最近、20世紀は、

何だったんだろうと、

思う時がある。

あんなにやったのに、又は、

なので、これか。


2024年10月28日  

乾いた涼しい空気。無風。


先週の土曜日、若い友人の誘いがあって、数年ぶりに、蔵王古道に出かけた。昔、古道を全登したいと思っていて、少しずつ部分登頂していたのだが、ここしばらく行っていなかった。良い機会だと、勇んで、出掛けた。

登り始めて気づいたのだが、この前来たのは、70歳になる前だったのだ。最近でも、普段ほぼ毎日5千歩を超える犬の散歩なんかをしてはいたのだが、いたとは思っていたのだが、全く何の足しにもなっていなかった。70歳を超えたら、少し鍛え方を変えなければいけなかったのだ。又は、やる方向を変えなければいけなかったのだ。身に沁みて思い知らされた。


ちなみに「登って」などとつい書いてしまったが、誘ってくれた若い友人は、これまでも出てきたMr.Ameeで、ボウイスカウト出身の彼は、ちゃんと準備万端で、登るではなく、車でエコーラインの少し上まで行って、そこからまず下り、様子を見てそこを又、登る、を何回か繰り返す、という心づもりだった(ようだ)。でも、知っている人は知っていると思うが、下るのは、足にくる。


早く行ってしまえば、自分で驚くほど、僕は、すぐ、メロメロになった。歩き始めてすぐ、本人が思う暇なく、膝が、大口を開けてケラケラ、ガクガクと大笑いし、腰砕けになった。え、そんなに、僕の体は動かなくなっているの?と、まず本人が驚いた、程。


後で、家に帰ってから思ったが、一応、前に行った時と、同じ装備をしていった。例えば、下半身用、サポートタイツを下着に履いた。背中に背負って、パイプを口に咥えて水が飲めるような装置を背負った。アルミニュウムの軽い組み立て式ウオーキングポールを、一番長くセットした杖を持った。足回りは、しっかりした重めの登山靴ではなく、トレイルランニング用のスニーカーにした。こっちの方が、自分には最適だろうと考えたのに、70歳を過ぎた僕には、これらは、実は、重装備だった。


下半身用サポートタイツは、僕の今の筋肉には、強い抵抗でしかなくなっていた。膝が笑っていたのではなく、タイツで、体の自由な動きが妨げられていたが、正しい。背中に水を背負ってパイプで水を飲むシステムは、休む間もなく歩き続ける形を肯定する。お爺さんは、時々、腰を下ろして休むのが正しい。軽いアルミニュウムポールは、撓って、踏ん張りが聞かず、よろけた体には、かえって支えにならない。あと。ポールを使って=差し出して、引っ張り上げてもらうような時には抜けそうで、不安が募る。ポールを差し出せないのだ。登山用の靴は、あの暑く硬い底が、僕の体を支えるベースになるのであって、体幹の筋肉が、すでにふにゃふにゃの人は、そもそもふにゃふにゃの底では、何も基本が、無くなってしまうのだった。いやはや。


帰宅して、下着を脱いだ時、これらが、分かった。これほど、僕の体は。お爺さん化していたのだ。何はともあれ、しかし、面白かった。僕の周りは、今や、あらゆる意味で、自然ではなかったのだ。








身の回りの不思議さ。

私がここにいる事を、

宇宙の誰が知るだろう。
 

2024年 10月10日

今日は高曇り。最近寝覚が悪い。すぐ寝れるのに。


前に言っていた通り、芸術協会展の絵画展も観てきた。朝刊を読んでいて、仙台市役所で、杉村惇の展覧会をやっていると知ったので、まずそれを観てから、メディアテークに回ることにした。これが、失敗だったのか。今、家に帰ってきて、凄く疲れている。


彫刻展に比べると、絵画展は展示作品の量が、著しく多い。公募展はすでに終えていて、会員のみの展示でメディアテーク5階6階いっぱいに展示。杉村展は、市に寄贈した中からの9点だった。まず芸協展を観てから。杉村展に回るべきだったか。とにかく、後の祭りだ。


杉村惇は東北大の教員養成課程、美術科の教授をしていた。僕が宮教大にいた時には、美術科の先生で、僕の卒業と同時に退職した。僕は彼の最後の教え子だったことを誇りに思っている。もう一人の絵画の先生は佐藤多都夫。僕はこの二人の教え子なのだ。そして彫刻の土屋瑞穂と美学美術史の三井滉、教育法の井出則雄。いやはや、杉村先生を思い出して、そこからただ書き出してしまったが、何しろ、小学校以来、僕は先生に恵まれている。彼らの学生でいた時には、こんなに恵まれた教師に囲まれていたと言うことにはもちろん気付いておらず、ただ生意気な若者だった。何しろ、僕は、七十年代の学生運動最盛期の高校生だったのだから。彼らは、みんな亡くなってしまった。恥ずかしいから、僕も早く死んでしまって、もしあちらの世界というものがあるのなら、聴きたいことが山ほど、今はある。今、僕が、こうしてここに居るのは、ほとんど、彼らが、何気に敷いてくれたレールの上に居るだけの様な気もする。


僕は基本的に平面表現をする人では無いが、絵を描くのは描くのであって、書く、とは少し違う様に思う。晴れた空を見ると、青い空が広がっているが、何も見えないのではなく、そこに見えるのは、地球から見える宇宙だということを僕は知っている。だから、白い紙に青いクレヨンで空を描く時、僕は宇宙の青を描いているという書き方ができる。という様な描き方。描いてある空が宇宙だという見方。そういう描き方。観方。


というふうに杉村淳の絵はどこまでも見ることができて、強く僕に返ってくる。そういうふうに見ると、ただ青を塗った空は、僕に何を残すのだろう。僕は面倒くさい事を言うやつなのだ。嫌な奴だ。

そこにある絵は、それが何を表しているかどうかではない。描いた人が何を描きたかったもどうでもいいい。人は、描かれた、たとえば絵を見る時、その人が見えているものやこと、ほとんど全部が、見る人にかかっている。見ている人が見えるものだけが、見えるものだ。


杉村淳の作品は、塩竈の中央公民館に行くと見ることが出来る。多分ほぼ全ての残っている作品をそこで見ることができる。彼の自信作は、仙台市などに寄贈されているが、そのほかの、彼が残しておいた作品は、塩竈にあるのだろう。美術館の様に展示してある場所の良いところは、比べてみることが出来ると言うところだ。日本の鑑賞教育では、一つの作品をみんなでお話ししながら鑑賞するということを、最近は、よくする。やってみるとわかるが、そうなるためには、その前に、一人で、出来るだけ見尽くすことが必要だ。その上で、その各自の見尽くされたものやことを共有するのではないか。というより、鑑賞は、元々一人を深める行為なのではなかったか。

塩竈で見る杉村の作品群は、彼が、どの様に自分の見えるものやことを広げ、深めていったかが分かる。ものすごく(多分)素直な人だったので、その展開は、彼のその時の驚きと共に深く見るもの=僕に伝わってくる。


芸術協会の絵画展の話だった。描いている人が、自分の知っている事の拡大を喜びながら、描いているのが見えると良かったのだが。見る側だから平然と言ってしまうが、描いていると、楽しかったなら、よかったのだがなあ。でも、きっと楽しく、描いているのだろうなあ。

僕は、小さい人たちとの活動をする時、何をするかは、大まかに決めるが、決めるのはそこまで。何を何時までして次こうして、とは進まない。だから、急いで!とか、はい、こっちよ!とかは、ない。一緒にするって、そういうことではなかったか。出来るところまでが、出来るのだ。という描きかた。すでに決めたものまで描くのではなく、一生懸命、できるところまで、する作業。そのために、普段、見える物を深く広くしておく生活。





 今年は、2千年に入った所だ。

縄文と呼ばれる時代は、

1千年以上続いた。

そしてこの有様だ。

2024年 10月 9日

なんと!乾いた、涼しい風。今日は20度を越えないという。


僕は、長い間、美術の中でも鑑賞に特化した事柄について考えて、実行して来たので、今のように、呆然と毎日を過ごすことになっても、特に何も困った事は起こらない。今そこに見えることを噛み締めて、味わえる=鑑賞できるからだ。一人で今いるそこで、見えるものやことをじっくり噛み締め、ううんと、どう言ったら良いのだろう、味わう。鑑みる。だから、朝新聞を読むのに時間がかかる。鑑みる深さを保つためだ。


できることなら、僕は時間を潰すために、表現を使いたくない。とは言え、よく考えると、表現ほど、何だか訳のわからない物に積極的に時間を使っていると言えるものも無い。外に向けて表現することだけでなく、自己の内部に向けて表現される表現。ううむ、でも、それは、表現か?自分以外に見えない表現は表現か?というとうなことを考え始めたら、ちょっと何かの病気かとも、思ってしまう。そういう上での、特に困った事はない、なのだ。ううむ、困ったものだ。


しばらく前まで、僕も、時間が空き次第、何か、訳のわからない物を作り出していた。ある時期から、できるだけ、訳のわかる物を形にする事はしない様に注意していたが、どうしても、形にしてしまうと、見たことのある何かになってしまう。地球上に生きる人間なので、しょうがないと言えばしょうがない。仕様がない。今、音楽を聴きながらこれを書いているのだが、聴覚表現は、最近どうなっているのだろう。音楽にも、訳のわかる物を形にする行為があると思いたい。この辺りが、僕の音楽に対する限界なのだろう。


という様なことを書いたからではないのだが、ごく個人的な友人からしばらくぶりの突然なハガキが来て、9月末から宮城県芸術協会展が始まるので、見にこないかというお知らせだった。僕は、普段、美術表現だけの展覧会は、見に行かないことにしているのだが、これは個人的な相談に近い物だったので、恐る恐る、しばらくぶりの、美術展を見に出かけた。


ちょっと、びっくりした。ううむ。最近は、これまで書いて来た様な、美術とは何かとか、表現することの行き先とか、そういう事は、あまり話題に登らなくなっているのだろうか。僕は最近制作をしていないので、どうにでも言えるのだが、全体に表現「技術」が下手なのが目立った。技術は下手でも、技術とは別な領域で訴えてくるものが美術にはあった様に思っていたのだが、それも、なかった。技術を別にしても、美術が訴えてくるものは感じられなかった。一体どうしちゃったのだ。僕が年取ったからで、昔僕が製作していた頃、その時の70歳の人たちは、同じ様にもどかしく見ていたのだろうか。

今回見たのは、彫刻展で、これで終わりにするはずだったのだが、あまりの衝撃で、次の絵画展も、見に来てみることにした。そのくらい、今の表現の必然について大きな動揺を、僕は受けた。





 知っている事は、

自分の理解できること。

理解を超えるためには、

ビックリする事。

2024年 10月1日

なんと!乾いた、涼しい風。20度は越えている秋の気温。


僕は、長い間、美術の中でも鑑賞に特化した事柄について考えて、実行して来たので、今のように、呆然と毎日を過ごすことになっても、特に何も困った事は起こらない。今そこに見えることを噛み締めて、味わえる=鑑賞できるからだ。一人で今いるそこで、見えるものやことをじっくり噛み締め、ううんと、どう言ったら良いのだろう、味わう。鑑みる。だから、朝新聞を読むのに時間がかかる。こちらにあることのみが見える。


できることなら、僕は時間を潰すために、表現を使いたくない。とは言え、よく考えると、表現ほど、何だか訳のわからない物に積極的に時間を使っていると言えるものも無い。外に向けて表現することだけでなく、自己の内部に向けて表現される表現。ううむ、でも、それは、表現か?自分以外に見えない表現は表現か?というとうなことを考え始めたら、ちょっと何かの病気かとも、思ってしまう。そういう上での、特に困った事はない、なのだ。ううむ、困ったものだ。


しばらく前まで。僕も、時間が空き次第、何か、訳のわからない物を作り出していた。ある時期から、できるだけ、訳のわかる物を形にする事はしない様に注意していたが、どうしても、形にしてしまうと、見たことのある何かになってしまう。地球上に生きる人間なので、しょうがないと言えばしょうがない。仕様がない。今、音楽を聴きながらこれを書いているのだが、聴覚表現は、最近どうなっているのだろう。



という様なことを書いたからではないのだが、ごく個人的な友人からしばらくぶりの突然なハガキが来て、9月末から宮城県芸術協会展が始まるので、見にこないかというお知らせだった。僕は、普段、美術表現だけの展覧会は、基本、見に行かないことにしているのだが、これは個人的な相談に近い物だったので、恐る恐る?、しばらくぶりの、美術展を見に出かけた。


ううむ。最近は、これまで書いて来た様な、美術とは何かとか、表現することの行き先とか、そういう事は、あまり話題に登らなくなっているのだろうか。僕は最近制作をしていないので、どうにでも言えるのだが、全体に表現技術が下手なのが目立った。技術は下手でも、技術とは別な領域で訴えてくるものが美術にはあった様に思っていたのだが、それも、なかった。技術を別にしても、美術が訴えてくるものは感じられなかった。一体どうしちゃったのだ。僕が年取ったからで、昔僕が製作していた頃、その時の70歳の人たちは、同じ様にもどかしく見ていたのだろうか。

今回見たのは、彫刻展で、これで終わりにするはずだったのだが、あまりの衝撃で、次の絵画展も、見に来てみることにした。そのくらい、今の表現の必然について大きな動揺を、僕は受けた。そもそもそれは、何だったのかと言うような、ものすごく基本的な始まり方が、もう忘れられ始めているのか。いやはや。