意識していないと、
違和感に気づかない。
違和感を点検する。
自分はそういう人だったのだ。
2020年 7月 8日
夜明け、目が覚める程の降雨。
気温高し。
退職以降、意識的に社会とは積極的な関係は持たないと心に決めているので、普段は、不要不急なことしかしていない。
朝、出勤登校する人たちが出てから、新聞受けの朝刊をとって2階のキッチンに行くと、義理の息子のD作が珈琲とヨーグルトを用意してくれている。
マグ1杯の珈琲に小岩井乳業の大きい瓶牛乳を少し入れてレンジにかけ温め直している間に、彼が作った自家製のカンパーニュを薄く切った1枚に、これまた彼のお手製の庭の枇杷の木になった実から作ったジャムをつけたものと、ヨーグルトに友人にもらった梅シロップをかけたものをカップ1杯準備し、老眼鏡にメガネをかけ直して新聞を隅々まで読みながらゆっくりよく噛んで朝飯。さて、今日は何しようかな?という毎日。
愛用の長い木の杖を持って岩沼駅まで歩き、常磐線の電車で近くの駅まで行って、そこから歩いて山(と言っても高さ190mとかだが)に登り、尾根を伝って一つ先の駅に近いところに降りて、知らない新しい駅で、ゆっくり/ぼんやり電車を待ち、帰宅。
最近、子供達から、何処かかわけのわからない所で倒れても見つけられるように、GPS機能のついた携帯電話にしてと言われたりしている。
どうも、こういうのが、最近の僕のある表現になってきていて、物を作ることには、意欲があまりわかない。
つい素直に書いてみたけれど、読み返すとなんとも恥ずかしい。恥ずかしいと書くのが、なんとも昭和的だなあとは思う。でも、心あるうちに、一生懸命毎日美術を行動してきた結果、こういう風に歳をとって、一応毎日楽しく生きていると思えているのだから仕方ない。
歳をとった人間がきちんと生きるというのはどういうことなのか、一人で考えている。