誰かの演出に乗らない。

自分に演出しない。

見えることをしたいままに。


2021年12月15日 

 青空の見える曇り空。冷たい空気。


遠くにいる美術関係の若い友人から、僕が昔展覧会に関わったことがあるらしいが、それは、どんな具合だったのかという質問がきた。ううむ、そういえば、そんなことがあったなあ。


在職中1回だけ、僕が、学芸部の手伝いをしたことがあります。おぼろげに残っている記憶では、極最初=開館直後(1980年代始め)の頃で、僕自身も、もうほとんど覚えていないほど昔のことです。

ただ、それを思い出し、この歳になってから考えることで、むしろ、そのことによってわかったことの方が、大切だったのではないかと、今の僕は思っています。


それまで、多くの日本の美術館(多分博物館)では、教育普及部は、学芸部の一部だったのです。大抵、部ですらなく係でした。〇〇美術館学芸部教育普及係。確か、学芸2部という名前のところもあったと記憶しています。館内の部は、他に総務部。総務部しかなくて、その下に学芸係がありその中の学芸2係。日本での博物館での教育の意識は、そういう立場だったのです。というより社会教育が学校教育との関係でそうだったのでしょう。

その頃、僕は自覚していませんでしたが、僕の(東北大から別れたばかりの)宮教大での社会教育の担当は江馬先生と雪江先生で、多分、その頃としては、最も革新の人たちだったのだろうと思います。世界大戦が終わり最初に入ってきたアメリカナイズされた教育に心からびっくりした人たちの初めての教え子になった人たちが、皆んな、僕の先生だったのです。それを高校生で学生運動を少しかじってしまった若者が教育とはそういうものだとして聞くわけですから、面白くないはずがなかったのです。僕の立っている場所はそういう位置でした。


一応宮城県美では教育普及は最初から部として独立はしていましたが、何となく学芸部の下に位置つけられていたのだろうと思います。今では、僕の意識は教育部ですが、開館当時は普及部という名前でした。というより、一体教育普及部って何するところか具体的には誰もイメージできなかったのではないでしょうか。博物館内での教育の位置はそういうものだったのでしょう。だから、特に何の準備もなく、僕の方の心構えもなく、今度の展覧会手伝って、ということになったように記憶しています。というより、僕の方は、おお、展覧会にも、教育部は関われるのか!と思った記憶があります、展覧会を手伝うという意識よりも。


教育普及部が、独立してあると、その当時=1980年代頭初では、(それまでの日本の美術館では)1年間に行われる美術をめぐる様々な活動(解説や、創作を伴う作業や、様々なART=踊り、劇、音楽等等の講演会)が、ほぼ3か月程の間にすべて行われてしまいました。そういう経験を誰もしたことがなかったのです。そしてもちろんその次の3ヶ月も同様に続くわけです。美術館では、美術をめぐる教育活動が、展覧会のように常事行われているのです。これは、僕の知っているアメリカの美術館では、極、当たり前のことでした。

博物館での教育は、学校教育で行われるのと同様に、集中してそこにある資源を使って組み立てられる、社会教育なのです。ということが、僕を、学芸部の作業に誘ってみて初めて美術館中に実感されたのだと思います。学芸部の人達がしている展覧会の作業とほぼ同じように、博物館での教育も常に考えられ、研究され、組み立てられ、順番に実行されるのです。


学芸部の人たちが組み立てる(それまでの)教育活動は、メインの展覧会を補強するかのような活動が、中心になりがちです。そしてそれが、博物館の教育だと思われてきました。僕も、最初から日本の美術館に入っていたら、そうなっていたかもしれません。でも、美術館での教育は、作品の解説だけでは決してなく、そこにある資源としての美術を使って、各自の中に各自の美術的社会認識力意識(張り切って美意識と言ってしまおうか)を、各自が組み立てられるようにする手助けなのです。そうすることによって、美術と図工の違いも、自覚しやすくなります。

そうすると、Museum of Art は、改めてArtのための博物館として、何をやるべきなのかが浮き出てくるように思えます。Artistと呼ばれる人たち全部を眺める博物学。いやはや、面白そう。


だから、それ以来、教育普及部の人が、学芸部の人の手助けをするというようなことは行われなくなりました。


これは、なかなか良い質問でした。僕もほとんど忘れていました。でも、あのこと(僕を学芸員と同じような仕事に巻き込もうとしたことによって、彼我に、はっきりしたこと)が、あの当時の宮城県美術館のその後の在り方を、方向づけたのではないかと、今回考えて、気づきました。開館時にすでに部屋や人や予算が組み立ててあったにもかかわらず、それが何をどう意味するのかは、やっぱり、やってみるまでわからなかったのです。


今となっては、お爺さんになった僕の思い込みのようにも思えますが、学芸部と同等に教育部を持つということは、実は、このように、美術や、教育を捉えられるかにかかっている。多分あの時、このように言葉にはしなくても、僕を雇った人たちは、なんとなくこれで良しとして、僕のほぼ身勝手な活動を支援していてくれたのかと、今となって身の引き締まる思いです。俺が、今気づいただけかな? 深い感謝とともに。



 身の回りのものが、

片っ端から壊れる。

僕も、そろそろ

壊れるのだろう。


2021年12月 7日

うすら寒い、曇天。本当に寒くはない。

ここ最近、毎週土曜日は、児童館の人たち20人程と、市街地のはずれにある神社の裏山で遊ぶ日だった。が、少し前のその日は久しぶりの真面目な雨。いつもと何も変わらない、時間と場所だったが、泥は滑り、メガネは(マスクをしているのでより)曇る。

少し若い頃は、雨が降って様々行動が制限されるのは、同じ行動に新しい要素が加わってより面白いことになるという認識だったが、70歳を過ぎると、意識的にそう思い込まないと、動きが鈍くなる。だが、僕にとっては、それもまた面白い。苦し紛れの言い訳のように聞こえるかもしれないが、思えば、物心ついてから、ずうっとこれでとうしてきているので、どうしようも無い。大変になることは面白くなることなのだ。この辺りが、他の人(一緒に遊ぶ大人、最近は一部の子どもも)になかなか伝わらない。雨の時、最初の活動は、プラスチックのゴミ袋とガムテープで、簡単な雨具ーカッパ作りだ。

自分のカッパを持ってきた人は別にして、なんだか、怪しげな装束の小さい一団が、古い神社の神様に(今日来た人たちは、神様っていると思っているか?と、最初に問われる)にこんにちわをしてから、神社の裏の森を抜け(ほとんど全員が、初めて、道のない森の中を踏み分け道を作りながら歩く)、猪よけの電気フェンスの張られた畑の中をたどり、前9年の役というような、皆んなチョンマゲを結っていたかどうかもわからないぐらい昔にあった戦争の時にあったお城(砦)の趾にたどり着く。

周りの山を見、その中にある小さい(今は蕎麦畑になている)原っぱ(本丸趾)を見、少し昔に思いをはせた後、砦の周りの空堀に降りる。ああそれで、上級生が、ロープの束を持ってきたのね。近くの太い木にロープを回して結び、それにつかまって、一人ずつ後ろ向きに降りる。

というような、真剣な散歩に、トトロに会うための練習や、畑の中にある動物の足跡観察(想像)などが混ざりながら、今は畑の中の道に見えるが、少し前までは、実はメインストリートだった古い道路をめぐって午前中の足慣らし(=息合わせ)が終わる。


小さい人たちは、基本の体温が高いので、雨の中で遊ぶのに何も抵抗は無い(ように見える)。普通は、こういうことはしないので、体験が無い分、期待は大きい。で、雨に濡れて、新しい体験(ぐちゃぐちゃになり、ヌルヌルになるというような)が、始まる辺りまでに、ある興奮状態に持って行ってあれば、みんな、髪から雨のしずくを垂らしながら、夢中に遊ぶ。

何時も言うことだが、だから児童館に必要なものは、終わってから、体を温める、温水シャワーの設備なのだ。昔なら、そのあと、街の風呂屋に、みんなで行って、番台のおじさんに騒ぐなと、怒られたりしたものだった、というような。今回のような場合は、昼飯前に、全部の着替え。


午前中の遊ぶエリアの探検が終わり、昼飯を食べてから、何時もの作業エリアに移動すると、そこは檜の林の中だから(それに、雨も少し止んできた)もうほとんど、濡れる心配はいらなくなった。雨がひどい時は、ブルーシートで、まず皆んなで大きいタープを(適当に)張る作業が加わる。

これまで数年間、間伐する細い木を、みんなで切り倒し「倒れるぞおお!」をやってから、枝を切り払い、太さによって幾つかのパーツに切り分け、それら細い丸太を使って、(もののけ姫で、祟り神が森から出てくるのを見張っているもののような)三本足の物見櫓を中心にした何かツリーハウスのようなもの?をみんなでゴチャゴチャと組み立てるというようなこと(この活動がうまく文章にできない)をする。ほぼすべての小さい人たちにとって、意味ある作業は深い快感を伴う遊びとなる。小さい人たちに意味あるというあたりを意識しないと、普通、自然に、大人だけに意味あることが、大人の価値観に沿って行われる。注意深くみれば、小さい人たちが自然にしているすべての遊びはすべて深い必然に基づいて行われている。大きくなるとそのことを忘れてしまうだけだ。

初めて来た人たちは、ここにある、アスレチック遊具(と、みんな思っている)は、全部、子供達だけで作ったものだということに驚く。これらを最初に作った人たちは、今、高校生だ。僕のお姉さんは、高校生だよという人がいる。君らも、高校生になるんだよ。今は未来に続いている。ビックリ!

ノコギリで木を切る。疲れたら交代する。でも、諦めなければ、必ず切り終わる。短く切った丸太を立てて鉈で割り、簡単な板にする。鉈の背中を重い金槌で思いっきり何回も叩く。釘を打つ。優しい顔では釘はなかなか打てないし、すぐ曲がる。ドリルで、ある程度穴を開けて曲がらないようにしてから、頭が平らになるまで打ちこむ。地面すれすれまで切った切り株に、危険のキの字を釘で書く。小学生は、もう字習ってるから、簡単だ。簡単だが、必然の作業は、いくらでも出てくる。

最近は、暗くなるのが早いので、もうこの辺で帰る準備を始めなければいけない。本当は、この辺りから、各自の思い付き制作が始まることが多い。竹で、弓矢を作るとか、残った短いロープを集めて、新たにハンモックを作るとか。でも、もう帰り時間なのだ。いやはや。


基本的で絵に描いたようなワークショップは、このように始まり、行われ、終わる。


最近、僕のやるワークショップをめぐる質問が来る。僕は、ローレンスハルプリンがワークショップという教育技法を始めた頃の話を、わりと実感を持って聞いた世代なので、彼や、彼のおかみさんのアンハルプリンの実践を、未だにベースにしている(と思っている)。もともとこの活動は、教育技法なので、何のために、この活動が行われるのかを意識することは、大切なところだ。AをBに移し替えるために行われると思われがちな教育に、新たに、発展的な視点をつけられないかというあたりから、ワークショップは考え出されたというふうに、僕は捉えている。僕が、どのあたりで、先生たちから教えられたことを広げ始めたのかに気づくあたりが、ワークショップを行う側が意識すべきところだろうと、今になって思う。

で、最近行った、典型的な活動を文にしてみた。


 知ることには限度がある。

どんなに知っていると思っても、

もっと知ることがある。


2021年10月5日

曇り。湿ったうすら寒い、暖かさ。

10月になると、ほぼ毎土曜日に児童館の人たちとの活動が入ってくる。本当はこんなに混んでいないのだが、この時期、夏休み中にやろうとしていた活動がどんどん中止や延期になっってしまっていて、ここに集中してしまったのだ。

この前の土曜、本当にしばらくぶりに、小さい人たちと、いつも使わせてもらっている仙台の外れの古い八幡神社の裏山で、1日一緒にじっくり遊んだ。と言っても、まず昼までは、神さまこんにちわ(君等は、神様いると思っているのか?の点検)をしてから、今日遊ぶエリアの散歩を兼ねた探検。手入れされているとはいえ、ほぼ自然のままの林の中を下草をかき分けて道を新たに作りながら歩くのは、何回やっても面白い。男子はどんどん行ってしまい、迷子になりそうになる。僕は、思わぬところで思わぬ方に曲がるからね。そういう練習をしていないと、絶対トトロには会えない。古い城跡の探検で、古い空堀にロープを使っており、裏の出口まで行ってみる。トトロの道を通り抜ける練習(しばらくぶりだったので、僕は眼鏡を草の中に落とし、なくしそうになった)で、草まみれになり、ほうほうの体で、社会(知っている世の中)復帰。

昼飯を食って、これまで作ってきた遊具の点検と修理(という名前の)破壊。壊すの面白いよね。丸太を止めている1寸釘は、きっちり錆びていて抜けないので、ほとんどの接合部分は、鋸で切断。で、この辺りで、帰る時間が来てしまう。初めて参加した1年生の女の子にさよならのハグをされて、僕は、少し涙が出そうだった。面白いねえ。又おいで。

思いもかけないことが起こったときに、なんとか知っている世の中に戻る道を探してみる。私たちは、知っている世の中を持っているのだろうか。

 私の表現に出る、

私の生き方。

私の生き方の、

なんといい加減なことか。

2021年 9月24日

乾いた涼しい空気。少し見える青空から差す強い日光。

17日から20日にかけて、浜松に行っていた。18〜19日に、11月にやる活動の打ち合わせで呼ばれたのだが、事前にゆっくり常磐線で行って、終わった次の日再び常磐線で帰るというのにした。前に愛知県豊田市に呼ばれた時、フェリーで片道1日半かけて行った時の往復に比べればなんのことはない。台風の移動と重なって、僕が一人で下見をしている時だけ、強い雨降り。それはそれで感慨深い数日だった。


今回の活動場所は浜松市の浜北区という場所で、とにかく箱根を越えた西側に、変な思い込み(こっち側が本当の日本だという様な)を持っている僕にとって、徳川家の管轄内深い場所でのウロウロ歩きは、置いてある(または、落ちている)石一個毎に何か読み取るものやことがある様に見えて、面白かった。こういう感じは、三内丸山縄文遺跡と吉野ヶ里弥生遺跡を両方見た後で感じた、日本の出来様が腑に落ちた時以降に起こる変な感じだ。

昔ニューヨークにいた時、友人だった東洋人のおばさんに、貴方はツングースなの?と聞かれたことがあった。その時はなんのことかわからなかったが、今、浜松から遠州鉄道に乗って浜北の方に向かっていると、周りの人たちのほとんどが僕とは違う骨格(顔つき)の人たちである様に見えてきて、不思議な想いが身を包む。

僕自身がそこにいるだけで、世界はかくも面白い。






 表現しようと頭の中を覗き込む。

その過程で、思いはあっちこっちに

飛び回る。

というのが表現か?

2021年 9月 9日 

 高曇り。ところどころ青空、秋の。乾いた少し暑い空気。


昨日だけ雨が降った。仙台の古い小学校の児童館で、船で遊ぶという活動をすることになっていた。狭い児童館の館庭に孟宗竹を縦に割った水路を作り、小さい船を作って競争して遊ぶつもりだった。

もともとは、仙台駅東口から宮城野原野球場までの通りにある歩道の渡渉水路で、僕が小さい木の船ー長さ2センチもないようなーを2隻作って、競争させて遊んでいたことを仲間に話したら、それ面白いから子供にさせましょうということになってしまったのだ。

流れていく水とともに、よろよろ動いていく小さい船(目を放すと見えなくなる様な)をジッと見ながら、こちらもよろよろと動いていき、ゴールまで手を触れずに行って、こっちが勝ちとかいうだけの遊びは、相当大きくなって(ワビサビを理解できるくらい)からでないと、面白くないのだが、なぜか、日本では、こういうのは、子供に回されてしまう。

とはいえ、いったいどうなるのだろうと思っていたら、天は我に味方して、きちんとした雨降りの日になった。狭い館庭はいくつかの水溜まりができ、そこをぬって川が出来始めている。水路を作るつもりで切ってきた(近くのお宮の裏庭からもらってきた)孟宗竹があるということはその葉っぱもあるわけだから、集まった人たちと笹舟を作る。これが初めてという人が多いんだなあ。笹舟制作教教室をまず始める。出来た人は、まだの人に教える。その間に大人は流れをつないで、水溜まりを大きくしていく。と考えていたがそんなことをするまでもなく雨はどんどん降ってきて、水溜りは全部繋がっていった。で、こっちの端に細い竹を2本立てSALEGPのようなゴールにして、反対側から笹舟を流す。水面に置いたら触ってはダメ。フウフウ吹く人や、夏に違う活動で作ったうちわを探し出してくる人や、大騒ぎ。雨降ってくるし。雨つぶの爆弾攻撃はあるし。だいたい笹舟は、すぐ浸水してくるし。でも、運のいい船は、ちゃんとゴール。大騒ぎの大面白さ。外に出る前に透明ゴミ袋で、各自カッパを作ってから始めたのだが、スカートを履いた女の子たちの何人かは、しゃがんでやるので裾だけドロだらけ。しかし、こういうの本当に面白い。大人がそんなにいろいろしなくても、本当に面白いことはいつだって本当に面白い。僕だけか?


 予防接種はすんだ。

涼しくなったので、再び里山へ。


2021年 9月4日 涼しい、曇り。

様々な活動が、延期や、中止になっている。僕の小さい人たちとの活動も。5月に家族用のミニバンが、6丁の目の交差点の前で突然壊れた。ま、約20万キロにならんとしていたのだから、満足だ。とは言え、予想外の出費があり、収入源だった、活動も軒並み延期で、基本年金生活者としては、今、手元不如意。

そういうときに、遠くの美術館にいる若い友人から、美術館教育を巡る質問がきた。そこでも、学芸員たちを中心に美術館教育を熱心にしているのだが、何かしっくりこないという。なぜですか?さて、


博物館ー今回は美術館ーにおける、教育普及をめぐっては、はじめにいくつか確認しておかなければいけないことがあります。

①社会教育と学校教育の、教育全体の中での「各館の」立ち位置の自覚

②美術と図工の違いの自覚

これらがうまく検討され討論ーまたは話し合いーがなされれば、貴女の問題ーまたは違和感ーは無くなるのではないか。それは、貴女の思っているようになるということではなく、違和感がなくなるということだけなのだが。


「教育する、される」ということと、個人が「美術化される、なる」ということの微妙な違いを、いかに楽しく自覚するかというあたりに、「美術館での教育の存在の意義」があります。これが、学校教育の中での図工では、なかなかしにくいので、美術館教育での美術教育のダイナミックな面白さが出てくるのです。

まず自覚しなければいけないのは、公共の美術館にある基本的な美術作品の収集は「美術の収集」で、「うまく描いてあるものの収集」ではないということです。美術館に来たら、「うわあ、これ下手だあ。」と言ってよいのです。「これ、絵の具の無駄遣いではないの?」と言ってよいのです。それをみんなで言える(う)ために、あんなに様々な異なる種類の作品が、まとめて並べて飾ってあるのです。

みんな同じにうまく見えるときは、制作年をチェックしましょう。そしてその時期に何がうまいと言われていたか考えましょう。というようなことができると面白い(深い)のです。

冷静に考えれば、個人の家で、美術館のように絵を飾ってあるところはありません。玄関に飾ってあるのと、応接間に飾ってあるのと、階段の踊り場にあるのと、台所にあるのと、出口にあるのとが、こんなにも違うようにできることが、公共の美術館の公共たる所以なのです。先に「公立の」と断ったのはそのためです。個人の館(家)では、そうではありません。入り口から出口まで、統一された美意識を、これでもかと展示して構わないのです。

美術館でやるべき(美術)教育が、なんとなく見えてきたでしょうか?学校では、短期間に、知るべきことをある程度まで均一に知ることが目的です。社会教育では、そうして知ったことを使って、個人を個人化することを目的にします。

ということが自覚されていれば、あとは各館のやり方なのです。その舘のそういうことが、なんとも納得がいかない人は、どこが納得いかないか細かく見つけるしかありません。もしかすると単に話し方が気に入らないということなのかもしれません。僕がここまで話してきたことそのものを点検しようとしている舘なのかもしれません。

新たな知識を教え知らしめようとだけするのは、まるで学校で、社会教育でそうするときは、それによって何がどのように、個人に還元されるかを意識的に公開すべきです。でも、今の日本の教育環境では、そのこと自体を自覚できないようにしているのかもしれません。

美術家は、その時のその自分の自覚をできるだけ直接視覚表現にするのが仕事です。それを広範囲に受け止めるのには、美術とはそういう為になされているものなのだという大きな自覚が受け止める方になければいけません。そのためにも、美術館はあります。企画する方になぜ美術館があるのかという自覚が強くあれば、ここまで話してきたことは概ねなされているでしょう。


これまでにも、近代についてや、何やかやについての質問がきた。作家が学芸員をすると、研究者から学芸員になった人たちと、少しずれる。 特に美術館では?なのだろうか。でも、自然歴史系の博物館でも、うまくいっているところとそうでないところは、あった。学校教育と社会教育の自覚のズレは、大きいように思う。また、少しずつ書いていこう。


 知っていることだけが

見える。

見えるものは

自分だけの世界。


210324

朝と昼の気温差が大きい、乾いた空気。

快晴無風。


一昨日、愛知から帰ってきたように感じているが、思えば、既に10日も過ぎている。いやはや。

今回、愛知県豊田市美術館に呼ばれて、鑑賞ボランティアの人たちと、対話型鑑賞をめぐる様々について点検をした。などと言ってはみたが、なにしろ、豊田市美の規模は、僕の歩いた感じでは、展示室も庭園も、宮城県美の4倍ぐらいはある感じだった。普通の日でも、開館前から、入館する広範囲な年齢の人たちが、入り口の前に列を作る。金沢21世紀美術館と違って、(時期もあるだろうが)ほぼ全員日本人のように思えたが。毎回思うが、箱根の山から西は、僕の知っている日本とは違う国のようだ。

1日目、美術探検を巡る、美術と鑑賞について。2日目、美術館探検を巡る、10歳以下の人たちを対象に考える、美術と教育について。3日目、1日かけて補足と、質疑応答。

全て録音/録画して、文字起こしする予定という。

参加した人たちは、開館以来のボランティアの人たちで、みんなほぼ25年選手。僕とほぼ同じ年齢の人も多い。豊田市美は早くから「なぜ、これがアートなの?」の展覧会を開いていて、アメリア/アレナスの講演会も行っている。ここにきて、アメリアのやり方と、自分たちのやり方とのすり合わせを確認したいという風な想いを、僕は感じた。

ということを、行ってみて、初めてわかった。文字を読んで解ると、現場を歩いて解るの差は、果てし無い。


そういう美術館に、ほぼ1週間かけて、仙台港から名古屋港までフェリーに乗って往復してきた。考えることは、広範囲に、深く広くあった。行きと帰りの船は違っていたが、部屋は同じ側の海の見える窓付きだったので、行きはずっと海、帰りはずうっと陸が見えていた。海や空だけを、ずうっと見ていられることがわかって嬉しかった。見るは常に観る側にある。


帰り、夜は閉めておかなければいけない窓のカーテンを、起きてすぐに開けたら、左隅に白い富士山が見えていた。陸は見えず、海の上にポッカリと白い2等辺3角形が見える。船は右に進んでいて左端だから、すぐに視界から消えていくのかと思っていたら、それは少しずつ右に移動してきて、すぐに窓の真ん中になり、そのあたりから右手に黒く低い山並みが現れ、しばらくの間、富士山は見えていた。船は、だいぶ沖を大回りして東京湾をかわしていく。

富士山が視界から消えると、深緑の陸がずうっと見えるようになり、だいぶしてから、その黒い帯の中にポツリと白い建物の塊が現れてくる。陸からだいぶ離れた場所から見る黒い帯の上にポツリポツリと現れる白い建物群は、僕の持って行った双眼鏡では詳細はわからず、灯台では無いことぐらいしかわからなかったが、もしもあれだとすれば、こんなに海沿いに並んでいたのかと思えるくらい沢山あり、しばらく静かに落ち込んだ。白い建物群がなくなると黒い帯だけが続くようになり、すぐ細かな銀色の点々が重なる街の塊と、その奥に白く細く立つ観音が見えてきて、おお仙台だ。遠い沖から見ると、あの白い建物群と、この仙台の塊までは、ほぼこのぐらい(しか)離れていないのだということがわかる。国道6号線や常磐道を通って、あの白い建物群と、仙台がどれほど、どのように離れているかを、ゾッとしながら走り抜けたことが思い出される。沖から見るそのゾッとの仕方は、だいぶ地上からの体験とは違った見方の目を開いてくれた。沖から見(え)る感覚は、2次元でわかっていると思っていた僕の方向感覚を改めて点検させられた。

沖から見るとフェリー桟橋のある仙台港は、観音像の見える街からは、ずうっと東側にあった。僕の感覚ではあそこに街が見えるのなら、もう方向転換をしなければいけないと思ってからも船はどんどん進んでいく。もう、金華山が見えるのではと思うぐらいまっすぐ進むと、仙台港の防波堤と、火力発電所の煙突が現れて、頭の中の平面の地図を修正させられる。平面の地図を上から見たときと実際にその地図の上にいるときの感覚の差。


こういうのにびっくりするのと、美術鑑賞にのめり込んでいくときに起こる、世界の広がり方の楽しさ。いやはや。


 知っていることを確認することは

学ではない。

思いもよらぬことを知る

喜びが学ぶ。

2021年 2月23日

冬の青空。風少し強い。


この前の日曜に、沖縄県芸大でやった博物館教育論集中講義の成績表を郵便で送った。今年が年齢的には最終年だったのだが、この事情なので、沖縄には行かず、電脳経由。始めるまでが物理的に大変で、始まってからも不思議な状況。様々な人達に助けてもらって2日間、1日(8時半~5時半)、電脳の前に座り詰め。一応出席はしてるが、提出された課題を読むと、話は聞いていなかったんだなと思われる人も少しいた。とは言え、少し肩の荷が下りた。

次は、今週金曜、山形市に電車で行って、ハンディキャップの人たちの制作活動に関わっているT田さんの紹介で、芸工大の先生と対談をする。障害のある人たちの表現をめぐって(のはず)。対談というより、行ってまず話を聞く。

3月になると、中旬(10~12日)に愛知県豊田市美術館で、美術館教育の実践をめぐるお話をする。もう何も急ぐ事情は無いので、名古屋には少し早めに船で行くことにした。3日間話をして、帰りも船。ここまで過ぎれば、だいたい今年度の活動は終了。あ、そのあと急いで確定申告だ。全部終われば、気候も良くなるだろうから、又里山彷徨を始められる。


僕は、特に何も無い日はほぼ1日NHKのラジオを聞いている。今の日本の常識がどのあたりにあるのかがわかる。この時期、日本の教育をめぐっての話をよく聞く。日本では=NHKでは、教育は学校教育のことだ。なので=それは受験の乗り越え方のことだ。もちろん分かりやすくするため、話を端折ってはいるが、誰も、立派な大人になるためだとは言わない。立派な大人は、全員ほぼ異なる人なのだとも、言わない。全員異なる人(達)なので、話し合いが必要なのだ。ものすごく雑に言って、そのためのデモクラシーなのではなかったか。


この前、エッセイを書いてから、ずいぶん時が経ってしまった。生き方が、だいぶんと美術的になってきたようで、見ることすべてが毎回面白い。面白いと思ったことを反芻しながら繰り返し考えていると、最近は3日ぐらいはあっという間に過ぎる。いやはや。何回も言うが、見るは、常に自分の側にあるので、その基礎になる様々なことやものが、自覚されれば、同じものを見ても、毎回深さがどんどん広がっていく。自覚されるということは、良く知っているということでは無い。良く知らないことが自覚されるということも含まれる。いやはや。こういうのが、歳をとるということなのではなかったか。文章を書いているより、気になることを気になるままに見にいく方がずっと面白いに決まっているのだ。