誰かの演出に乗らない。

自分に演出しない。

見えることをしたいままに。


2021年12月15日 

 青空の見える曇り空。冷たい空気。


遠くにいる美術関係の若い友人から、僕が昔展覧会に関わったことがあるらしいが、それは、どんな具合だったのかという質問がきた。ううむ、そういえば、そんなことがあったなあ。


在職中1回だけ、僕が、学芸部の手伝いをしたことがあります。おぼろげに残っている記憶では、極最初=開館直後(1980年代始め)の頃で、僕自身も、もうほとんど覚えていないほど昔のことです。

ただ、それを思い出し、この歳になってから考えることで、むしろ、そのことによってわかったことの方が、大切だったのではないかと、今の僕は思っています。


それまで、多くの日本の美術館(多分博物館)では、教育普及部は、学芸部の一部だったのです。大抵、部ですらなく係でした。〇〇美術館学芸部教育普及係。確か、学芸2部という名前のところもあったと記憶しています。館内の部は、他に総務部。総務部しかなくて、その下に学芸係がありその中の学芸2係。日本での博物館での教育の意識は、そういう立場だったのです。というより社会教育が学校教育との関係でそうだったのでしょう。

その頃、僕は自覚していませんでしたが、僕の(東北大から別れたばかりの)宮教大での社会教育の担当は江馬先生と雪江先生で、多分、その頃としては、最も革新の人たちだったのだろうと思います。世界大戦が終わり最初に入ってきたアメリカナイズされた教育に心からびっくりした人たちの初めての教え子になった人たちが、皆んな、僕の先生だったのです。それを高校生で学生運動を少しかじってしまった若者が教育とはそういうものだとして聞くわけですから、面白くないはずがなかったのです。僕の立っている場所はそういう位置でした。


一応宮城県美では教育普及は最初から部として独立はしていましたが、何となく学芸部の下に位置つけられていたのだろうと思います。今では、僕の意識は教育部ですが、開館当時は普及部という名前でした。というより、一体教育普及部って何するところか具体的には誰もイメージできなかったのではないでしょうか。博物館内での教育の位置はそういうものだったのでしょう。だから、特に何の準備もなく、僕の方の心構えもなく、今度の展覧会手伝って、ということになったように記憶しています。というより、僕の方は、おお、展覧会にも、教育部は関われるのか!と思った記憶があります、展覧会を手伝うという意識よりも。


教育普及部が、独立してあると、その当時=1980年代頭初では、(それまでの日本の美術館では)1年間に行われる美術をめぐる様々な活動(解説や、創作を伴う作業や、様々なART=踊り、劇、音楽等等の講演会)が、ほぼ3か月程の間にすべて行われてしまいました。そういう経験を誰もしたことがなかったのです。そしてもちろんその次の3ヶ月も同様に続くわけです。美術館では、美術をめぐる教育活動が、展覧会のように常事行われているのです。これは、僕の知っているアメリカの美術館では、極、当たり前のことでした。

博物館での教育は、学校教育で行われるのと同様に、集中してそこにある資源を使って組み立てられる、社会教育なのです。ということが、僕を、学芸部の作業に誘ってみて初めて美術館中に実感されたのだと思います。学芸部の人達がしている展覧会の作業とほぼ同じように、博物館での教育も常に考えられ、研究され、組み立てられ、順番に実行されるのです。


学芸部の人たちが組み立てる(それまでの)教育活動は、メインの展覧会を補強するかのような活動が、中心になりがちです。そしてそれが、博物館の教育だと思われてきました。僕も、最初から日本の美術館に入っていたら、そうなっていたかもしれません。でも、美術館での教育は、作品の解説だけでは決してなく、そこにある資源としての美術を使って、各自の中に各自の美術的社会認識力意識(張り切って美意識と言ってしまおうか)を、各自が組み立てられるようにする手助けなのです。そうすることによって、美術と図工の違いも、自覚しやすくなります。

そうすると、Museum of Art は、改めてArtのための博物館として、何をやるべきなのかが浮き出てくるように思えます。Artistと呼ばれる人たち全部を眺める博物学。いやはや、面白そう。


だから、それ以来、教育普及部の人が、学芸部の人の手助けをするというようなことは行われなくなりました。


これは、なかなか良い質問でした。僕もほとんど忘れていました。でも、あのこと(僕を学芸員と同じような仕事に巻き込もうとしたことによって、彼我に、はっきりしたこと)が、あの当時の宮城県美術館のその後の在り方を、方向づけたのではないかと、今回考えて、気づきました。開館時にすでに部屋や人や予算が組み立ててあったにもかかわらず、それが何をどう意味するのかは、やっぱり、やってみるまでわからなかったのです。


今となっては、お爺さんになった僕の思い込みのようにも思えますが、学芸部と同等に教育部を持つということは、実は、このように、美術や、教育を捉えられるかにかかっている。多分あの時、このように言葉にはしなくても、僕を雇った人たちは、なんとなくこれで良しとして、僕のほぼ身勝手な活動を支援していてくれたのかと、今となって身の引き締まる思いです。俺が、今気づいただけかな? 深い感謝とともに。



 身の回りのものが、

片っ端から壊れる。

僕も、そろそろ

壊れるのだろう。


2021年12月 7日

うすら寒い、曇天。本当に寒くはない。

ここ最近、毎週土曜日は、児童館の人たち20人程と、市街地のはずれにある神社の裏山で遊ぶ日だった。が、少し前のその日は久しぶりの真面目な雨。いつもと何も変わらない、時間と場所だったが、泥は滑り、メガネは(マスクをしているのでより)曇る。

少し若い頃は、雨が降って様々行動が制限されるのは、同じ行動に新しい要素が加わってより面白いことになるという認識だったが、70歳を過ぎると、意識的にそう思い込まないと、動きが鈍くなる。だが、僕にとっては、それもまた面白い。苦し紛れの言い訳のように聞こえるかもしれないが、思えば、物心ついてから、ずうっとこれでとうしてきているので、どうしようも無い。大変になることは面白くなることなのだ。この辺りが、他の人(一緒に遊ぶ大人、最近は一部の子どもも)になかなか伝わらない。雨の時、最初の活動は、プラスチックのゴミ袋とガムテープで、簡単な雨具ーカッパ作りだ。

自分のカッパを持ってきた人は別にして、なんだか、怪しげな装束の小さい一団が、古い神社の神様に(今日来た人たちは、神様っていると思っているか?と、最初に問われる)にこんにちわをしてから、神社の裏の森を抜け(ほとんど全員が、初めて、道のない森の中を踏み分け道を作りながら歩く)、猪よけの電気フェンスの張られた畑の中をたどり、前9年の役というような、皆んなチョンマゲを結っていたかどうかもわからないぐらい昔にあった戦争の時にあったお城(砦)の趾にたどり着く。

周りの山を見、その中にある小さい(今は蕎麦畑になている)原っぱ(本丸趾)を見、少し昔に思いをはせた後、砦の周りの空堀に降りる。ああそれで、上級生が、ロープの束を持ってきたのね。近くの太い木にロープを回して結び、それにつかまって、一人ずつ後ろ向きに降りる。

というような、真剣な散歩に、トトロに会うための練習や、畑の中にある動物の足跡観察(想像)などが混ざりながら、今は畑の中の道に見えるが、少し前までは、実はメインストリートだった古い道路をめぐって午前中の足慣らし(=息合わせ)が終わる。


小さい人たちは、基本の体温が高いので、雨の中で遊ぶのに何も抵抗は無い(ように見える)。普通は、こういうことはしないので、体験が無い分、期待は大きい。で、雨に濡れて、新しい体験(ぐちゃぐちゃになり、ヌルヌルになるというような)が、始まる辺りまでに、ある興奮状態に持って行ってあれば、みんな、髪から雨のしずくを垂らしながら、夢中に遊ぶ。

何時も言うことだが、だから児童館に必要なものは、終わってから、体を温める、温水シャワーの設備なのだ。昔なら、そのあと、街の風呂屋に、みんなで行って、番台のおじさんに騒ぐなと、怒られたりしたものだった、というような。今回のような場合は、昼飯前に、全部の着替え。


午前中の遊ぶエリアの探検が終わり、昼飯を食べてから、何時もの作業エリアに移動すると、そこは檜の林の中だから(それに、雨も少し止んできた)もうほとんど、濡れる心配はいらなくなった。雨がひどい時は、ブルーシートで、まず皆んなで大きいタープを(適当に)張る作業が加わる。

これまで数年間、間伐する細い木を、みんなで切り倒し「倒れるぞおお!」をやってから、枝を切り払い、太さによって幾つかのパーツに切り分け、それら細い丸太を使って、(もののけ姫で、祟り神が森から出てくるのを見張っているもののような)三本足の物見櫓を中心にした何かツリーハウスのようなもの?をみんなでゴチャゴチャと組み立てるというようなこと(この活動がうまく文章にできない)をする。ほぼすべての小さい人たちにとって、意味ある作業は深い快感を伴う遊びとなる。小さい人たちに意味あるというあたりを意識しないと、普通、自然に、大人だけに意味あることが、大人の価値観に沿って行われる。注意深くみれば、小さい人たちが自然にしているすべての遊びはすべて深い必然に基づいて行われている。大きくなるとそのことを忘れてしまうだけだ。

初めて来た人たちは、ここにある、アスレチック遊具(と、みんな思っている)は、全部、子供達だけで作ったものだということに驚く。これらを最初に作った人たちは、今、高校生だ。僕のお姉さんは、高校生だよという人がいる。君らも、高校生になるんだよ。今は未来に続いている。ビックリ!

ノコギリで木を切る。疲れたら交代する。でも、諦めなければ、必ず切り終わる。短く切った丸太を立てて鉈で割り、簡単な板にする。鉈の背中を重い金槌で思いっきり何回も叩く。釘を打つ。優しい顔では釘はなかなか打てないし、すぐ曲がる。ドリルで、ある程度穴を開けて曲がらないようにしてから、頭が平らになるまで打ちこむ。地面すれすれまで切った切り株に、危険のキの字を釘で書く。小学生は、もう字習ってるから、簡単だ。簡単だが、必然の作業は、いくらでも出てくる。

最近は、暗くなるのが早いので、もうこの辺で帰る準備を始めなければいけない。本当は、この辺りから、各自の思い付き制作が始まることが多い。竹で、弓矢を作るとか、残った短いロープを集めて、新たにハンモックを作るとか。でも、もう帰り時間なのだ。いやはや。


基本的で絵に描いたようなワークショップは、このように始まり、行われ、終わる。


最近、僕のやるワークショップをめぐる質問が来る。僕は、ローレンスハルプリンがワークショップという教育技法を始めた頃の話を、わりと実感を持って聞いた世代なので、彼や、彼のおかみさんのアンハルプリンの実践を、未だにベースにしている(と思っている)。もともとこの活動は、教育技法なので、何のために、この活動が行われるのかを意識することは、大切なところだ。AをBに移し替えるために行われると思われがちな教育に、新たに、発展的な視点をつけられないかというあたりから、ワークショップは考え出されたというふうに、僕は捉えている。僕が、どのあたりで、先生たちから教えられたことを広げ始めたのかに気づくあたりが、ワークショップを行う側が意識すべきところだろうと、今になって思う。

で、最近行った、典型的な活動を文にしてみた。