見えると、観える。
知っっているものだけが、
観える。
観えるもので、世界は
できている。
2025年 4月10日
高曇。無風のほの暖かい空気。
最近ふと思い出したのだが、1970年代の後半、3年半ニューヨークに住み、最初の娘も生まれ、自動車の免許も取得できそうになり、家を立てる土地=ニューヨーク市郊外の森の下見もし、もう、日本にもお別れだという心持ちになっていた。では最後に、両親に娘を見せに行って、後はアメリカ人になるだけ。そういう決心で、ごく小さい娘を抱いて、かみさんと一時!帰国した。1979年何月だったろう。こんなに道路、狭かったっけ、というのが最初の感想だった。すぐ帰るつもりだったので、荷物もほとんど開かなかった。
そうして、確か帰国3日目に、宮城教育大学に、同じ様な心積りで挨拶に行ったのだ。最初に、なぜか、三井先生の研究室に行った。
そうしたら、帰国の挨拶もそこそこに、ああ、齋くん、良いとこに来てくれたという話になり、ちょうど今、宮城県で美術館を建てる話があり、君、ニューヨークの美術館にいたんでしょう?ということになった。何回か、様々な質問に、はい、と言った記憶はあるが、詳しいことは記憶に無い。何回か、公式な試験を受けた。そういう試験は、暫くご無沙汰だったから、へんな感じだった。そういう手続を経て、あっという間に、アメリカに帰る方向は無くなり、そのまま両親の家に転がり込んで、様々な手続きをし、日本に戻ってしまった。ううむ。今、無理矢理思い出してみると、なんとも、凄まじい。
何しろちょっとした帰国のつもりだったから、着る物もお金も何もなく、最初の頃は、ほとんどカーディガンか何かで面接試験などに出かけていた。しょうがないので、胸だけは張って行った。どうだったんだろうねえ。両親も、心配だったろうと今は思うが、こういうのが、アメリカ風なのだろうと思っていたのだろうか。今となっては、二人とも死んでしまったので、聞く術もない。
ある意味、そういうふうにして、宮城県美術館は、僕の中では始まった。