此処も、すぐこの前まで、

メインストリート。

今は、僕の息切れの音だけが聞こえる。


12月 3日  

すこし暖かい乾いた空気。


ここしばらく、冬は2CVには乗らないできた。寒くなると、2CVに積んである小さなバッテリーでは、始動する力が足りなくなるからだった。しかし、科学は進む。今年、僕の車には最新式のバッテリーが導入された。液補充!とかしなくて良いやつ。これは、冬でも力強く一発で始動する。なので、今年は、秋遅くなってからの活動にも、2CVで出かけた。


ということは、いざという事も考えて、これも本当にしばらくぶりにスノータイヤを履くことにした。最後にはいた頃、僕は2トン用の普通型ジャッキで車体を持ち上げて、一人で作業をしていた。今年は、手伝ってくれる義理の息子もいるし、面白がって、本来の車載工具である螺子巻式ジャッキを使うことにした。これが今起こっている、全ての元になった。


車体の、ジャッキングポイントに引っ掛けポイントを当てて、グルグル回し始めると、車が持ち上がると同時に、車体のジャッキングポイント部分が外側に開き始めた。素早くタイヤを1本だけ交換して、後は、車載ジャッキ使用をやめた。

外側に開いた車体部分を、ハンマーで叩いて元に戻す。僕がタイヤ交換をする場所は、家の前の傾いた場所なので、車止めをあっちこっち動かしたりなんだり、さまざま必要な行動が多い。


一応なんとかかんとか全輪交換して、家の周りを軽く試し乗りをした。動かすとすぐヘンな音がする。下から覗いてみると、フェンダーの内側、車体の下の薄い(ま、2CVの車体は全て薄いのだが)鉄板が一部剥がれかけてズレていた。手で押し曲げて、治す=基に戻す。


で、車体は、これで来年の春まで大丈夫になったのだが、僕の右手の親指が捻挫したようだ。ううむ。

これを書いている今日は12月の第2週10日。まだ、指の捻挫は治っていない。


こういう時に、マルコムースミス氏が、泣くなっったというニュースが飛び込んできた。ううむ。

昔、北海道苫小牧での2days enduroの朝、彼がタイヤ交換をする時、周りに漂ったベビーパウダーの香り(潤滑剤として使用)が思い出される。僕も、だいぶん歳をとって当然だ。



振り返ると、見える物。

振り返ると、思う物。

でも、進む時は、前を見る。

11月21日 

 乾いた底冷えのする、しかしほわっと温かい空気。


普通、11月は、季節柄、何やかや、忙しいことが重なるが、今週は空いている。頭の老化の対応として、毎日日記を書いてみようと思うのだが、思いついた一つのことを巡って書き始めると、どんどん深く広く行ってしまって、毎回挫折する。ウジウジしている間に、次のフットボールの試合が始まるという具合だ。


僕は、退職した時に、それまであった本をだいぶ整理した。何回も読み返している物語作家は、ほぼ決まっていたので、ハードカバーの本を後ろの壁1面、ソフトカバーのを向かいの壁と分けて、だいぶ整理した。ほぼそれらの本を何回も読み返している。新たに気になるものが出たときは、図書館。


僕にとって、本を読むということは、物語を読むということだ。


 


だいぶ前、

ここはメインストリートだった。

その目印の、石。

今は、僕が通る。


2024年11月12日


9月になると、アメリカンフットボールが始まり、日本でも、そのうちの何試合かが、選ばれて実況中継される。僕は、特にどこのチームのファンというわけではないが、ゲームそのものが面白いので見てしまう。なので、しばらくブログを書くのから離れてしまう。多分、前に書いた蔵王古道登山の疲れが後を引いているのかも知れない。


最近、前から持っていた、山寺立石寺を巡る本を、読み始めた。山寺は、もちろん、何回か行ったことがある。その全ては、仙山線の電車で山寺駅まで行って、お寺に登って帰るというものだった。電車や、自動車が普通になる前から、山寺がこの辺りの名所だったことは、松尾芭蕉を引き合いに出すまでもなく、事実だ。


電車や自動車が普通になる前、山寺は、秋保から二口峠を歩いて超えていく所だったようだ。だいたい、太平洋側から、日本海側に抜けるのは、どちらにしても、どこにしても、大変だったのだ。せめてカブ(小さなモーターサイクル)で良いから、地面を辿って山寺まで行ってみたい。今年は季節的にもう無理はできないが、元気なうちにそういう形で遊びに行きたいものだ。

 

 

最近、20世紀は、

何だったんだろうと、

思う時がある。

あんなにやったのに、又は、

なので、これか。


2024年10月28日  

乾いた涼しい空気。無風。


先週の土曜日、若い友人の誘いがあって、数年ぶりに、蔵王古道に出かけた。昔、古道を全登したいと思っていて、少しずつ部分登頂していたのだが、ここしばらく行っていなかった。良い機会だと、勇んで、出掛けた。

登り始めて気づいたのだが、この前来たのは、70歳になる前だったのだ。最近でも、普段ほぼ毎日5千歩を超える犬の散歩なんかをしてはいたのだが、いたとは思っていたのだが、全く何の足しにもなっていなかった。70歳を超えたら、少し鍛え方を変えなければいけなかったのだ。又は、やる方向を変えなければいけなかったのだ。身に沁みて思い知らされた。


ちなみに「登って」などとつい書いてしまったが、誘ってくれた若い友人は、これまでも出てきたMr.Ameeで、ボウイスカウト出身の彼は、ちゃんと準備万端で、登るではなく、車でエコーラインの少し上まで行って、そこからまず下り、様子を見てそこを又、登る、を何回か繰り返す、という心づもりだった(ようだ)。でも、知っている人は知っていると思うが、下るのは、足にくる。


早く行ってしまえば、自分で驚くほど、僕は、すぐ、メロメロになった。歩き始めてすぐ、本人が思う暇なく、膝が、大口を開けてケラケラ、ガクガクと大笑いし、腰砕けになった。え、そんなに、僕の体は動かなくなっているの?と、まず本人が驚いた、程。


後で、家に帰ってから思ったが、一応、前に行った時と、同じ装備をしていった。例えば、下半身用、サポートタイツを下着に履いた。背中に背負って、パイプを口に咥えて水が飲めるような装置を背負った。アルミニュウムの軽い組み立て式ウオーキングポールを、一番長くセットした杖を持った。足回りは、しっかりした重めの登山靴ではなく、トレイルランニング用のスニーカーにした。こっちの方が、自分には最適だろうと考えたのに、70歳を過ぎた僕には、これらは、実は、重装備だった。


下半身用サポートタイツは、僕の今の筋肉には、強い抵抗でしかなくなっていた。膝が笑っていたのではなく、タイツで、体の自由な動きが妨げられていたが、正しい。背中に水を背負ってパイプで水を飲むシステムは、休む間もなく歩き続ける形を肯定する。お爺さんは、時々、腰を下ろして休むのが正しい。軽いアルミニュウムポールは、撓って、踏ん張りが聞かず、よろけた体には、かえって支えにならない。あと。ポールを使って=差し出して、引っ張り上げてもらうような時には抜けそうで、不安が募る。ポールを差し出せないのだ。登山用の靴は、あの暑く硬い底が、僕の体を支えるベースになるのであって、体幹の筋肉が、すでにふにゃふにゃの人は、そもそもふにゃふにゃの底では、何も基本が、無くなってしまうのだった。いやはや。


帰宅して、下着を脱いだ時、これらが、分かった。これほど、僕の体は。お爺さん化していたのだ。何はともあれ、しかし、面白かった。僕の周りは、今や、あらゆる意味で、自然ではなかったのだ。








身の回りの不思議さ。

私がここにいる事を、

宇宙の誰が知るだろう。
 

2024年 10月10日

今日は高曇り。最近寝覚が悪い。すぐ寝れるのに。


前に言っていた通り、芸術協会展の絵画展も観てきた。朝刊を読んでいて、仙台市役所で、杉村惇の展覧会をやっていると知ったので、まずそれを観てから、メディアテークに回ることにした。これが、失敗だったのか。今、家に帰ってきて、凄く疲れている。


彫刻展に比べると、絵画展は展示作品の量が、著しく多い。公募展はすでに終えていて、会員のみの展示でメディアテーク5階6階いっぱいに展示。杉村展は、市に寄贈した中からの9点だった。まず芸協展を観てから。杉村展に回るべきだったか。とにかく、後の祭りだ。


杉村惇は東北大の教員養成課程、美術科の教授をしていた。僕が宮教大にいた時には、美術科の先生で、僕の卒業と同時に退職した。僕は彼の最後の教え子だったことを誇りに思っている。もう一人の絵画の先生は佐藤多都夫。僕はこの二人の教え子なのだ。そして彫刻の土屋瑞穂と美学美術史の三井滉、教育法の井出則雄。いやはや、杉村先生を思い出して、そこからただ書き出してしまったが、何しろ、小学校以来、僕は先生に恵まれている。彼らの学生でいた時には、こんなに恵まれた教師に囲まれていたと言うことにはもちろん気付いておらず、ただ生意気な若者だった。何しろ、僕は、七十年代の学生運動最盛期の高校生だったのだから。彼らは、みんな亡くなってしまった。恥ずかしいから、僕も早く死んでしまって、もしあちらの世界というものがあるのなら、聴きたいことが山ほど、今はある。今、僕が、こうしてここに居るのは、ほとんど、彼らが、何気に敷いてくれたレールの上に居るだけの様な気もする。


僕は基本的に平面表現をする人では無いが、絵を描くのは描くのであって、書く、とは少し違う様に思う。晴れた空を見ると、青い空が広がっているが、何も見えないのではなく、そこに見えるのは、地球から見える宇宙だということを僕は知っている。だから、白い紙に青いクレヨンで空を描く時、僕は宇宙の青を描いているという書き方ができる。という様な描き方。描いてある空が宇宙だという見方。そういう描き方。観方。


というふうに杉村淳の絵はどこまでも見ることができて、強く僕に返ってくる。そういうふうに見ると、ただ青を塗った空は、僕に何を残すのだろう。僕は面倒くさい事を言うやつなのだ。嫌な奴だ。

そこにある絵は、それが何を表しているかどうかではない。描いた人が何を描きたかったもどうでもいいい。人は、描かれた、たとえば絵を見る時、その人が見えているものやこと、ほとんど全部が、見る人にかかっている。見ている人が見えるものだけが、見えるものだ。


杉村淳の作品は、塩竈の中央公民館に行くと見ることが出来る。多分ほぼ全ての残っている作品をそこで見ることができる。彼の自信作は、仙台市などに寄贈されているが、そのほかの、彼が残しておいた作品は、塩竈にあるのだろう。美術館の様に展示してある場所の良いところは、比べてみることが出来ると言うところだ。日本の鑑賞教育では、一つの作品をみんなでお話ししながら鑑賞するということを、最近は、よくする。やってみるとわかるが、そうなるためには、その前に、一人で、出来るだけ見尽くすことが必要だ。その上で、その各自の見尽くされたものやことを共有するのではないか。というより、鑑賞は、元々一人を深める行為なのではなかったか。

塩竈で見る杉村の作品群は、彼が、どの様に自分の見えるものやことを広げ、深めていったかが分かる。ものすごく(多分)素直な人だったので、その展開は、彼のその時の驚きと共に深く見るもの=僕に伝わってくる。


芸術協会の絵画展の話だった。描いている人が、自分の知っている事の拡大を喜びながら、描いているのが見えると良かったのだが。見る側だから平然と言ってしまうが、描いていると、楽しかったなら、よかったのだがなあ。でも、きっと楽しく、描いているのだろうなあ。

僕は、小さい人たちとの活動をする時、何をするかは、大まかに決めるが、決めるのはそこまで。何を何時までして次こうして、とは進まない。だから、急いで!とか、はい、こっちよ!とかは、ない。一緒にするって、そういうことではなかったか。出来るところまでが、出来るのだ。という描きかた。すでに決めたものまで描くのではなく、一生懸命、できるところまで、する作業。そのために、普段、見える物を深く広くしておく生活。





 今年は、2千年に入った所だ。

縄文と呼ばれる時代は、

1千年以上続いた。

そしてこの有様だ。

2024年 10月 9日

なんと!乾いた、涼しい風。今日は20度を越えないという。


僕は、長い間、美術の中でも鑑賞に特化した事柄について考えて、実行して来たので、今のように、呆然と毎日を過ごすことになっても、特に何も困った事は起こらない。今そこに見えることを噛み締めて、味わえる=鑑賞できるからだ。一人で今いるそこで、見えるものやことをじっくり噛み締め、ううんと、どう言ったら良いのだろう、味わう。鑑みる。だから、朝新聞を読むのに時間がかかる。鑑みる深さを保つためだ。


できることなら、僕は時間を潰すために、表現を使いたくない。とは言え、よく考えると、表現ほど、何だか訳のわからない物に積極的に時間を使っていると言えるものも無い。外に向けて表現することだけでなく、自己の内部に向けて表現される表現。ううむ、でも、それは、表現か?自分以外に見えない表現は表現か?というとうなことを考え始めたら、ちょっと何かの病気かとも、思ってしまう。そういう上での、特に困った事はない、なのだ。ううむ、困ったものだ。


しばらく前まで、僕も、時間が空き次第、何か、訳のわからない物を作り出していた。ある時期から、できるだけ、訳のわかる物を形にする事はしない様に注意していたが、どうしても、形にしてしまうと、見たことのある何かになってしまう。地球上に生きる人間なので、しょうがないと言えばしょうがない。仕様がない。今、音楽を聴きながらこれを書いているのだが、聴覚表現は、最近どうなっているのだろう。音楽にも、訳のわかる物を形にする行為があると思いたい。この辺りが、僕の音楽に対する限界なのだろう。


という様なことを書いたからではないのだが、ごく個人的な友人からしばらくぶりの突然なハガキが来て、9月末から宮城県芸術協会展が始まるので、見にこないかというお知らせだった。僕は、普段、美術表現だけの展覧会は、見に行かないことにしているのだが、これは個人的な相談に近い物だったので、恐る恐る、しばらくぶりの、美術展を見に出かけた。


ちょっと、びっくりした。ううむ。最近は、これまで書いて来た様な、美術とは何かとか、表現することの行き先とか、そういう事は、あまり話題に登らなくなっているのだろうか。僕は最近制作をしていないので、どうにでも言えるのだが、全体に表現「技術」が下手なのが目立った。技術は下手でも、技術とは別な領域で訴えてくるものが美術にはあった様に思っていたのだが、それも、なかった。技術を別にしても、美術が訴えてくるものは感じられなかった。一体どうしちゃったのだ。僕が年取ったからで、昔僕が製作していた頃、その時の70歳の人たちは、同じ様にもどかしく見ていたのだろうか。

今回見たのは、彫刻展で、これで終わりにするはずだったのだが、あまりの衝撃で、次の絵画展も、見に来てみることにした。そのくらい、今の表現の必然について大きな動揺を、僕は受けた。





 知っている事は、

自分の理解できること。

理解を超えるためには、

ビックリする事。

2024年 10月1日

なんと!乾いた、涼しい風。20度は越えている秋の気温。


僕は、長い間、美術の中でも鑑賞に特化した事柄について考えて、実行して来たので、今のように、呆然と毎日を過ごすことになっても、特に何も困った事は起こらない。今そこに見えることを噛み締めて、味わえる=鑑賞できるからだ。一人で今いるそこで、見えるものやことをじっくり噛み締め、ううんと、どう言ったら良いのだろう、味わう。鑑みる。だから、朝新聞を読むのに時間がかかる。こちらにあることのみが見える。


できることなら、僕は時間を潰すために、表現を使いたくない。とは言え、よく考えると、表現ほど、何だか訳のわからない物に積極的に時間を使っていると言えるものも無い。外に向けて表現することだけでなく、自己の内部に向けて表現される表現。ううむ、でも、それは、表現か?自分以外に見えない表現は表現か?というとうなことを考え始めたら、ちょっと何かの病気かとも、思ってしまう。そういう上での、特に困った事はない、なのだ。ううむ、困ったものだ。


しばらく前まで。僕も、時間が空き次第、何か、訳のわからない物を作り出していた。ある時期から、できるだけ、訳のわかる物を形にする事はしない様に注意していたが、どうしても、形にしてしまうと、見たことのある何かになってしまう。地球上に生きる人間なので、しょうがないと言えばしょうがない。仕様がない。今、音楽を聴きながらこれを書いているのだが、聴覚表現は、最近どうなっているのだろう。



という様なことを書いたからではないのだが、ごく個人的な友人からしばらくぶりの突然なハガキが来て、9月末から宮城県芸術協会展が始まるので、見にこないかというお知らせだった。僕は、普段、美術表現だけの展覧会は、基本、見に行かないことにしているのだが、これは個人的な相談に近い物だったので、恐る恐る?、しばらくぶりの、美術展を見に出かけた。


ううむ。最近は、これまで書いて来た様な、美術とは何かとか、表現することの行き先とか、そういう事は、あまり話題に登らなくなっているのだろうか。僕は最近制作をしていないので、どうにでも言えるのだが、全体に表現技術が下手なのが目立った。技術は下手でも、技術とは別な領域で訴えてくるものが美術にはあった様に思っていたのだが、それも、なかった。技術を別にしても、美術が訴えてくるものは感じられなかった。一体どうしちゃったのだ。僕が年取ったからで、昔僕が製作していた頃、その時の70歳の人たちは、同じ様にもどかしく見ていたのだろうか。

今回見たのは、彫刻展で、これで終わりにするはずだったのだが、あまりの衝撃で、次の絵画展も、見に来てみることにした。そのくらい、今の表現の必然について大きな動揺を、僕は受けた。そもそもそれは、何だったのかと言うような、ものすごく基本的な始まり方が、もう忘れられ始めているのか。いやはや。




 

地上30センチの世界と、

地上175センチの世界。

見える世界の違い。

見える同じ世界。


2024年 9月 9日

乾いた空気の風。暫くぶりに窓を開け放つ。


9月になると、アメリカンフットボールが始まる。その準備ー見る側のーで、暫く忙し?かった。朝起きて外に出てみると、突然、空気が秋になっていた。先週末まで、すっかり窓を閉めて、外からの空気を遮断して機械調整していた家の中の空気の温度が、数日前から突然自然調節になった。


先日、ちょっと用事があって、美術館にいた頃書いた文章を読み返した。ううむ、何だかこねくり回した文だった。でも、あの頃は、こう書かざるを得なかったのだとなあという事は今、わかる。僕は、他人の考えを大きく広く読んで、そこから道筋を見つけていく人では、根本的にないようだ。まず、ざっと大きく広場を見渡して、自分の行く道をとにかく決めて踏み出してしまう方法の人だったのだ。

で、今、世界は、こうなっている。多分、あの当時、僕は、ちょっと困った変な人だったのだろう。そして多分、今も。ま、それはしょうがない。人は、自分の知っていることしか知らないし、それだけを使ってものを見、判断する、今の、僕も。


僕は、ほぼ毎日、朝食の後続けて河北新報朝刊を読む。毎朝、いやになる程世界中で問題が起こっている。ううむ、これは、美術教育のうちの鑑賞教育が、上手くなされていなかったからではないかと、思う。そこに見える物を、丁寧によく見て、深く広く、自分のこれまでを総動員して見る。基本的に鑑みて、賞賛するように、観る。そういう時、基本的に、僕は、いつも一人だ。一人だが、人間としての全てだ。そこに居る、みんなが、人間としての、全ての、一人なのだ。いいとも、僕は、もうお爺さんなので、ものすごく楽天的なのだ。


おととい、しばらくぶりで、坪沼の神社の森で、市内の児童館の低学年の人達と半日活動をした。小さい人達とワークショップをする時、今回の人数は20人弱だったけれど、僕にとっては、一人一人が20人居る、だ。

その活動が上手くいく時は、20人が一気に集中する。団体でも、僕が見ているのは、その一人。その一人と、僕が深く一緒にしていることが、上手くいっている時は、それがみんなに伝わる。それをしたくない人にも、一緒にして居る事は伝わる、かのようだ。ある年齢まで、人間は、本当にすごい霊長類だ。このように自我も意識されると良いのだが。


ただ最近では、そういう活動をすると、僕は次の日起き上がれない。今日は、もう何日か過ぎた日の朝なのだが、朝飯食ってから、もう一度寝て、今起きて来たところだ、いやはや。



 空気を切る音。

手に感じる音。

地球上に生きる不思議。


2024年 8月24日

湿度の高い高温。微風。


僕が、電脳を使い始めたのは、初めてノート型のiMacが出た頃の事で、なんだか訳も分からず、面白がって様々いじっていた。ただ、もちろん、みんなも知っているとうり、僕は知ったかぶりで飽きやすい。


なぜ、こう言うふうに書き始めたかというと、最近、僕の携帯電話/電脳のあまり開いていないマーク(アプリケーション?)の整理をしていたら、そこのメッセンジャーに、だいぶ前にやり取りした文章が出てきたのだ。しかも、その大部分が、僕の返信なしのまま。ううむ、何なんだろう。

知っている人は知っているように、僕は様々な意味で、出不精なのだ。電脳上でも。初めの頃は、面白がっていたのに、それが、自分の理解を超えて広がると、一気に興味をなくす。みんなと仲良くするのが下手なのか?ま、色々理由は考え、作れるが、みんなとやるのが、(多分)下手なんだな。ま、それもいい。とは言え、、、。

メッセンジャーでは、この次みんなで会おうね、までは書いてあるのだが、その返信が残っていない。一体、この動きはどのように収束したのだろう。ここまで読んで、あ、それ私だと思った人は、連絡ください.携帯の番号は変わっていません。いやはや,心からすみません。


僕は、昭和26年生まれなので、最近の誰でもSNS?SMS?とかで、自分の日常生活が普通に他人と繋がることに違和感を感じてしまう。誰とでも、仲良くすることに、違和感はないが、何だろうなあ、自己と他己の区切りが下手というかないというか、うまくできないというか、そのこと自体に違和感を持つ。自己と他己は、異なって当たり前で、当たり前を共有したい気持ちがうまく理解できない。基本、人間は一人で、一人で居る他人と一緒に、寂しくやっていくのだ。


人間が、仲間的集団生活の生き物だということは理解できるが、その境界が、最近、あっという間に、僕の理解できる境界線を軽く、はるかに超えていってしまっている。人間は、もっと一人でいて、その上での集団だったのではないか。勿論、ほとんどの人が静かにそうして居ることは、理解しているにしても。


一人で電脳の前に座って、この文を書いていると、この向こうにいる、見えない人たちの息遣いが聞こえてきて、何か不思議な気持ちがする。その想いは同時に自分に戻ってきて、今の自分のいる位置や自覚される深さへと広がる。


自分が思いついた考えを、広めようとする仕事は、ある時期まで、一生懸命してきたつもりだが、その結果が、今、こうなって、ある。すでに、それを受け入れる社会情勢は、僕の理解を超えた状況になってきているから、これから、何か言う気は、僕にはない。と言うより、そうしてきたから、そう/こうなって居るのだ。ううむ、そのようにして、世の中は、できて、動いて来た/行くのだろう。



 木刀を20回、

毎朝素振りする。

左手の小指と、

右足の踏み出し。

2024年 8月13日

生暖かい湿った空気。微風。

Expression-Impressionを巡る。

真剣に見る事が始まると、見る事自体も表現になってくるようだと、僕は考えている。


僕は、まず立体を使って、自己の内面の表現を試みる人として、美術の世界に関わりを持ち始めた。僕の具体的な表現素材は薄い鉄板で、それを小さく切り刻んだ物を溶接していく方法で3次元の空間を創っていくという方法だった。純粋に表現だけをするという行為は、僕にとっては極最近(とはいえ、今、考えたら、もう30年ほど昔のことだった)になってからの意識だ。


人間全体にとっても、純粋に表現だけをする行為は、極最近(とはいえ、こちらは150年ほどか)になって確定してきた物なのではないか。

僕の知っている範囲での、個人が純粋に表現だけする行為は、極最近まで、ほぼ無視されたか、気が狂ったと分類された、ように思う。個人が表現するためには、自己の存在の肯定や、そういう事があるということを肯定する社会の成熟や、そっちとこっち両側の、社会の成熟がいる。それほど、個人が、純粋に表現だけする!という行為は特殊、特別なことのように、今の僕には、思える。

自分=個人が、さまざまな状況でそこー自分が自覚できる範囲内ーで起こったことを、impressし、すでにそこにある物やことと照らし合わせて、expressに転化する。その過程を自覚し実行すると、これは、ものすごく面白いことだが、そういう事を、面白がれるには、自と他の両方の十分な成熟が必要だ。


最近、やっと表面化してきた、さまざまな差別的な意識は、まずこの表現を充分に自分のものにすれば、ほとんど問題にはならないはずだ。そうして、その上で、個人は個人の世界を決めればいいだけだ。まず全ての存在の肯定の上での、個人の個別な決定。

話がしつこいが、このような状況で、一歩足を踏み出すと、見えるものは、見ることになって、その途端、impressは即expressになる。

この状態で、僕の犬と一緒に夕方の散歩に出ると、僕は一緒に彼(犬)の見える物を意識することになり、飽きない世界へと出かけることになる。これだから、生きる事はやめられない。


ここに至ってー犬の見ている物の空想上の同義化ー、これまで、人間が、何か表現して残ってきたものの存在意義は、僕の中で、僕の見たものと同じになる。(多分、犬の見える物を含め)そこに残してある物ー美術館に展示してある作品のようなーは、まず、僕がそこにいて見える物でしかない。僕は、日本人で、日本の教育機関で深く広く学んできたから、つい、そこにある作品の歴史や背景や意味を知ろうとしてしまう。だが、そんな物や事は、実は、ま、どうでもいい事だ。


そこに見える物を見ている物にすることこそが、まず、求められる。これは、年齢や、その他、その人の社会的な立ち位置とは、全く関係無い。興味が移ったり広がったりして、必要になったらあ、それらを調べればいい。最近は、すごく簡単にそういう事ができるようになった。もちろん、検索して出てくる物は、そうまとめている誰かの意識である事を忘れてはいけない。長文の原点を読み、簡潔にまとめてくれた誰かが、それを書いた。有難い。


ここまで書いてきて、ふと右を見たら、しばらく前に東北歴史博物館に見に行った、ラスコー洞窟の壁画展の入場券が、ピンナップしてあった。ずうっと前に、見に行ったのだが、洞窟の壁面を実際と同じに再現してその上に絵画を再現してあって、僕はいたく感動した。僕の愛読書の一つにジーン・アウルの大地の子エイラがあるのだが、僕ら現生人類が、地球上の生き物として残してきた物と新たに獲得してきた物のせめぎ合い上で、残ったもの。その上で、今、僕はここにこうして居て、これを書いている。不思議だ。という鑑賞。感想でなく、鑑賞。僕は少し具体的な表現家であったので、こういう事を感じられるのだろうか。

実際に表現している時、表現者は、表現しているとは考えてはいないのではないか。それが、ある表現かどうかは、しばらく時間が経ってから、それを見る/た人が個人的に決めるのではないか。




 歩きながら考えると、

考えるように歩いている。

確か僕は、

考える前に歩け、
ではなかったか。

2024年 7月29日

厚い曇。同様に厚い暑さ。雨はまだ。


僕は、美術館で、鑑賞の手伝いをするのを仕事にしてきた。

みんなも知っているとうり、絵なんか各自好きにみることが大切で、かつ好きに見るが極意なのだ。思えば、そんなところに、僕のような仕事が成立するもんなのだろうか。


だが、時々、次のような質問が来る。「絵を見るときに大切な事は何ですか?」


思えば小中学校では、視覚表現をめぐる教育は図画工作の実技教育で、鑑賞は、入っていない。鑑賞という単元は昨今は明確に枠があるが、昔ー僕が受ける教育をしていた頃、は「見る」をめぐって何か教育のようなことがなされる事は無かったと、僕の経験では、思う。記憶では、小学6年生の時1時間、中学になってから各学年毎、年1回ぐらいでなかったか。ただ、その内容は、提示される絵画を歴史的に、または技術的に「解説」するもので、「鑑賞」の内容ではなかったと思う。その頃は、何の自覚もなかったが。


絵だけで無く、人間が自分の身の回りを見るとき、理解している=できる物や事は、自分の知っているー頭の中に自覚して知っている事だけだ。だからほとんどの場合、人は、きちんと前を見てまっすぐ迷わずスタスタ歩く。普通、絵を見る時も。同じようにまっすぐスタスタ迷わず見る。見えるものは、知っている事や物だけだから、何と無く全てを知っっていると、点検なしに信じているからだ。

で、時々思わぬところで、思わぬ事態がきっかけで、「びっくりすること」が起こる。そして素晴らしい!とか、なんてことだ!とか感嘆の声を挙げる。


ううんと、これは、鑑賞の授業をしていないからだと、僕は思っている。「鑑賞」。鑑みて賞賛する自覚を持つことは、練習しないとできないことの一つだ。ボールを投げるように。野球選手のようにうまく速く遠く投げる必要は無いが、河原に出たときにそこらにある石を気持ち良く投げる程度に。様々な場面と技法で。


僕たち日本人はほぼ全ての人が、だいぶ昔から読み書き算盤の基礎を学び、それを基に社会の理解を深める。で、こういう国になっている。世界的に見れば、奇跡的なことの積み重ねで、ここまで来た。

多分明治時代以前は、絵画(空間の認識)が日本画だったので、言葉による空間の認識は、今とはちょっと違ってより拡大深化していたのではなかろうか。そこに続いた西洋の認識が、基本的に植民地化されないための富国強兵を補強する物に特化された方向だった。この知識の偏りが、僕達の折角の日本的空間認識をごく偏った、西洋文化の表面を理解だけしやすくする方向に偏った様に、僕には思える。文章がこんがらかってきてしまうなあ。それとも、僕の基礎的な空間認識が、少し偏っているのかも。


とは言え、(例えば例としての宮城県)美術館には、基本的に、近代以降の西洋美術が並んでいる。何回も言うが、見るのは個人なので、そこにある絵を見るときに、まずしなければいけない事は、「状況をそっちに持っていくこと」では無く、そこにあるー見える物や事を「こっちに降ろしてくること」だ。勉強を新たにすることではない。そこで見える事や物を、そのときそこにいる自分の世界に下ろしてくる事だ。初めて会った人との鑑賞の手助けをすると言う、僕の仕事は、まずこれができれば、仕事はほぼ終わったも同然だ。


ひとつの例。現代美術の鑑賞。絵の具が山盛り使ってある絵の始まり方。小学5年生。「みんなは絵の具自分で買ったりしてるのか?」「1本いくらだった?」絵の具が山盛り使ってあるのは、見ればわかる。その実感を確認する。実際の経験をそこに見える物に使って、その時間を確認する。「各自」が大切。まとめる必要は元々ない。正解を最初から求めるのでは、そもそもない。各自の経験をその絵を使って、活性化する状況に落としてくるのが、目的。そこにある大きな絵が、何色の絵の具の何本ほどの量で作られているのかを各自が実感できれば、そこから起こる何かは、僕の関係するところでは無い。起らない人もいるだろうということも、僕の関係するところでは、多分、無い。起こった事はごく個人的な事なので、発表する事は必要な事なのだろうか。話したい人は、僕にこそっと話してくれればいい。それでおしまい。例えば、クラスのみんなで、美術を鑑賞するって、目的は、本当は、こんなところだったように、僕には思える。


最初の質問を覚えているだろうか。絵を見るときに大切な事は何ですか?

僕が、こういう質問の時、即刻答える、自分の内側を見る事ですよの答えは、こういうことだった。自分が知っている事に高低優劣は、そもそもない。自分がそう知っているから、こういられるので、それが自分だ。この瞬間ごとに、僕の脳内情報は点検修正され、記憶し直される。僕は人間なので自我を自覚できるから、基本的にはその記憶情報を基に、私は今ここにこう、居るのだろう。


見る事は、自覚する事で、簡単に言おうとしても、これだけかかり、かつどんどん分からなくなる。多分、これは哲学だからだ。なので、一応、小学校では、美術は習わず、図画工作なのだろう。もちろんん、そこにある物をそこにあるものとして見て記憶する練習として絵に描く。それは、基礎的な美術として必須で重要だ。でも、目的は、それを使って、訳わかんない世界に深く踏み込んでいけるようになることだ。楽しみながら。





 ここに居るって、

どう言うことだ。

僕は、わかっているのか。

ここって、宇宙の、ここだぜ。


2024年 7月15日

昨日は山形にいた。太陽の光が、ここより近い。

僕の家の裏には、小さな川/堀が流れている。僕が知っているその川の名前は屋根川。今は何と言うのだろう。千と千尋に出てきたような立派な神様の名前でなくていいから、でも、昔近所の子供たちが裸で一年中遊んでいた時のような名前、ついているといいのだが。線路の向こうに広がる田圃の排水溝から始まって、と言うことはその上を囲む千貫山の水源を集めて、この下の五間堀に繋がる。今はすっかりコンクリートで固められていて、滅多なことでは水が溢れるようなことはない。でも、僕が(多分)10歳になる前は、割としょっちゅう氾濫していた記憶がある。洪水で、家の周りが水浸しになっている写真も残っている。小さい僕と弟のH記君が水浸しの道路の上に突き出している昔の実家の門柱に困ったような、しかし何か嬉しそうな顔をして、寄り添って立っている。


僕は、今、1階の僕の古いフランス車をしまってあるガレージの隣に付いている、設計図上は倉庫となっている小さな部屋に、作り付けのベッドを作り、そこに寝ている。そこを見た僕の古くからの友人が、少し照れたような笑いを見せながら、「寝台列車だな。」といったことを、誇りと共に、思い出す。昨日、山形に住む小3の孫に、おじいちゃんの寝台列車みたいなベッドの話をしたら、寝台列車って何?と真剣に聞かれて、夏休みに見にきなさいと話したところだ。

とは言え、その10歳以前の屋根川だったら、今、僕が寝ている1階にある作り付けの寝台だったら、僕は、ある朝、ふと気付くと、水の底にいたりするのだろうか。なぜかワクワクする。


ふと気付くと、普段の僕の生活は、ものすごく定型化していて、僕以外の人が、僕の生活に代わりに入ってきても、ほぼ問題なく毎日の生活を送れるのではないかと思える。


2階に住んでいる人たちは、みんな働いたり、学校に行っているから、彼らがすっかり出るまで、邪魔にならないよう、計画されている活動などで決まった時間までに出なければいけない時を除いて、僕は1階のその僕の寝台で寝ている。ま、普通は朝8時まで。

最近、8時に一旦起きるのだがが、その後再びベッドに戻ってバタリ、気がつくと、もう9時。ということが多い。ま、おじいさんなのだから、しょうがない。


とにかく起きて、2階に行って着替えをし、食堂で朝飯を食べる。特に何かない限り、朝食はいつも同じ。アメリカの普通のカフェにあるのと同じ、大型の円筒形のコーヒーマグにたっぷり牛乳を入れたコーヒー(カフェオレではなく)に、息子手作りのカンパーニュを極薄く切ったやつ1枚。軽く焼いたそれにオリーブオイルとザータルをかけ、蜂蜜。できたら丸森耕野産のやつ。カフェオレボウル1杯の手作りヨーグルトにその時あるジャムをかける。今なら、庭に生えている枇杷の実ジャム。食べながら、老眼鏡をかけて、河北新報を隅々読む。だいたい、8時に始まれば、9時前にはご馳走様。

読み替えすと、確かに定型化はしているが、なんかうるさそう。代わりに入り込むのには覚悟がいりそうだ。


紙の新聞をとうして世界を感じることは、僕にとって割と大切なことなのではないか、と最近思っている。決まった一社の新聞を、宣伝を含めて、隅々読むだけで、同時に世界を見渡すことが出来るように思える。そのためには、一つのことを巡って、常にその全く反対の考えを見渡してみるような心構えが必要だが。今の世の中は、SNSやYouTubuを始め、みる気がなくても、雑多な小さい情報が全方向から入って来る。


小さい頃、基礎教育で習った具体的な社会は、最近、根底からひっくり返るような発見が続き、驚くが、僕らが知っている、いわゆる民主主義社会は、ほぼ僕が学習した範囲の中で右往左往しているように見える。こんな酷いことはみんなすまいと思っていたことは、やはりする人がでてきた。多分、生き方の中における経済が占める部分が、ひどく大きなウエイトを占めるようになってしまったからだろう。清貧などと言う言葉は、もうだいぶ前から日本語の中から消えてしまった。消えたことそのものではなくその言葉を無くしてしまった方向で社会の全ての動きが拡大でなく収束してしまったことが失敗だったように思う。


裏の小さい川の名前が、いまだにあることを祈りたい。