そもそもなぜ
教育が必要になったのか。

僕はいつまで
教育が必要なのか。
2018年 7月4日  

湿気った空気。
気温の高い曇り。
アメリカ合衆国独立記念日。
明美さんの誕生日。

しばらく書いていなかったが、ほぼ元気な毎日だった。6月から7月にかけては、だいたい毎週1回から2回児童館の人達との様々広範囲な(新聞紙を使った部屋作りから平家琵琶を聞いてホタルを見る会まで)活動があり、その隙間を縫って、沖縄にいる娘が子供連れで一時帰ってきたり(その時期我が家には一人の中学生と1人の小学生と2人の絡まり合う小さい人がいた)、2CVの車検を受けたり、免許証の書き換えをしに行ったり。ああ、もちろん病院に薬をもらいに行ったりもした。急に暑くなってきたので、あまり歩き回ったりはしていない。とはいえ、蔵王に川を見に行ったり、丸森にロバを見に行ったり、その帰り、新しいカフェで小さいピザを食いながら美味しい珈琲を飲んだりはしていたのだが。
夏が過ぎると、遠くの美術館(と言っても国内だが)に呼ばれていて、鑑賞教育の実践のお話をしたりするので、そのお話のメモをまとめたりもしていた。お話のためのまとめをするたびに思うのだが、僕の話(文章)には、参考文献のリストがない。この文を書いている席がある部屋の三方の壁には、天井まで本の詰まった本棚があって、それらは全部読んだ本で、何回も読み返しているものが多いから、参考にしている本はたぶんたくさんあるはずなのだが、その本のここが参考になった文章だということができない。だいたいここにある本で、美術とそれにまつわる話の本は、ほとんどないと言って良い。自分の頭の中にある世界観を繰り返し点検し、新たに不確かな隙間を埋める。その結果、ああそうだったのかと新たなものの見方に気付く。その繰り返し。

ものを見る時に気をつける点のメモ
鑑賞は、新たな知識を得ることではない。
1 人間が、近代化したことの自覚の確認。
2 同時に、にもかかわらず、我々は霊長類の(たぶん)先端にいるチンパンジーの成れの果てであることの自覚。
3 そういうのが、服着て宇宙がどうのと言っていることの自覚。
4 外の世界を見ることは、自分の知っていることだけしか使えないことの自覚。
5 その時どこをどういう風に注意すれば良いかを、公開する。
6 そしてわかったことを、自分に置き換えて考える。
鑑賞は自分の周りにあることやものを自分に取り込む練習なのだ。

こういうことに気付くには、たくさん読んだ本から、そのまとめのようなことがどしっとまとまって現れるとしか言いようがない体験が起こる。5と6が起こるために1から4までの点検がいる。考えをまとめて、他人に判りやすく話す方法というような本があるそうだが、そういう考えとは最も遠くて、しかしすぐそばに、この考え方はあるように思える。困ったものだ。