自分を自由にしておく。

ということは、
自分は孤立していることを
自覚することだ。


2016年11月28日 
乾いた北風少し。
でも気持ち良い快晴。

今、月曜日の午後が始まったところ。これを書き始めて気付いたのだが、この時間にブログをめぐる何かちょっとした文章を書こうと思う余裕が出てきたのは、しばらくぶりだ。いやはや。部屋の仕事机に戻って、スケジュール手帳を持ってこよう。何しろこの前更新したのは、9月の初めだったはず。

普段はなんてことない毎日なのに、僕たちの国では、この時期突然毎日に文化が動き始ま/める。今ひっくり返してみると、スケジュール帳のマス目が真っ赤に埋まっている。美術館に出勤している木金土曜日は、ある意味決まった仕事なので、赤で書く(忘れないように)こともないから、むしろそこだけ空いているように見えるけれど、もちろん僕の生活は美術館教育好きが基本なので、館の創作室にいるとつい面白がって、いろいろしてしまう。そうして本来休みのその他の日に、頼まれ仕事を入れてしまう。そういう毎日の空いている日は、思えばすごく貴重なはずなのだが、そういう日は病院に行ったり(僕とカミさん二人分)、大学の非常勤講師をしたり、冬に備えてペレットを買いに行ったりする、必然でしなければいけないことを、していた。最近はっきりしてきたのだが、僕は、どうもテレヴィを見る依存症らしい。早く寝ればいいのに、なんだか緊張する活動をした日に限って、夜、テレヴィをついダラダラと流し見している。すごく意識的に今日は8時に風呂に入ってすぐ寝るぞと心に決めていてもそうなる。こういうことはもう少し若い頃はあまりなかった。心に決めたらそうすることができた。最近は、心に決めているのに、そしてアッ、もう心に決めた時間だと気付いても、テレヴィの前から動けない。大したことやものを見ているのではないと思っていても、今見ているこれはどういう風になるのかを見きってしまう。動けないのは依存症だ。というプレッシャーをかけているだけかもしれないが。

そういう合間を縫って、熊本の県立美術館に行って、美術探検と美術館探検の公開研修。ううむ、まず確認しておきたいが、九州は、僕の基本的な自分の文化の自覚とは何か違うものが基本になっているように思える。このことは8月の終わりころ行った福岡県久留米市の石橋美術館での活動でも感じていたが、熊本は、また一層深く、そうなのだった。あの辺が、そもそもの日本文化なのだなあと、毎回思う。良いとか悪いとかではなく、そこに僕が教科書で/だけで学んだ日本の歴史が普通にあるというような意味で。だから、僕は、古い日本画の屏風絵を見て、「これ変だよねえ、バック書いてないじゃん」とか言ってしまえるのだが、かの地の人たちは、全くわからないか、一瞬おいてああそうかとなる人とがいる、というような。西洋文化との関わり合い方をするときの、日本文化の基礎的な量と深さが、少し違う。後から勉強で付け足す前の各自の文化の基礎の深さと広さと多様性。いやはや、お話しするの大変です。そもそも美術教育って個人の世界観にどれだけ影響を与えるかを自覚する仕事なので、本当はこのあたりはあんまり関係ないように思っていたのだけれど、熊本あたりまで行くと、ちょっと、僕の方がビビるのかもしれないなあ。

そしてそういう毎日の合間を縫って、市内の児童館で出張活動2箇所。僕を招ぶ館なので、そもそも毎日生き生きとした活動をしている館なのだけれど、外から時々行った方としては、大変そうだった。公けとして子供達の教育をうたってしまうと、今の日本では、人間の幼体としての子供としてはどうしても性能悪くしかできないようになってしまっているようにしか思えなかった。僕が普通にすると、様々な方向から圧力が現れる。いやはや。でも、両方とも、子供達はみんな終わるのを忘れて、真剣に活動した。まあ、いいや。

そあとの庭でも、何回か子供の活動。SOUP(ハンディキャップの人たちとの美術活動サポート)の活動で築館の風の沢へ何回か。こういうことをしていると、仙台での個展を中心に展覧会を見に行くのがどんどん疎かになっていく。でも、毎日は活気にあふれて面白く過ぎて行ってはいる(と思う)。





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