僕は僕。
初めから、ずうっと最後まで。
これだけはどうしようもない。
人はもともとすごく寂しいのだ。
2017年 9月 18日
台風一過の快晴。
暖かい乾いた強い風。
ここのところしばらく、他の人とこちらから積極的に関わるのを意識的にほっておいている。
しばらく前に、岩沼に自主的なデッサンクロッキーの会があるのを知って、今、僕は「そこにある見えるもの」を「本当に見たい」のかの確認に出かけてみたことがあるのだが、普通そこにある「ものを見る」という練習は、あまり一般的ではないようで、僕には結構面白かったのだが、一緒にやる人たちとはあんまり打ち解けなかった。みんなの中でやるためにはみんなとある程度は話し合わなくてはいけないわけで、そういうのを面倒臭がっている自分にちょっとびっくりした。僕は仕事として「美術の教育普及」をしてきていたのだな。結構好きだと思っていたのだが、。ああそれで、僕は、早く退職生活に入りたかったのかな。
ここのところしばらく、日常の報告をしていなかったのだが、何もせずぼやっと過ごしていたわけでは(残念ながら)なく、結構な頻度で、誰か他の人がプロデュースした子供との活動にかり出されていた。そうすると最近は、実際に今から活動が始まる、または始まっている時に、様々な、思いもかけないことが起こってくる。あれをしてはいけない、これをしてくれ、これをああしてそれをこうして、というような大人の都合(そうではないという理由も含めて)の申し入れ。
小さい人たちと一緒に、あることを、そのためにこうする、ということは打ち合わせ済みなのに。そして、もうその人たちとしっかり逢っているというのに。全体的にはうまくいってはいるのだが、ちょっと、何だろう、うんざり。いったい僕たちは、どちらの方向を、誰と、何のために、見て?いる?のか。
ほとんどの小さい人たちとの活動は、大人がそうしたいことをそうさせる作業ではない。そういう大人の思いを(たいてい)常に超える?ので小さい人たちとの活動は、大人にとっても面白い作業になるのだ。しばらく書いていないと、自分でも何だか重い文になってしまうような気がして嫌だが、しょうがない。
最近はほぼ毎週土曜日に仙台市坪沼八幡神社辺りに出かけて、市内の児童館の人たち一回30名ぐらいと1日遊んでいる。ここでは、本当に「(木が)倒れるぞう」ができるので嬉しい。そうすると、僕の小さい人たちとの付き合い方が、普段彼らと付き合っている館の指導員の人たちと大きく違っていて、かつ、小さい人たちは、みんな僕の話の方を一生懸命聞く、または、全く気にしないでうまく動いてくれるので、指導している大人の人たちが困る。で、その人たちに研修をしてくれないかと声がかかることになる。
合間を縫って、岩沼の家に友達が家族で遊びに来る。ちょうど良い時期が重なって、歯医者さんから点検の時期ですよという連絡ハガキが届いたので予約を取りに行く。東京に行ってしまった若い友人から、仙台に置いてある僕が譲った古いマウンテンバイク(ゲーリーフィッシャーのCR-7)が、動かなくなったようなので見てもらえないかという連絡が入る。1日目歩いて軽く見に行って撃沈。2日目バイクに少し工具を持って行ってほぼ動くようになるも完成せず。3日目車に工具を山盛り積んでいって完成。自転車修理は今の僕にとって美術制作だ。そこにあるそれでしかないもの。
というようなことを、仕事を辞めてから変えた小さい手帳に書き込むと、9月のページは真っ赤(僕は大切な予定を赤いペンで書き込む)になってしまう。
なぜか秋分の日あたりだけがすっぽり空いていた。その日スポーツランドSUGOで全日本スーパーフォーミュラが開催されるようなので見に行こうと思って調べたら1日6500円+駐車料金だったので年金生活者としてはややびびって、静かにこの文章を書いているという次第。体力が落ちていくなあ。