表現する事自体を自覚する。
表現の広さを自覚する。
内側に広がる見えるもの。
2024年 2月3日
今日は土曜日なので、1日外に出ない予定。夕方の犬との散歩も、誰かに代わってもらおう。晴れている。
この前、北仙台駅前待ち合わせで、古い友達のKと、暫くぶりの行き当たりばっ旅をした。電車で普段降りない駅に降りる。でも思えば、美術館で働いていた頃は、ここは通勤で下車する駅だった。ここから美術館までと、仙台駅から美術館までの距離はほぼ同じなのだ。
北仙台駅には感じの良い小さな「待合室」がある。南に面した大きな窓から駅前が広く見えるので、待ち合わせ場所の郵便局も見える。
こういう気分の良い雰囲気の小さい部屋には、そこに住んでいる様な人がいるものだが、ここにもいて、携帯電話を耳に当てたままずうっと誰かが出るのを待っている。そのほか何人かいる人は、電車を待っている人(たぶん)で、出たり入ったりしている。
外が見える場所(椅子)は、最初ふさがっていたので、最初は駅の外に立っていたが、暫くして空いたので室内に入った。耳に電話を当てていた人は、暫くしてつながった様で、はっきりした声で話し始めた。もちろんこちらに聞く気はないのだが、そういうところで電話を耳に当てている人はそういう生活が普通の人なのだろうから、普通の声で電話の向こうの人と相談を始めた。個人情報をめぐる、そこで聞いた物語についてはこれ以上書かないが、ううむ、いかに僕は普通に幸運に幸福なのかをめぐって、暫く深く考えた。
こういう事があるので、打ち合わせや予約予定なしの、行き当たりばったりの世界は捨て難い。
暫く後、そこから、彼女の小さい銀色の車に乗って、昔、落合に住んでいた頃みんなでよくいった街道沿いのトンカツ屋により、いまだ(たぶんコロナ禍を乗り越えて)繁盛していたその店で、カキフライ定食(牡蠣だけのはなくて海鮮フライだったが)を食べたりしながら、しばらくぶりの道をできるだけ選んで、家に帰った。
あそこに行こう、ではなく、あっちの方に行くかだけで動き始めて、出会す旅。本当は昔の人の様に徒歩だと、もっと面白いのだろうが、でも、まあ、予定のない動きかたは、予定にない動きがそちらから始まって、受け止める心さえ開いていれば、いつも面白い世界が見える。