歩きながら考えると、

考えるように歩いている。

確か僕は、

考える前に歩け、
ではなかったか。

2024年 7月29日

厚い曇。同様に厚い暑さ。雨はまだ。


僕は、美術館で、鑑賞の手伝いをするのを仕事にしてきた。

みんなも知っているとうり、絵なんか各自好きにみることが大切で、かつ好きに見るが極意なのだ。思えば、そんなところに、僕のような仕事が成立するもんなのだろうか。


だが、時々、次のような質問が来る。「絵を見るときに大切な事は何ですか?」


思えば小中学校では、視覚表現をめぐる教育は図画工作の実技教育で、鑑賞は、入っていない。鑑賞という単元は昨今は明確に枠があるが、昔ー僕が受ける教育をしていた頃、は「見る」をめぐって何か教育のようなことがなされる事は無かったと、僕の経験では、思う。記憶では、小学6年生の時1時間、中学になってから各学年毎、年1回ぐらいでなかったか。ただ、その内容は、提示される絵画を歴史的に、または技術的に「解説」するもので、「鑑賞」の内容ではなかったと思う。その頃は、何の自覚もなかったが。


絵だけで無く、人間が自分の身の回りを見るとき、理解している=できる物や事は、自分の知っているー頭の中に自覚して知っている事だけだ。だからほとんどの場合、人は、きちんと前を見てまっすぐ迷わずスタスタ歩く。普通、絵を見る時も。同じようにまっすぐスタスタ迷わず見る。見えるものは、知っている事や物だけだから、何と無く全てを知っっていると、点検なしに信じているからだ。

で、時々思わぬところで、思わぬ事態がきっかけで、「びっくりすること」が起こる。そして素晴らしい!とか、なんてことだ!とか感嘆の声を挙げる。


ううんと、これは、鑑賞の授業をしていないからだと、僕は思っている。「鑑賞」。鑑みて賞賛する自覚を持つことは、練習しないとできないことの一つだ。ボールを投げるように。野球選手のようにうまく速く遠く投げる必要は無いが、河原に出たときにそこらにある石を気持ち良く投げる程度に。様々な場面と技法で。


僕たち日本人はほぼ全ての人が、だいぶ昔から読み書き算盤の基礎を学び、それを基に社会の理解を深める。で、こういう国になっている。世界的に見れば、奇跡的なことの積み重ねで、ここまで来た。

多分明治時代以前は、絵画(空間の認識)が日本画だったので、言葉による空間の認識は、今とはちょっと違ってより拡大深化していたのではなかろうか。そこに続いた西洋の認識が、基本的に植民地化されないための富国強兵を補強する物に特化された方向だった。この知識の偏りが、僕達の折角の日本的空間認識をごく偏った、西洋文化の表面を理解だけしやすくする方向に偏った様に、僕には思える。文章がこんがらかってきてしまうなあ。それとも、僕の基礎的な空間認識が、少し偏っているのかも。


とは言え、(例えば例としての宮城県)美術館には、基本的に、近代以降の西洋美術が並んでいる。何回も言うが、見るのは個人なので、そこにある絵を見るときに、まずしなければいけない事は、「状況をそっちに持っていくこと」では無く、そこにあるー見える物や事を「こっちに降ろしてくること」だ。勉強を新たにすることではない。そこで見える事や物を、そのときそこにいる自分の世界に下ろしてくる事だ。初めて会った人との鑑賞の手助けをすると言う、僕の仕事は、まずこれができれば、仕事はほぼ終わったも同然だ。


ひとつの例。現代美術の鑑賞。絵の具が山盛り使ってある絵の始まり方。小学5年生。「みんなは絵の具自分で買ったりしてるのか?」「1本いくらだった?」絵の具が山盛り使ってあるのは、見ればわかる。その実感を確認する。実際の経験をそこに見える物に使って、その時間を確認する。「各自」が大切。まとめる必要は元々ない。正解を最初から求めるのでは、そもそもない。各自の経験をその絵を使って、活性化する状況に落としてくるのが、目的。そこにある大きな絵が、何色の絵の具の何本ほどの量で作られているのかを各自が実感できれば、そこから起こる何かは、僕の関係するところでは無い。起らない人もいるだろうということも、僕の関係するところでは、多分、無い。起こった事はごく個人的な事なので、発表する事は必要な事なのだろうか。話したい人は、僕にこそっと話してくれればいい。それでおしまい。例えば、クラスのみんなで、美術を鑑賞するって、目的は、本当は、こんなところだったように、僕には思える。


最初の質問を覚えているだろうか。絵を見るときに大切な事は何ですか?

僕が、こういう質問の時、即刻答える、自分の内側を見る事ですよの答えは、こういうことだった。自分が知っている事に高低優劣は、そもそもない。自分がそう知っているから、こういられるので、それが自分だ。この瞬間ごとに、僕の脳内情報は点検修正され、記憶し直される。僕は人間なので自我を自覚できるから、基本的にはその記憶情報を基に、私は今ここにこう、居るのだろう。


見る事は、自覚する事で、簡単に言おうとしても、これだけかかり、かつどんどん分からなくなる。多分、これは哲学だからだ。なので、一応、小学校では、美術は習わず、図画工作なのだろう。もちろんん、そこにある物をそこにあるものとして見て記憶する練習として絵に描く。それは、基礎的な美術として必須で重要だ。でも、目的は、それを使って、訳わかんない世界に深く踏み込んでいけるようになることだ。楽しみながら。