移動するを、観ている。
私は、観ているので、
嬉しく楽しい。
2024年 5月23日
生暖かい空気。風が重い。
昨日、2CVを中新田の自動車屋に自走で運び込み、車検を取るために置いてきた。中新田自動車は、いつも、相談に乗ってもらっている会社で、ここしばらく車検はここにお願いしている。帰りは。代車のホンダ。ハイブリッド。その落差。一日おいて、今日、用事があって少し長い間乗った。
もうすっかり、人間と機械の関係は変わってしまったのだな。運転が楽しいではなく、運転は車の一部だった。
僕は、鑑賞教育の専門家だ。最近いつもその辺りの説明が難しい。美術の専門家?美術鑑賞?鑑賞教育?美術教育?ね、いやはやでしょう?各々の守備範囲が、広く、混乱し、そこに学校教育との混乱がかぶさってくる。
もう、すでに、誰かがどこかでその辺りの踏まえ方を書いて/まとめているかもしれない。特にいつも聞き耳を立てているわけでは無いので、最近の美術鑑賞教育をめぐる、この辺りの基礎的なあり方をめぐっては、毎回少し混乱する。
昨日今日、完全アナログから、完全デジタルへの、一人の人間が有無を言わさず通り抜けるときに起こる軽い動揺。これは人間だから可能なのであって、いや、待てよ、発達した機械の方がよりうまく適応するのか?この辺り、僕の中ではほぼ同等に思えて、より深く広く混乱する。
今日は、もう5月30日になった。
途中で1回嵐の前触れが通りすぎ、今日は気温が上がってきた。
月末は、病院に行く予定が立て込む。23日にこの記事を書いて以降、ほぼ毎日行きつけの様々な病院に行って、一月分ー所によっては三ヶ月分ーの薬をもらう。毎日元気そうに暮らしているが、さまざまな症状を薬で抑えている。この時期に何時も様々思う。
それ以外の日は何も考えず、できるだけ1日1個何かをしながら普通に暮らす。江戸時代の落語に出てくる御隠居さんの暮らし方が、僕の理想なのだが、僕はあんなに人品が整っていない。ま、できるだけできるように生活を整えよう。
美術は、日本では表現ー出る方だけが注目されがちだが、全く同じ強さで、観る方も大切だ。それに気付けたことは、僕にとって美術館に居たことの利点だ。むしろ僕にとって、美術は観る事だ。expressionよりimpression常に主体はこちらにある。梨木香歩の裏庭を再び読み始めている。