身の回りの不思議さ。

私がここにいる事を、

宇宙の誰が知るだろう。
 

2024年 10月10日

今日は高曇り。最近寝覚が悪い。すぐ寝れるのに。


前に言っていた通り、芸術協会展の絵画展も観てきた。朝刊を読んでいて、仙台市役所で、杉村惇の展覧会をやっていると知ったので、まずそれを観てから、メディアテークに回ることにした。これが、失敗だったのか。今、家に帰ってきて、凄く疲れている。


彫刻展に比べると、絵画展は展示作品の量が、著しく多い。公募展はすでに終えていて、会員のみの展示でメディアテーク5階6階いっぱいに展示。杉村展は、市に寄贈した中からの9点だった。まず芸協展を観てから。杉村展に回るべきだったか。とにかく、後の祭りだ。


杉村惇は東北大の教員養成課程、美術科の教授をしていた。僕が宮教大にいた時には、美術科の先生で、僕の卒業と同時に退職した。僕は彼の最後の教え子だったことを誇りに思っている。もう一人の絵画の先生は佐藤多都夫。僕はこの二人の教え子なのだ。そして彫刻の土屋瑞穂と美学美術史の三井滉、教育法の井出則雄。いやはや、杉村先生を思い出して、そこからただ書き出してしまったが、何しろ、小学校以来、僕は先生に恵まれている。彼らの学生でいた時には、こんなに恵まれた教師に囲まれていたと言うことにはもちろん気付いておらず、ただ生意気な若者だった。何しろ、僕は、七十年代の学生運動最盛期の高校生だったのだから。彼らは、みんな亡くなってしまった。恥ずかしいから、僕も早く死んでしまって、もしあちらの世界というものがあるのなら、聴きたいことが山ほど、今はある。今、僕が、こうしてここに居るのは、ほとんど、彼らが、何気に敷いてくれたレールの上に居るだけの様な気もする。


僕は基本的に平面表現をする人では無いが、絵を描くのは描くのであって、書く、とは少し違う様に思う。晴れた空を見ると、青い空が広がっているが、何も見えないのではなく、そこに見えるのは、地球から見える宇宙だということを僕は知っている。だから、白い紙に青いクレヨンで空を描く時、僕は宇宙の青を描いているという書き方ができる。という様な描き方。描いてある空が宇宙だという見方。そういう描き方。観方。


というふうに杉村淳の絵はどこまでも見ることができて、強く僕に返ってくる。そういうふうに見ると、ただ青を塗った空は、僕に何を残すのだろう。僕は面倒くさい事を言うやつなのだ。嫌な奴だ。

そこにある絵は、それが何を表しているかどうかではない。描いた人が何を描きたかったもどうでもいいい。人は、描かれた、たとえば絵を見る時、その人が見えているものやこと、ほとんど全部が、見る人にかかっている。見ている人が見えるものだけが、見えるものだ。


杉村淳の作品は、塩竈の中央公民館に行くと見ることが出来る。多分ほぼ全ての残っている作品をそこで見ることができる。彼の自信作は、仙台市などに寄贈されているが、そのほかの、彼が残しておいた作品は、塩竈にあるのだろう。美術館の様に展示してある場所の良いところは、比べてみることが出来ると言うところだ。日本の鑑賞教育では、一つの作品をみんなでお話ししながら鑑賞するということを、最近は、よくする。やってみるとわかるが、そうなるためには、その前に、一人で、出来るだけ見尽くすことが必要だ。その上で、その各自の見尽くされたものやことを共有するのではないか。というより、鑑賞は、元々一人を深める行為なのではなかったか。

塩竈で見る杉村の作品群は、彼が、どの様に自分の見えるものやことを広げ、深めていったかが分かる。ものすごく(多分)素直な人だったので、その展開は、彼のその時の驚きと共に深く見るもの=僕に伝わってくる。


芸術協会の絵画展の話だった。描いている人が、自分の知っている事の拡大を喜びながら、描いているのが見えると良かったのだが。見る側だから平然と言ってしまうが、描いていると、楽しかったなら、よかったのだがなあ。でも、きっと楽しく、描いているのだろうなあ。

僕は、小さい人たちとの活動をする時、何をするかは、大まかに決めるが、決めるのはそこまで。何を何時までして次こうして、とは進まない。だから、急いで!とか、はい、こっちよ!とかは、ない。一緒にするって、そういうことではなかったか。出来るところまでが、出来るのだ。という描きかた。すでに決めたものまで描くのではなく、一生懸命、できるところまで、する作業。そのために、普段、見える物を深く広くしておく生活。