違和感の点検。

点検の深さ。

自覚すべき自己。


2020年 9月13日   多分秋の風。湿気の多い空気。


この前、思えばしばらくぶり(今年の夏はことのほか暑かった)で、亘理山元の潮風トレイルに行った。常磐線亘理駅で降り、亘理中裏から入って、閑居山夜討峠黒森山を経て、四方山まで。

10時に家を出て、岩沼駅から電車に乗り、亘理駅から歩いて里山に入り、3里ほど歩いて里に下り、浜吉田駅から電車で帰宅。四方山下、吉田の里に下りてからが遠い浜吉田駅に行く間に雨に降られたが、それも含めて基本的に快適な長い散歩。

このまま山下の深山までとも思ったが、左足薬指のマメが少し痛くなったのを理由に今日は帰ろう、にした。様々な発見があり、新たに歩きたい所も増えた。近場は本当に面白く深い。


最近になって美術館教育をめぐって思うこと 2

⬜︎違和感のあり方

今になると解るが、当時も今も、僕にとって「生きる」は、「美術家として生きる」ということで、雇われた仕事をいわゆる社会的な意味での仕事と理解できていなかった(今も)のではないかと思う。その当時僕の上司だった人たち(大学以来のT/Kさんや、その当時の責任者のS/Tさん等)が、いかに僕をフォロウしていてくれたかを理解するのは、ズウッと後になってからだ。


若い人からの質問で、制作者としての自分と美術館教育担当者としての自分は、どのように分けているのですかというものがあったが、今になって思えば、僕は特に考えていなかったのだろうと思う。その当時に書いたものの中にも、「作品を作るのと同じ!に、コンセプトを整理してシンプルにし、それに伴う活動は、できるだけダイレクトに」としたのを覚えている。これは、宮教大でしつこく叩き込まれた美術制作のコツだ。


僕の美術館での教育活動は、最初から(図工でなく)美術(制作)教育だったのだ。そうすると、それは、個人の確立を目指すから、目標は各個人に戻って、日本の学校的な意味での統一された目標ははっきり見えてこない。

その当時から日本の教育現場に現れてきたいわゆる「ワークショップ」は、僕にとってはニューヨークで僕の居たブルックリン美術館付属美術学校での授業そのままだったので、何の抵抗もなくそういうものだろうと思っていた。ちょうどその頃何回かヨーロッパやアメリカから、美術館教育や、ワークショップの専門家が来て、話を聞く機会があった。美術館教育の人たちと一緒にその話を聞いたのだが、その後の懇談会や、話し合いで、僕が感じたのは、違和感だった。

そこで、敏感な人なら気づくべきだったのだろう。そのころ、そういう会合で、「齋君は、最後に面倒臭い発言をして、まとまりかけた話を元に戻してしまってばかりいる」と言われることがあった。その問題はそんなに簡単に簡便に要領よく話せるものではないというあたりを、僕は話したかったのだろう(と今なら思う)。美術をめぐる話は、簡単に言えるものではない。そうであるなら作品なんか作らないで済む。という活動。










既に知っていること。

そこから、

想像すること。

それこそ、未来。

2020年 9月7日  台風が来ているが快晴。気温の高い湿った空気。


この文章は2007年に登録された(ということがわかった)iMacで書いている。これまで、この機械は動きが遅くなってきて、僕のキーボード操作にすらついてこれなくなって、もう買い替えだと思っていた。だが様々あって、義理の息子にちょっと問題を言って見てもらったら、実は、もう一方のMcBookの方にこそ問題があって、そちらを、最新のiPadに変えた。今練習中。これ(電脳ときちんと付き合う)をやるとよくわかるのだが、僕は、自分で決めて、自分の頭で、やりたい人のようなのだ。僕もそのうち辞書を引くように電脳に聞けるようになるのだろうか?本能的に嫌だなと言っている自分を意識する毎日。ここに書いた出来事は、僕が理解している範囲内でまとめていて、本当は、もっと物凄いことになっているのだが、それを書き始めるとそれだけで終わってしまうので割愛。iMacは至って、元気なのだった。


さて、最近、日本の遠くに住む若い友人から美術、美術館、美術館教育をめぐる質問のメールが来るようになった。答えるのは簡単だ。ものすごく基本的な質問だからだ。で、それらに答えていて考えたのだが、そうか、この辺りについて、これまで、僕はものすごくとばして話をしていたなということに気づいた。しばらくその質問に沿って、思うところを書いておいておこうと思う。


最近になって美術館教育をめぐって思うこと

⬜︎違和感をめぐって

最初MAM(宮城県美術館)に雇われた頃、まず日本中の美術館の教育関係施設とシステムを見て回った。

宮城教育大学美術科を卒業して、そのままニューヨークに渡り、3年間現代美術を勉強して、もうアメリカに住もうと決めて、子供もできて最後の顔見せに帰ってきた時だった。

近いところから遠いところまで(しかし全部国内)見て回ったが、みんななかなかよくやっていた。僕は、基本実に素直な良い子供だったのだ。ただ、何か全体な違和感が消えなかった。そしてその時は、その違和感が何なのかを考える気もなかった。さて、この違和感は何なのだろう。今なら点検できそうなきがする。


そういう基本を胸に、僕は、MAMの教育の方向を具体的な活動にしていった。

だから始めた最初の形は、ごく普通の他の(県立)美術館で行われているものとそんなに変わらないものだった(と思う)。多分一番他と違っていたところは、地元作家が美術館を制作から鑑賞まで、様々使いに来てくれるような気を遣っていたところではなかったか。美術館の制作(創作)室=ワークショップは、作家が制作するのを援助できるレベルで考えていた。図工室ではなく、作家用工房。基本、創作活動は、個人が個人のペースで個人的にする。でも、そんな中で、大きいバンドソウや、電気溶接や、何やかにやがそのひと時だけ必要になる時がある。木を削った作業をしている時の最後の台を作る時。基本的に生花の制作なのだが、いわゆるオブジェと呼ばれる、様々な素材を組み合わせる時。制作には、最後まで単一の素材で終わるということはない時も多い。そういう時、地元の美術の可能性を助ける、地元の美術館は何をどうすればいいのか。学校で学ぶ(習うでなく)のでなく、制作としての美術への視点。その辺りをもそもそ考えて(言い訳て)いた。まだ、僕は、強く制作者だった。