日本の歴史は、

長く深く限定的なので、

たぶんほとんどの人は

親戚なのではないか。


2024年 2月15日

空気は冷たい様なのだが、気温は暖かい。変な感じ。高曇り。


いろんな処で美味しいものを食べる機会があり、手持ちの現金を使ってしまったので朝一で銀行に行った。ただ、今日は年金支給日なので、混んでいた。

僕も、今や純粋な年金生活者なので、そのまま静かに帰って来て、今これを書いている。お金は午後に下そう。


給料生活者だった頃は、さまざまな理由で77Bに口座をもっていたが、退職したので、家から下駄履いて30秒のところに在る、相双五城信用組合(この漢字を書くのに暫くかかった。福島の相馬市と双葉郡とにあった銀行と、宮城県大河原の五城銀行とが、震災後に合併してできた信用組合の銀行だ)に、口座を2つ作った。作ってから暫くになるが、いまだに誕生日になるとお祝いの湯呑みが届く。

銀行の大小は、深く考えると、さまざま僕の知っている範囲を超える問題があるのだろうが、自分の家から下駄履いてすぐ行けるところにあるシステムを僕は使いたい。ガラス戸を引き開けて、頼んでおいた雑誌を取りに行く本屋さんと同じ様に。


考えるに僕は鑑賞の専門家だ。ここ50年程は、主に美術を中心とした鑑賞をして来たが、最近(70歳少し前頃から)は、意識して、見えるもの全般に鑑賞の対象を広げる様にしている。ふと眼に止まったものに、何か気を引かれ、ついじっくり見る。そうして、鑑みて賞賛する。


『鑑みる』のだから、見る側に照らし合わせるものがないといけない。日本では、「ね、だから勉強しないとダメなのよ、」となりがちだ。ま、とにかく鑑みて、そうして「賞賛する」。

だが、どちらにしろ、そこに見えるものを認識するには、人間はそれまで知っていることだけを使ってそれを知る以外ない。お母さんから生まれて目を開け、見えることをわかって以来、「見えるもの」はその時自分の知っていることだけを組み合わせて自分のものにしていく。

生まれて、目の見え始めた小さい人を見ているとそれはよくわかる。よく見ていると、もしかすると、人間の子供は大人がまだ見えないと言っている時期でも、僕ら(大人)が見えると意識しているのとは違う形と方法で認識はして、観ているのではないかと思うことがある。僕たちは地球上に生きる相当にうまく出来た生き物なので、たぶん、自分にはまだわかっていない能力が/も在るのではなかろうか。そ言うことも鑑みながら、賞賛する。


だが、物を見ることは、誰でもしている事だから、鑑賞の専門家だと張り切って言うほどのことでもない。ただ、ふと立ち止まって、今見ているなと自覚してしまうと、暫く深くそっち側に行ってしまうので、面白い。