自分の見える世界。
自分が見ている世界。
自分を見ている世界。
22年1月13日
乾いた風の吹く青い空。
いつも様々な質問をくれて、僕を覚醒させてくれる、京都の若い友人から、年明けに簡単な質問がきた。齋さんは以前、美術には瞑想が大切とおっしゃっていました。
これはなぜですか。また、大学の講義でプーさんの本が課題になっているのは
なぜですか。美術館に作品がはいれば、それは良い作品なのですか。
ううむ。単語の一つ一つの意味が、説明によって変わりそうだなあ。
美術とは何か?考えてみる。絵を描くだけでなく、表現全般を考えたほうが良いが、そこに現れてくる表現が良いものであれば、そのひとつだけで、その時代のその瞬間を通してその世界のすべて表していることに気づける。一人の人間が絵を描く(=表現する/してしまう)という行為は、その瞬間を通してその時代=世界を描くということだった。
描く(表現する)方には、当然求められるが、見る方にも、それは強く求められる。個人が意識的に見ることを通してのみ、その世界はそこに現れる。普段人はそのように見るをしていない。そのように見ていると、生活している世界は、みんなと一緒に形作られているから、なかなか先に進ま/めないからだ。
瞑想とは、その(普段はみんなと一緒に生きるために止むを得ず混同している)孤立した各々の思考を、意識的に止めて、あえて、意識的にみることだ。ということは、みんなと一緒に生きていることを一時的に止めてみることでもある。
誰でもない、私は、それを見て、何を思ったか?それは誰でもない、私が思ったものか?普通、私の思考は、それまでの様々な経験の積み重ねでできているから、それが、私の考え方だという意識にたどり着くには、ある練習がいる。誰かの影響下にあったとしても、それが私だと納得できるまで研ぎ澄まされれば、それは、私になる。たぶん人はそのように人化してきたのではないか。
時々、意識的に瞑想=自分以外の意識から、意識的に自己を遮断してみる行為をすることによって、自分に、意識せずにまとわりついていた社会からでは見つけられない、純粋な世界を再び見つけることができたりする。
あなたが質問してきたことは、このように、深く哲学的な問答で、ここまで書くのに何回か書きなおしたりしていて、それで答えが遅れていたのです。図工でない美術は、常に哲学=私たちはなぜ、どのように、ここに、意識的にいるのかを問いかけます。時々、意識的に、または無意識のうちに、一人で深くこのような問答を自分にしていない人は、美術館に入れば美術だからねというようなことを口走ってしまいます。でもその人の言うことは実は正しいのです。だから、学芸員は、常に広い勉強がいるようなのです。
今、この瞬間何を残しておくべきか。それに責任が持てるか。責任とは、誰の誰に対する、どのようなものか。公務として=公費で、それをするのですから、真面目に考えると恐ろしいことでもあります。というようなことを、公立の美術館に勤務しているとずうっとしてしまうことになります。だから、まあ、充分したと思うから、もういいよね、というのが、僕にはちょっとあるな。
A.A.ミルンが書いて、E.H.シェパードが挿絵を描いたプークマさんをめぐるお話を是非読んだほうがいいと僕が常々言う理由は、彼等が、二人ともフロックコートを日常着ていた時代の男の人たちだったということを含めて、ここに述べてきた芸術での表現をめぐる哲学的なあれこれが、実際の生活の中にはどのように現れてくるかが、深く現れているのではないかと、僕がおもうからだ。この本を読んだ後で、僕の博物館教育論を受け、その上で、質問とかしてもらうと面白いのだがと思い、毎回言っているのだが、今まで、そのような質問は一回もなかった。博物の教育って、クリストファーロビンのようになれるってことを目指すってことなのではないかと思うのだが。
毎年の初めは、しばらく駅伝とアメリカンフットボール漬けの毎日を送っていて、十分に社会的な毎日だけを送ってきた。まだ脳みそがそこにあって、その隅々をつつき周り、良し悪しはともかく、自分の世界に戻る、いい機会になった。またいつでも良い質問を。