これだけ使かったのだから、
そろそろ、ヘタるのも、
当たり前だ。
2025年1月20
乾いた冷たい空気。高曇り。
雲の切れ目から覗く、落ちていく夕日がゾッとするほど美しい。
アメリカンフットボールが、佳境に入って来ているので、空いた時間は、ほぼテレヴィを見ている。今年も、思いもかけないチームががんばっていて、目が離せない。アメリカからの実況は、時差で、日本では朝10時ぐらいから始まる。向こうは冬時間の夜だ。相撲も始まったし。
それ以外は、ほぼ毎日、決まったルーティン。時々、街に粕漬けを買いに行ったり、頼んである本を、街に1軒だけある本屋に取りに行ったり。何はともあれ、早く暖かくならないかな。僕は7月生まれだ。
犬とほぼ毎日夕方散歩をする。彼とのルートも、ほぼ毎日同じで、僕は困らない。そうしていると、ごくたまに、犬が今日はこっちに行きましょうという時がある。そういう時は逆らわないで、いつもとは違う方向に行く。おお、この辺りは最近はこうなっていたのかと思ったり、思いがけなく阿武隈川の堤防の上に出て、思いがけない程、美しい夕日の沈む場面に出会ったりする。思いがけない場面は、毎日思ったとうりにしか動いていないからこそ起こる。探していないだけ、驚きは大きい。驚ける様にしておきたい。
ごく時々、昔書いた本を巡って、質問をしてくる人がいる。有難い。それがないと僕は、1年間でも、誰とも会話せずにすごすのではないか。あ、家の人たちとは少しお話をしないといけないから、誰ともというわけにはいかないな。でも、そのくらい話をしないでいると、自分の考えをうまくまとめて話せなくなってくる気がしてくる。頭の中が勝手に進みすぎて、出てくる言葉としてまとまらなくなる。質問した人が帰ってから、あれも、これもあったと、支離滅裂に動揺する。どうも、僕は、質問に答える人で、ある問題をめぐってまとまった話をする人ではないのかも知れない。逃げ口上だな。
家の柴犬と散歩をしていると、突然不思議な世界に踏み込んでしまう時がある。彼の中の骨組みがやたら意識的に鮮明に見えてくる。それらが包み込んでいる内臓も見えてくる。僕も、ほぼ同じに出来ていて、でも足2本で立って、リードを握りながら、彼の後ろを歩いている。地球上にあって、僕が見ることのできるもの全ては、そこにそうしてある/いる事は証明され理解されていることになっている。見える見えないに関わらず、そこに在る物や事はそこに居る。突然、それらがそこにそうしていることが全部、ものすごく不思議に思えてくる。地球が地球になって以来、だいぶ時間がかかったにせよ、そこにそれがそうして居る、在る。うまい具合にそういう形になって、その様に。その中に、僕もまざっている。
ふと気付けば、木綿の下着に、石油から作った繊維の防寒下着を着、石油から作ったフリースと、ジャケットを重ね、靴なんか履いて。毛皮以外は裸の体を、ふわふわの肉球だけの裸の4本足で、僕と同じ地面の上を元気に歩いている、僕の体とほとんど同じ作りの少し小さい生き物を、紐でひきながら、僕は、歩いている。夕空を見上げて、美しいなんて、言ったりしている。とにかく、ここまで来たことを、広く自覚したい。