学ぶ事は。自分の知らないことを知る事だ。


だが、多分、自分が知っている事だけ、知る事が出来る。


新たなことを知ることは、命懸けの冒険に近い。


2024年 1月24日    

最近ではこのくらいの風は無風ということになるのだろうという風の日。気持ちよく雲の浮かぶ青空。風が強くなってきた。


僕は昭和26年生まれの、普通の日本人なので、小学校から学校に通い(僕が小さい頃、僕の家では幼稚園に行くというのは少し贅沢だったーのだと思う)中学高校と順番に進み、受験がどうのこうのとやたら騒ぐ時代に入る直前に大学に滑り込んだ。それら基礎教育的な学校ではずっと図工は好きで得意だったし、本を読むのは苦にしなかったので、画集を含むたくさんの本を読んだり見たりした記憶がある。

だが。思えば大学に行くまで、日本画をめぐるお話は聞いた事がなかった。僕が行った大学は教育大学だったので、美術を専攻しても、入学時西洋画と日本画のどちらかに専攻が分かれるという事はなかった。絵画と彫刻は4年の卒業制作時に分かれたが。


ただ僕は何も意識しなくても日本語を流暢に喋る日本人なので、いつの時代の、どんな日本画を見ても、あまり動揺した記憶はない。だが日本人でない人間の描いた平面絵画ー表現では、何回かこの人は何見てんだ!と動揺した記憶はある。

ということを自覚できただけでも、教育大で美術を専攻したかいはあった様に、今は思う。


塩釜の杉村惇美術館で、彼の作品を見た時の基本にあるのは、そういう目を自覚した僕の平面絵画を見る脳だ。

もう具象表現は終わって、これからの絵画は抽象だと世界中で言われ始めた頃の日本の具象表現家としての杉村を今見ると、だから、すごく面白い。多分今だから、誰にでも面白い。独りよがりだと言うことを自覚しながら見ることを含めて面白い。面白いと言う事は、各自のそっち側に各々広がる世界がどんどん広がっていくことを感じると言うことかもしれない。


行っている事がどんどんわからなくなってきているなあ。でも良いのだ。こう言うのが、とっしょり(年寄り)の戯言というものなのだ。