強い風。

2月23日に沖縄県立芸大での博物館教育学の集中講義から帰ってきて、昨日その授業のリポートが送られてきた。
行く少し前から、僕の電脳のOSは、すっかり古くなってしまって、ついにもう、様々なことができなくなってきていた。メールを初めとして、様々なこと。で、昨日Mr.Ameeに来てもらって、ほぼ1日かけて何とか使えるようにしてもらった。でも、前のOSから何段飛びかしているので、今はものすごく使いづらい。又、昔の記憶容量にギリギリ新しいOSを詰め込んでいるので、動きが驚くほど遅い。この文章をここまで書くのも一苦労だ。
昨日までの予定では、今日はついに訳のわからない動きをするようになってきた10年来のドラム式洗濯機を、Y電気のセコハンショップに買いに行こうと思っていたのだが、朝起きたら外は軽い吹雪だったので、やめて確定申告のための領収書の計算。土屋先生のお祝い会の連絡。そして授業の成績付け。やることが次々山のように出てくる。


沖縄県芸での博物館教育学集中講義は今年も90分授業15回連続しゃべりっぱなし。それでもまだ話していないことが終わると出てくる。それを聞いた上で、美術探検と美術館探検を体験しないと、美術館でする教育的な活動とはどういうものなのかがわからない。今年は18名の参加だったので、丁寧に会話ができた(気がする)。


私がここにいる事は、
結構凄い事だ。

その事のバックアップのため
博物館は在る。


2016年 2月10日 
冷たい強い風。
強い日差しの薄曇り。

間もなく沖縄に移動して、県立芸術大学での博物館教育法集中講義に取りかかる。1月12日に行った九州産業大学美術館での学芸員研修に参加した人達の終了アンケートが昨日送られてきた。1月最初の新聞に、僕の大学の恩師、土屋瑞穂先生が河北文化賞に選ばれた事が載った。12月中旬から休みに入った宮城県美術館は、修理をしっかりした上で1月最終週から始まり。今年も長い冬休みから始まった。それ以降相変わらずの毎日。地下鉄東西線ができたのは変わったこと。使うと駅からあっという間に美術館につく。なので、極力徒歩通勤。
月曜は2月8日で、(アメリカンフットボールの)スパーボール。50回記念の回だったが、普通に淡々と終了。朝のライブ中継は、明美さんの病院に行くので通して見られず、どうせ明日は休みだからと、夜11時からの録画も見た。なぜか、実況を見損ねたの時と同じ部分で寝てしまう。ううむ。何やかにやで昨朝は9時起きだった。朝の家事を片付けていたらもうお昼を過ぎていて、それから今日まで、時間を見つけつつずうっと書いている。ううむ。

土屋先生の河北文化賞は、研究室で先生に世話になった皆んなで何か一発、簡単な万歳三唱のような事をしたいなと思って何人かに連絡をとってみた。土屋研究室を巡る人々は物凄く沢山いるだろうと思っていたら、実際には、そんなにいなくて少しビックリ。お茶飲んでる人は沢山いたけど、あの研究室から卒業した人は少ないのだった。彫刻を卒業に選ぶ人の事を考えれば、あたりまえか。様々な問題が絡んで、2月の末から3月の初め頃、泉ガ岳スキー場下の岳山珈琲で何かしたいと思って計画中。
というふうに、1月はあっという間に過ぎて、例年通りなら2月も駆け足で過ぎていくのだろう。今日もよい天気。強い風。

10時に、昨晩予約しておいた石油ファンヒーター(明美さん用)を、南仙台のヤマダ電機にとりにいって、帰りに床屋。その他細々と家事をしていると、たぶんあっという間に今日も終わる。