5歳といっても
生まれてまだ60ヶ月。
ほとんどのことが
生まれて初めて。
生まれて初めての時のことを
忘れないようにしたい。
2016年 5月 4日
夕方青空。空気冷たい。
河北展が始まっている。今年入選した、僕より少し年上の、美術館創作室利用者の女の人からハガキが来た。彼女は「子供の絵レベルの単純簡単な自分の絵がなぜ(入選したんだろう)?」という思いで、地元作家の解説の日に、展覧会を見に行った。そこで、あまり納得のいく説明/解説を聞けなかったので、そのなんだかモヤモヤした思いを書いてきた。彼女にとって、僕は未だに美術なんでも相談係。
彼女は、全く美術ではない分野の会社経営者で、宮城県美術館の創作室で美術に気づき、製作を始め、そのおもしろさに練習を重ね、引退した今は、東京の教室に出かけて製作を続けている人。今でも時々創作室に来る。
彼女に書いた返事。
書くにしろ見るにしろ、個人から表現されてくるものは、その個人の知っている世界以上のものはない。もちろん以下のものもない。だから自分の身の回りと、深いコンタクトを取ろうとすると、そこには自分の今知っている世界観が現れてくる。だから良い散歩はいつも面白いのだ。
上手い下手を問わず、真摯に描かれた美術作品(純粋にそれでしかないもの=描かれているということ以外、何の役にも立たないもの)は、普通、それを描いた人の世界観を、純粋に吐き出してしまったものだから、よくできた作品を鑑賞するとき、今度はすぐに、それを見る人の世界観が問われる。見ているあなたが、普段どんな生活をし、どんな世界に自分を拡大/解放したがっているかが問われる。良い表現をしている作品に向き合うと、自分の見る力=生きている世界が問われることになる。
河北展は中央の公募展の偉い先生に審査員として来てもらって優劣をつける展覧会だ。日本では、西洋式の絵画が入ってきたときに、その他の文化の時と同じに追いつけ追い越せ理論で美術表現を取り入れてしまった。一番偉いのが日展(最初は文(部省)展)。昔(今でもか?)日展に入選(=昔は文部省に認められる)すると、美術家として社会に認められたということになって、趣味だった絵を描くことが仕事になった。
でも、それっておかしいでしょう?近代という社会の状態が個人的に自覚されるようになって以来、それまでだって、絵を描くって、個人的に各々の世界観の確認をすることで、誰かの決まった/決めた状態にみんな揃って向かうことでは、決してなかった。自分が見るということは他人とはこんなに違う、ということを描くことによって、見えている世界をどんどんリアルに確実にして行く行為。西洋の近代絵画は、常識を常に点検拡大して行くことこそがこの1世紀の美術の仕事だったと言って良い。
せっかくそこ/ここまできたのに、誰か(しかも国の機関の文部省)に決めてもらうなんておかしいじゃないかと、気づくのはそんなに時間はかからなかった。で、始まったのが今たくさんある公募展だ。折角そうやって始まったのに、日本では(というより人間は、なんだろうか)、個人という自覚がうまく定着しなかったように僕には思える。なんだかみんなグループになりたがる。折角そのように始まった公募展なのに、様々な動きはあったとしても、そのほとんどの団体は、各々の動きの中で日展と同じ形になっていってしまう。美術の公募展に、偉い先生を呼んできて審査をしてもらう、というのは、本当は美術には最もそぐわない形なのだ。
偉いという言葉が、日本では上手いとイコールになっている。上手い人は一生懸命我を忘れて描いているから上手いのであって、特にここに述べたようなことを意識し、自覚して描いているわけではない。僕の体験では、昔の偉い、美術の先生には、上手いだけでなく、そこを通してなぜ絵を描くかまで意識していた人たちもいたように思うけれど、今、偉い先生とは、なかなかこういう話が弾まない。
多分、彼女の描いた絵は、「単純簡単な子供みたいな」だけではなかったのだろうと思う。形がどうあれ、描かれたものには常にその人の世界観が現れてくる。滲み出してくる。見る側に見る人がいたのだろうと思いたい。よく見るためには謙虚で真摯な、自分以外の世界に対する視点が求められる。丁寧で注意深く善く見る目があれば、真摯に描かれた絵に、見るべきものがないはずはない。自分以外の人の物の見方がそこには一目でわかるように描かれているのだから。
絵を描く練習は、その辺りが上手くできるようになるためになされる。自由に描くとはそういう風な状況を素直に真摯に描くことだ。