地球上の生き物のうちで
霊長類の幼体としての
人間の子供は生き物として相当に優秀のように見える。

でも、成体がダメだ。最近本当にダメ度が増してきている。
僕も成体だが、、。
あ、老体か。


2016年 5月 2日
曇り。冷たい空気。

5月1日から、本当にしばらくぶりに、作品を展示している。石巻駅前、ペンギンズギャラリー。展示した日の夜に、思うところあって、書いた文を以下に添付する。

 JR石巻駅を出てそのまままっすぐ国道398号の方に進み、その国道の信号を左に曲がってすぐの所にペンギンズギャラリーという美術の展示場がある。普通は、土曜日曜祝日の午後1時から5時までしか開いていないので、あなたが行った時、シャッターは閉まっているかもしれない。シャッターが閉まっていても、そのシャッターに華やかな手書きのいろいろが楽しく描いてあるから多分すぐわかる。石巻には、もともとペンギンズアトリエという、支援学校高等部卒業生の人たちに開かれた美術工房が前からあった。当たり前だけど、僕たちの社会の中には、絵を描いたり粘土をこねたり布を織ったりするのが好きな人たちがいて、できてくる絵や陶芸や織物が、お知らせの案内図に使われたり、コーヒーを飲むカップに使われたり、襟巻きにちょうどいい織物とか、何か生活に役に立つ物として使われたりしている。好きな人はたいてい一生懸命するので、できてくるモノは、たいてい上手だ。なんでも一生懸命すると、たいていの物や事は上手なモノになる。震災前、アトリエでは、年何回かの展示会などをしていたのだけれど、この震災を機会に少し考え方を広げ、みんなの協力も得て常設の展示会場を作ってしまった。一生懸命作っている、上手なものなのだから、できるだけいつでも、できるだけみんなに見てもらった方がいいでしょう? そこに5月1日から、僕の新しい作品も飾ってもらっている
 さて、ここまで来たので、やっと美術の話だ。役に立つように上手に制作していると、つい一生懸命が過ぎてしまうことがある。そうすると、いろんなことが起こってくるのだが、そういうことの中でよく起こる典型的なこととして使えないモノが出てくることがある。絵なんだけど、詳しすぎてものの説明には使えない絵。お茶碗なんだけど、やたら大きくてどこにお茶いれたらいいのかわかんないお茶碗。襟巻きなんだけど、あちこち穴が空いていて巻いても寒そうな襟巻き。でも、これらは、そうしようとしているのではなく、一生懸命が過ぎてしまっただけ。使え、役に立つことを超えて製作してしまっただけ。人間は物を作る。訳がわかり理由があって、物を作るのが普通だけれど、時々、そういう時間と空間を超えて、訳が分からず、なんなのか説明できない物を作ってしまうときがある。そこにできてきた物はそこにある物でしかないもの。役に立たず、意味を持たず、でも、そこに確実にあることだけは確かなもの。そういうものは普通不安なものなので、見た人は、これはなんだろうと、まず説明を求め、探し、それが、あんまり役に立たないと知るや、各自が勝手に理由をつけ始める。自分がこれまで生きてきて知っているものやことを引っ張り出してきて各自勝手に、しかし各自にとっては明快な、理由をつける。人に説明しても、あなたが知っていることはあなた以外の人にとってはどうでもいいことであることが多いので、本当の理解とは程遠い。
 僕は20世紀に勉強して美術家になった人なので、意識的に、それでしかないものだけを作ろうとしている。だから、こういうところに最初から飾られている人たちと一緒に並べられるとアラが目だつ。仕上げが荒く、隅々がきちんとしていない。隅々まで何だかわからないし、全く役に立ちそうにない。全体としてもなんだかわからないのに、変なところに凝って丁寧に手をかけていたりする。でも、なんだか目をそらせられない(だといいのだが)。題名を含め、作品の部分部分に見る人の様々な思いが起こり、これはなんだと首をひねることがおこれば、作家としての僕の思うツボなのだが、、。ちなみに題名は「帰り、ムジナ森で」on the road to home,at the racoon forest.