空気を切る音。

手に感じる音。

地球上に生きる不思議。


2024年 8月24日

湿度の高い高温。微風。


僕が、電脳を使い始めたのは、初めてノート型のiMacが出た頃の事で、なんだか訳も分からず、面白がって様々いじっていた。ただ、もちろん、みんなも知っているとうり、僕は知ったかぶりで飽きやすい。


なぜ、こう言うふうに書き始めたかというと、最近、僕の携帯電話/電脳のあまり開いていないマーク(アプリケーション?)の整理をしていたら、そこのメッセンジャーに、だいぶ前にやり取りした文章が出てきたのだ。しかも、その大部分が、僕の返信なしのまま。ううむ、何なんだろう。

知っている人は知っているように、僕は様々な意味で、出不精なのだ。電脳上でも。初めの頃は、面白がっていたのに、それが、自分の理解を超えて広がると、一気に興味をなくす。みんなと仲良くするのが下手なのか?ま、色々理由は考え、作れるが、みんなとやるのが、(多分)下手なんだな。ま、それもいい。とは言え、、、。

メッセンジャーでは、この次みんなで会おうね、までは書いてあるのだが、その返信が残っていない。一体、この動きはどのように収束したのだろう。ここまで読んで、あ、それ私だと思った人は、連絡ください.携帯の番号は変わっていません。いやはや,心からすみません。


僕は、昭和26年生まれなので、最近の誰でもSNS?SMS?とかで、自分の日常生活が普通に他人と繋がることに違和感を感じてしまう。誰とでも、仲良くすることに、違和感はないが、何だろうなあ、自己と他己の区切りが下手というかないというか、うまくできないというか、そのこと自体に違和感を持つ。自己と他己は、異なって当たり前で、当たり前を共有したい気持ちがうまく理解できない。基本、人間は一人で、一人で居る他人と一緒に、寂しくやっていくのだ。


人間が、仲間的集団生活の生き物だということは理解できるが、その境界が、最近、あっという間に、僕の理解できる境界線を軽く、はるかに超えていってしまっている。人間は、もっと一人でいて、その上での集団だったのではないか。勿論、ほとんどの人が静かにそうして居ることは、理解しているにしても。


一人で電脳の前に座って、この文を書いていると、この向こうにいる、見えない人たちの息遣いが聞こえてきて、何か不思議な気持ちがする。その想いは同時に自分に戻ってきて、今の自分のいる位置や自覚される深さへと広がる。


自分が思いついた考えを、広めようとする仕事は、ある時期まで、一生懸命してきたつもりだが、その結果が、今、こうなって、ある。すでに、それを受け入れる社会情勢は、僕の理解を超えた状況になってきているから、これから、何か言う気は、僕にはない。と言うより、そうしてきたから、そう/こうなって居るのだ。ううむ、そのようにして、世の中は、できて、動いて来た/行くのだろう。



 木刀を20回、

毎朝素振りする。

左手の小指と、

右足の踏み出し。

2024年 8月13日

生暖かい湿った空気。微風。

Expression-Impressionを巡る。

真剣に見る事が始まると、見る事自体も表現になってくるようだと、僕は考えている。


僕は、まず立体を使って、自己の内面の表現を試みる人として、美術の世界に関わりを持ち始めた。僕の具体的な表現素材は薄い鉄板で、それを小さく切り刻んだ物を溶接していく方法で3次元の空間を創っていくという方法だった。純粋に表現だけをするという行為は、僕にとっては極最近(とはいえ、今、考えたら、もう30年ほど昔のことだった)になってからの意識だ。


人間全体にとっても、純粋に表現だけをする行為は、極最近(とはいえ、こちらは150年ほどか)になって確定してきた物なのではないか。

僕の知っている範囲での、個人が純粋に表現だけする行為は、極最近まで、ほぼ無視されたか、気が狂ったと分類された、ように思う。個人が表現するためには、自己の存在の肯定や、そういう事があるということを肯定する社会の成熟や、そっちとこっち両側の、社会の成熟がいる。それほど、個人が、純粋に表現だけする!という行為は特殊、特別なことのように、今の僕には、思える。

自分=個人が、さまざまな状況でそこー自分が自覚できる範囲内ーで起こったことを、impressし、すでにそこにある物やことと照らし合わせて、expressに転化する。その過程を自覚し実行すると、これは、ものすごく面白いことだが、そういう事を、面白がれるには、自と他の両方の十分な成熟が必要だ。


最近、やっと表面化してきた、さまざまな差別的な意識は、まずこの表現を充分に自分のものにすれば、ほとんど問題にはならないはずだ。そうして、その上で、個人は個人の世界を決めればいいだけだ。まず全ての存在の肯定の上での、個人の個別な決定。

話がしつこいが、このような状況で、一歩足を踏み出すと、見えるものは、見ることになって、その途端、impressは即expressになる。

この状態で、僕の犬と一緒に夕方の散歩に出ると、僕は一緒に彼(犬)の見える物を意識することになり、飽きない世界へと出かけることになる。これだから、生きる事はやめられない。


ここに至ってー犬の見ている物の空想上の同義化ー、これまで、人間が、何か表現して残ってきたものの存在意義は、僕の中で、僕の見たものと同じになる。(多分、犬の見える物を含め)そこに残してある物ー美術館に展示してある作品のようなーは、まず、僕がそこにいて見える物でしかない。僕は、日本人で、日本の教育機関で深く広く学んできたから、つい、そこにある作品の歴史や背景や意味を知ろうとしてしまう。だが、そんな物や事は、実は、ま、どうでもいい事だ。


そこに見える物を見ている物にすることこそが、まず、求められる。これは、年齢や、その他、その人の社会的な立ち位置とは、全く関係無い。興味が移ったり広がったりして、必要になったらあ、それらを調べればいい。最近は、すごく簡単にそういう事ができるようになった。もちろん、検索して出てくる物は、そうまとめている誰かの意識である事を忘れてはいけない。長文の原点を読み、簡潔にまとめてくれた誰かが、それを書いた。有難い。


ここまで書いてきて、ふと右を見たら、しばらく前に東北歴史博物館に見に行った、ラスコー洞窟の壁画展の入場券が、ピンナップしてあった。ずうっと前に、見に行ったのだが、洞窟の壁面を実際と同じに再現してその上に絵画を再現してあって、僕はいたく感動した。僕の愛読書の一つにジーン・アウルの大地の子エイラがあるのだが、僕ら現生人類が、地球上の生き物として残してきた物と新たに獲得してきた物のせめぎ合い上で、残ったもの。その上で、今、僕はここにこうして居て、これを書いている。不思議だ。という鑑賞。感想でなく、鑑賞。僕は少し具体的な表現家であったので、こういう事を感じられるのだろうか。

実際に表現している時、表現者は、表現しているとは考えてはいないのではないか。それが、ある表現かどうかは、しばらく時間が経ってから、それを見る/た人が個人的に決めるのではないか。