教育とは、
学校教育に邪魔されずに
身につけなければ
いけないもの。


2016年 3月15日 
快晴。
乾いた暖かい空気の微風。

ものすごくしばらくぶりで、何もしなくてよい日。とはいえ、土屋先生の会の準備が、(だいぶ整ってきてはいるが)まだだし、今日も本当は午前中にヨガの会に行こうと思っていたのに、様々やることをやっていたら行けなくなった。来週になると、また毎日何やかにや始まる。何かやることがあるのはいいことだと思いながら、しかし何だかなあ。

沖縄県芸大でやった博物館教育学の授業のリポートが送られてきた。同じ時期に、美術館教育の仲間が書いた放送大学の博物館教育学の教科書が送られてきた。もちろん基本的な状況に様々な違いがあるので当然ではあるけれど、その違いにちょっと驚いた。この教科書で学んだ人たちは、博物館や美術館でやる教育について、どのようなリポートを書くのだろうと思って、しばらく考え込んだ。どちらがどうというのではなく、そもそも、僕たちは、何のために博物館を作り、何のためにそこで教育をしているのだろうか?というようなところから始まる実践の考え方と/や組み立て方。
うまく言えないのだが、何だか21世紀になっているのに、20世紀にわかった最も大切な部分が、何だか曖昧に置き去りにされているような感じ。やっぱりうまく言えないなあ。良し悪しとか善悪というような見方ではなく、使われている言葉の概念から点検するような、モノの組み立て方の伝え方。言い方がしつこい。

こういうことを考えながらこんな文をひねり出していると、右肘の外側に何か小さい骨が少しはみ出しているのではないかと思えるような、軽い痛みが最近時々出る。月に一回身体を見てもらっている鍼灸師のkunikoさんに電話で聞いたら、そこは心臓の流れだから、厚生病院に行って「最近ストレスが、、」と言って、診てもらったらと言われた。ううむ、覚えておこう。